PAGANINI
24 CAPRICES FOR SOLO VIOLIN. OP.1
五嶋みどり
音楽におけるロマン主義は19世紀から始まる。1805年4月に公開演奏会がおこなわれたベートーヴェンの「交響曲第3番」がその後の音楽の進むべき道を方向づけた。この曲の冒頭の和音や鋭いアクセント、激しいテンポなどに聴衆は驚いた。大胆な創意と自由な形式に高度な演奏技術が結びついて音楽が生み出されるようになると、次第に作曲家と演奏家、演奏家と聴衆といった分化が進み、その間の距離は拡大していくことになった。
「演奏と相関関係にある即興あるいは作曲といった技術とはまったく無縁の、ただ演奏者の力量だけを証しだてるような演奏があらわれるのは、十九世紀もその前半が三分の一ほどすぎようかという頃であった。現代のジェシー・ノーマン、ポリーニ、メニューインの先祖筋にあたるヴィルトゥオーゾの声楽家やピアニストやヴァイオリニストたちの登場は、聴衆を超絶技巧と魔的ともいえる演奏でもって、かぎりなく魅惑しつづける演奏者の原型的人物であるパガニーニの、一八二〇年代後期のヨーロッパにおける登場と軌を一にしていただけでなく、編曲が、誇示と侵犯というふたつの目的をかねる芸術として誕生したことも、また編曲の興隆による、音楽テクストの優位性の相対的な低下とも関係していた」(エドワード・サイード「音楽のエラボレーション」)
ロラン・バルトは「ムジカ・プラクティカ」で「聴く音楽と演奏する音楽の二つ」について触れ、「演奏する音楽は消滅した」としながら、次のように書いた。
「まず音楽の演技者がいた。ついで、註釈家(偉大なロマン派の声)が出た。最後に、技術屋が来て、聴衆から、代行委任という形式も含めてあらゆる活動性の負担をとり去り、つくり出そうという考え自体を、音楽の世界のなかで廃れさせてしまっているのである」
カール・ツェルニー(1791-1857)は「演奏について」という著作の中で「いずれにせよ、聴衆の大半は、感銘を与えるよりもアッといわせる方が簡単な客」であり、「こうした大勢の玉石混淆の聴衆に対しては、何か途方もないものによって不意打ちする必要がある」と書いた。このような聴衆に対して音楽家が武器としたのは大音量と高度な技術であり、ヴァイオリンやピアノの演奏において素人には真似のできないような技術が次々と開発されるようになった。
音楽と名人芸の関係について言えば、ヴァイオリンにおいては、すでに17世紀の初期バロックの時代にファリーナやビーバーが情景を描写する音楽のなかでヴィルトゥオーゾ的な技巧を用いていたし、18世紀にはタルティーニやロカテッリといった名手が活躍していた。また、歌手の名人芸に依存するナポリ派のオペラもあった。こうした名人芸は洗練と退廃が隣り合わせの、真の音楽的な表現を抹殺する危険をはらむものと考えられ、古典主義時代には抑圧されていたが、19世紀に入り、一人の音楽家が現れ、その超絶技巧でヨーロッパ中を熱狂させることになった。ニコロ・パガニーニである。ロベルト・シューマンによれば「パガニーニは名人芸に一転機を画した」という。
「演奏というものが再現活動であることから、今日我々は名演奏の文化的な意味を低く評価し勝ちである。然しパガニィニやリストが示したような真の名演奏は創造的なものである。その瞬間にあらゆる効果が発揮され、且つ楽器の音のあらゆる美しさが発揮される、いわば即興的な表現である。」(パウル・ベッカー「西洋音楽史」)
「この美しさが豊かな幻想を以て啓示されてゆくというところに名演奏の魅力があり、聴手に魔術のような効果を与えるのである。この場合、技術の巧妙さなどは第二の問題である。」(同上)
「驚くべきことは、パガニィニがこの曲を弾いたということではなく、彼が初めてかかる曲を実現してみせた点にあるのだ。パガニィニの演奏が聴衆を熱狂に巻き込んだのは、実にそれまで夢想だにしなかったこの楽器の美しさを彼がさらけ出して見せたところにあったのである。彼のヴァイオリン演奏は、音のあらゆる動的な力と陰暈を伴った歌の表現と、この楽器の持つ独自なあらゆる色彩とを奔放に発揮しつつ、浪漫主義の精神とその不可思議な世界を描き出したのである。」(同上)
