むらぎものロココ

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フランツ・シューベルト

2006-05-22 02:09:02 | 音楽史
SchubertSCHUBERT
DIE SCHONE MULLERIN, D.795
 
Peter Schreier(Tenor)
Andras Schiff(Piano)


フランツ・シューベルト(1797-1828)はウィーンの郊外に生まれた。彼の父親は教師で、生活は豊かではなかった。シューベルトは父や兄から音楽の手ほどきを受けたが、驚くべき才能を示したため、7歳の頃から教会のオルガン奏者であったミヒャエル・ホルツァーのもとで音楽の教育を受けることになった。11歳のときに寄宿制神学校(コンヴィクト)の奨学金を得、宮廷礼拝堂の聖歌隊に入ることができ、サリエリから音楽教育を受けるとともに、学校の楽団でヴァイオリンを演奏する機会や指揮をする機会を得た。声変わりしてコンヴィクトを離れてからは父の学校で教師となり、1814年から1817年の間勤めた。この頃からすでにシューベルトの創作活動は盛んになり、交響曲やミサ曲、オペラやリートなど様々なジャンルにわたり数多くの作品を生み出した。教師を辞めてからは、友人のフランツ・フォン・ショーバーの食客となり、以後、1818年と1824年にエスタハージの宮廷で音楽を教えたほかは、定職に就くこともなく、友人たちから献身的な援助を受けながら作曲に専念する生活を続けた。
友人たちの集まりは「シューベルティアーデ」と呼ばれ、そのなかでは詩人や芸術家や芸術のアマチュアたちが集まって詩の朗読や文学談義をしたり、シューベルトが自らの作品を演奏したりした。

シューベルトについてロベルト・シューマンは次のように言う。シューマンはシューベルトの最後の交響曲「グレート」や最後の3つのピアノ・ソナタを発見し、紹介したことでも知られる。

「シューベルトは、最も細かい感情や思想から、外界の事件や生活の境遇についても、音を持っていた。人間の念願が幾千という形をとるように、シューベルトの音楽もまたそれと同じくらい多様を極めている。彼の眼に映ずるもの、彼の手にふれるものはことごとく音楽にかわる。彼が石を投げると、話にきくデウカリオンやピーラのように、たちまち生ける人間が踊りだす。彼はベートーヴェン以後の最も卓越した音楽家であり、すべての俗人根性の敵として、最も高い意味において音楽を行なった。」

シューベルトは古典主義からロマン主義へ橋渡しをした音楽家とされる。彼のロマン主義的な傾向を示すものは600曲を超えるリートや数多あるピアノ小品で、これらはメランコリックで夢想的、感傷的な気分の音楽となっているが、とりわけリートをロマン主義音楽を代表するジャンルとして確立した功績は大きい。シューベルトによって、リートは主観的な感情の直接的な表現にとって理想的なものとして、ロマン主義のあらゆる要素が含まれるものになっていった。ピアノによる伴奏は歌詞の持つ雰囲気や意味内容に広がりを与える重要な役割を担うようになり、ここにおいて言葉と音楽が極めて密接に結びつくようになった。

→ロベルト・シューマン「音楽と音楽家」(岩波文庫)
→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)