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ロシア五人組

2007-01-12 02:50:19 | 音楽史
MightySONGS BY THE MIGHTY HANDFUL
 
 
Sergej Larin(t)
Eleonora Bekova(pf)

「若いロシア楽派は、<民謡の主題>から楽想を借用することによって、交響曲を若返らせようとつとめた。きらびやかな宝石を刻むことには成功したが、そこで主題と、展開をあたえるために余儀なくされたものとのあいだに、厄介な不均衡がありはしなかっただろうか?
……しかし間もなく民謡主題の流行が音楽の世界にひろがった。作曲家は東から西へと、くまなく歩きまわる。百姓の年老いたくちびるから無邪気な繰り返し句をもぎとる。それは、美妙なレースをまとわされたすがたにすっかり狼狽し、そのためあわれにも気づまりで、穴があれば入りたい様子である。だが権柄ずくな対位法が、彼らに、平和なふるさとを忘れなければいけないと、勧告する」(ドビュッシー)

19世紀には各地で国民主義的な動きが高まりを見せたが、音楽の面においても、自国の民謡や伝統的な音楽形式を重視し、ドイツ=オーストリアの器楽・管弦楽やイタリア・オペラの模倣から脱し、独自の芸術音楽を創造しようとする動きが現れるようになった。これらの動きは総称して国民楽派と呼ばれる。

19世紀前半までのロシアでも、音楽の中心はやはりイタリア・オペラであり、外国人によって組織されたオペラ団が帝室から支援を受けていたが、こうした状況を変えていこうと考えたのがミハイル・グリンカであった。彼はロシア以外の国で名を知られた最初のロシア人作曲家で、「近代ロシア音楽の父」と呼ばれている。富裕な商人の子として生まれたグリンカは幼少の頃から諸外国で勉強する機会を得、西欧文化を吸収したが、自国の民謡に基く音楽、またロシア的な題材によるオペラなど、民族的な性格を備えたロシア音楽が創造されなければならないと考えた。
このグリンカと1833年にグリンカと出会ってから本格的に作曲に取り組むようになり、ロシア語のイントネーションから旋律を作り出すデクラメーションの技法を実践したアレクサンドル・ダルゴムィシスキーの二人によって、ロシアの音楽文化は大きな発展への第一歩を踏み出すことになった。

その後、アントンとニコライのルビンシテイン兄弟とミリイ・バラキレフが現れ、ロシアの近代音楽は二つの流れに分かれることとなった。
アントン・ルビンシテインはリストとも並び称される19世紀最大のピアニストの一人であったが、オペラ中心のロシアの音楽状況にドイツ・ロマン派の交響曲や管弦楽を導入し、西欧の音楽をロシアに根付かせるべく尽力した。また、1859年にロシア音楽協会を設立し、1862年にはペテルブルク音楽院を設立して、アカデミックな音楽教育でプロフェッショナルな音楽家を育成する基盤を整えた。弟のニコライも優れたピアニストであり、彼もまた1866年にモスクワ音楽院を設立した。チャイコフスキーはアントンの弟子であり、ニコライとは親友であった。
一方、バラキレフは愛弟子としてグリンカを継承し、セザール・キュイ、モデスト・ムソルグスキー、ニコライ・リムスキー=コルサコフ、そしてアレクサンドル・ボロディンとともに「ロシア五人組」を結成し、指導者的な役割を果たすとともに、1862年に無料の音楽学校を設立するなどした。「ロシア五人組」は、バラキレフ以外は専門的な音楽家ではなく、別の分野で本業を持っていたことが特徴であり、反西欧、反アカデミズム、反プロフェッショナリズムを標榜し、ロシア独自の芸術音楽の確立に貢献した。
バラキレフは音楽理論に精通し、五人組の指導者的な役割を果たした。堡塁建築術の教授であったキュイは批評家としても活動し、五人組のスポークスマン的な役割を担った。下級官吏であったムソルグスキーは五人組の理念に最も忠実な姿勢を持ち、ダルゴムィシスキーが創始したデクラメーションを用いるなどユニークな音楽を生み出した。軍人であったリムスキー=コルサコフはバラキレフから音楽理論を叩き込まれ、オーケストレーションの大家となった。化学者で軍医でもあったボロディンは美しく抒情的な旋律を持った音楽を生み出した。
しかし、「ロシア五人組」は1870年代に入ると、急速にその結束力を失ってしまった。その原因には、中心人物であったバラキレフが音楽活動から一時的に退いたことや「ボリス・ゴドゥノフ」の評価をめぐってムソルグスキーが五人組から離れてしまったこと、また反アカデミズムであったはずの五人組がロシア音楽協会の指揮者やペテルブルク音楽院の教授に招聘されるようになったことが挙げられる。

「ロシア五人組」の蜜月時代をセザール・キュイは次のように回想している。

「我々は結びつきの強い、若い芸術家の集まりだった。その頃は学ぶところはどこにもなかったので(音楽院は存在していなかった)、自分たちで自己教育を始めたのだった。偉大な作曲家によって書かれた作品の演奏を通して、それらすべての作品は、その技術的な側面や創造的な側面において、余すところなく我々の批判や分析の対象となった。我々は若く、その判断は厳しかった。モーツァルトやメンデルスゾーンに対する態度は軽蔑に満ちていたし、シューマンにも反対し、彼らのことは誰もが気にもとめなかった。我々はリストやベルリオーズに熱狂し、ショパンやグリンカを崇拝した。我々は音楽の形式について、標題音楽や声楽曲、とりわけオペラについて意見をたたかわし、激しい議論を続けた(ジャムをなめながら紅茶を4杯も5杯も飲むのがおきまりだった)」

→「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫)
→Burkholder/Grout/Palisca A HISTORY OF WESTERN MUSIC(W.W.Norton&Company)


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