ニコロ・パガニーニ(1782-1840)はジェノヴァに生まれた。5歳のときに父親からマンドリンを学び、7歳頃からヴァイオリンのレッスンを受け、8歳の頃にはソナタを作曲し、12歳のとき公衆の前で演奏を披露した。1797年から演奏旅行を始め、13歳の頃、有名なヴァイオリニストであったアレサンドロ・ローラに師事しようとしたが、パガニーニの演奏を聴いたローラは、自分が教えることは何もないとして、これを拒否したといわれている。その後、ヴァイオリンはほぼ独学で一日15時間の練習をしたという。しかし、16歳の頃から賭博と飲酒に溺れ、演奏活動を中断、人々の前から姿を消していたが、1813年ミラノにて大成功を収め、イタリア全土に知られるようになった。彼の名前をヨーロッパ中に轟かせたのは1828年ウィーンから始まり、1831年パリで終わった演奏旅行で、この期間中、たくさんの有名な音楽家がパガニーニの演奏を聴き、大変な衝撃を受けたとされる。フランツ・リストがパガニーニを聴いて以来、それまで身につけていた自分の奏法を完全に作り変える決意をしたというエピソードもある。あまりの超絶技巧のため、パガニーニは「悪魔に魂を売ってヴァイオリンの技法を身につけた」と噂され、この噂のせいで、死のときも埋葬を拒否されたほどであった。
パガニーニの楽曲は6曲のヴァイオリン協奏曲やロベルト・シューマンが「徹頭徹尾まれにみる新鮮軽快な着想から生まれたもので、おびただしい金剛石を含有している」と評した「24の奇想曲」、あるいはギターやヴァイオリンのためのソナタなどが残っている。ロベルト・シューマンが語るところによれば、パガニーニは自分の作曲の才分をその卓越した演奏の天才より高くかっていたそうだ。
→エドワード・サイード「音楽のエラボレーション」(みすず書房)
→ロラン・バルト「ムジカ・プラクティカ」(ユリイカ1974年1月号 特集=ベートーヴェンロマン主義の復興)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
→ロベルト・シューマン「音楽と音楽家」(岩波文庫)
24 CAPRICES FOR SOLO VIOLIN. OP.1
五嶋みどり
音楽におけるロマン主義は19世紀から始まる。1805年4月に公開演奏会がおこなわれたベートーヴェンの「交響曲第3番」がその後の音楽の進むべき道を方向づけた。この曲の冒頭の和音や鋭いアクセント、激しいテンポなどに聴衆は驚いた。大胆な創意と自由な形式に高度な演奏技術が結びついて音楽が生み出されるようになると、次第に作曲家と演奏家、演奏家と聴衆といった分化が進み、その間の距離は拡大していくことになった。
「演奏と相関関係にある即興あるいは作曲といった技術とはまったく無縁の、ただ演奏者の力量だけを証しだてるような演奏があらわれるのは、十九世紀もその前半が三分の一ほどすぎようかという頃であった。現代のジェシー・ノーマン、ポリーニ、メニューインの先祖筋にあたるヴィルトゥオーゾの声楽家やピアニストやヴァイオリニストたちの登場は、聴衆を超絶技巧と魔的ともいえる演奏でもって、かぎりなく魅惑しつづける演奏者の原型的人物であるパガニーニの、一八二〇年代後期のヨーロッパにおける登場と軌を一にしていただけでなく、編曲が、誇示と侵犯というふたつの目的をかねる芸術として誕生したことも、また編曲の興隆による、音楽テクストの優位性の相対的な低下とも関係していた」(エドワード・サイード「音楽のエラボレーション」)
ロラン・バルトは「ムジカ・プラクティカ」で「聴く音楽と演奏する音楽の二つ」について触れ、「演奏する音楽は消滅した」としながら、次のように書いた。
「まず音楽の演技者がいた。ついで、註釈家(偉大なロマン派の声)が出た。最後に、技術屋が来て、聴衆から、代行委任という形式も含めてあらゆる活動性の負担をとり去り、つくり出そうという考え自体を、音楽の世界のなかで廃れさせてしまっているのである」
カール・ツェルニー(1791-1857)は「演奏について」という著作の中で「いずれにせよ、聴衆の大半は、感銘を与えるよりもアッといわせる方が簡単な客」であり、「こうした大勢の玉石混淆の聴衆に対しては、何か途方もないものによって不意打ちする必要がある」と書いた。このような聴衆に対して音楽家が武器としたのは大音量と高度な技術であり、ヴァイオリンやピアノの演奏において素人には真似のできないような技術が次々と開発されるようになった。
音楽と名人芸の関係について言えば、ヴァイオリンにおいては、すでに17世紀の初期バロックの時代にファリーナやビーバーが情景を描写する音楽のなかでヴィルトゥオーゾ的な技巧を用いていたし、18世紀にはタルティーニやロカテッリといった名手が活躍していた。また、歌手の名人芸に依存するナポリ派のオペラもあった。こうした名人芸は洗練と退廃が隣り合わせの、真の音楽的な表現を抹殺する危険をはらむものと考えられ、古典主義時代には抑圧されていたが、19世紀に入り、一人の音楽家が現れ、その超絶技巧でヨーロッパ中を熱狂させることになった。ニコロ・パガニーニである。ロベルト・シューマンによれば「パガニーニは名人芸に一転機を画した」という。
「演奏というものが再現活動であることから、今日我々は名演奏の文化的な意味を低く評価し勝ちである。然しパガニィニやリストが示したような真の名演奏は創造的なものである。その瞬間にあらゆる効果が発揮され、且つ楽器の音のあらゆる美しさが発揮される、いわば即興的な表現である。」(パウル・ベッカー「西洋音楽史」)
「この美しさが豊かな幻想を以て啓示されてゆくというところに名演奏の魅力があり、聴手に魔術のような効果を与えるのである。この場合、技術の巧妙さなどは第二の問題である。」(同上)
「驚くべきことは、パガニィニがこの曲を弾いたということではなく、彼が初めてかかる曲を実現してみせた点にあるのだ。パガニィニの演奏が聴衆を熱狂に巻き込んだのは、実にそれまで夢想だにしなかったこの楽器の美しさを彼がさらけ出して見せたところにあったのである。彼のヴァイオリン演奏は、音のあらゆる動的な力と陰暈を伴った歌の表現と、この楽器の持つ独自なあらゆる色彩とを奔放に発揮しつつ、浪漫主義の精神とその不可思議な世界を描き出したのである。」(同上)
ニコロ・パガニーニ(1782-1840)はジェノヴァに生まれた。5歳のときに父親からマンドリンを学び、7歳頃からヴァイオリンのレッスンを受け、8歳の頃にはソナタを作曲し、12歳のとき公衆の前で演奏を披露した。1797年から演奏旅行を始め、13歳の頃、有名なヴァイオリニストであったアレサンドロ・ローラに師事しようとしたが、パガニーニの演奏を聴いたローラは、自分が教えることは何もないとして、これを拒否したといわれている。その後、ヴァイオリンはほぼ独学で一日15時間の練習をしたという。しかし、16歳の頃から賭博と飲酒に溺れ、演奏活動を中断、人々の前から姿を消していたが、1813年ミラノにて大成功を収め、イタリア全土に知られるようになった。彼の名前をヨーロッパ中に轟かせたのは1828年ウィーンから始まり、1831年パリで終わった演奏旅行で、この期間中、たくさんの有名な音楽家がパガニーニの演奏を聴き、大変な衝撃を受けたとされる。フランツ・リストがパガニーニを聴いて以来、それまで身につけていた自分の奏法を完全に作り変える決意をしたというエピソードもある。あまりの超絶技巧のため、パガニーニは「悪魔に魂を売ってヴァイオリンの技法を身につけた」と噂され、この噂のせいで、死のときも埋葬を拒否されたほどであった。
パガニーニの楽曲は6曲のヴァイオリン協奏曲やロベルト・シューマンが「徹頭徹尾まれにみる新鮮軽快な着想から生まれたもので、おびただしい金剛石を含有している」と評した「24の奇想曲」、あるいはギターやヴァイオリンのためのソナタなどが残っている。ロベルト・シューマンが語るところによれば、パガニーニは自分の作曲の才分をその卓越した演奏の天才より高くかっていたそうだ。
→エドワード・サイード「音楽のエラボレーション」(みすず書房)
→ロラン・バルト「ムジカ・プラクティカ」(ユリイカ1974年1月号 特集=ベートーヴェンロマン主義の復興)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
→ロベルト・シューマン「音楽と音楽家」(岩波文庫)