むらぎものロココ

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ウェーバー

2006-05-20 22:39:00 | 音楽史
738Carl Maria von Weber
DER FREISCHUTZ

Carlos Kleiber
Staatskapelle Dresden


カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)は、リューベック近郊のオイティンに生まれた。モーツァルトの妻であったコンスタンツェは彼の従姉にあたる。ウェーバーは劇団を持っていた父親とともにに幼い頃からドイツ・オーストリアを旅して回った。9歳の頃からザルツブルグやミュンヘン、ウィーンでミヒャエル・ハイドンなどの音楽家たちから正式な音楽教育を受け、音楽的才能を開花させた。1804年にブレスラウ歌劇場、1813年にはプラハ歌劇場、1817年からはドレスデンの歌劇場で指揮者、ピアニストとして活動した。当時のドイツにあった歌劇場ではイタリア・オペラの上演が中心であったため、イタリア人音楽家が重用され、支配的であったが、ウェーバーは劇場の運営を徹底的に改革し、モーツァルト以来のドイツオペラの伝統の再興のために尽力した。グルックやモーツァルトのほか、ドイツ語に訳されたフランス歌劇を上演することでイタリア派に対抗した。1821年には自作の歌劇「魔弾の射手」を初演し、大成功を収めた。このことがきっかけとなって、ウェーバーはコヴェント・ガーデンからオペラを依頼され、「オベロン」を作曲したが、すでに健康を害していたウェーバーは、「オベロン」を上演するためにロンドンに行き、そこで帰らぬ人となった。

「魔弾の射手」はドイツ・ロマン派オペラの記念碑的な作品である。このオペラはフィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」あたりから始まるナショナリズムの出現や民族の本質を探ろうとする歴史意識の高まり、中世への強い関心とともに、民話や民謡を採集し、民衆の活力を讃えるような動きが活発化した時代を背景に、生まれるべくして生まれた最初のドイツ国民歌劇という特別な地位にある作品なのである。
中世の伝説や民話が、森が持つ神秘性や魔術的な要素と自然の驚異が強調されたファンタジックな世界、懐かしく親しみやすい民謡調の旋律とドラマティックな効果を生む色彩感豊かなオーケストレーション。これら「魔弾の射手」が持つ特徴はその後のドイツ・ロマン派オペラに受け継がれていった。

若い頃には油絵をよく描き、細密画や彫刻もしていたというウェーバーは、夕方の光の移り変わりを伝えるために画家が用いている色彩効果に対応するような音色の配合を探し求めていたと言われているが、彼の絵画的で巧みなオーケストレーションは、ベルリオーズやワーグナーのみならず、ドビュッシーやストラヴィンスキーにも影響を与えた。例えばドビュッシーはウェーバーの作品について「楽器に関する最も秀れた論文」と評しつつ、次のように書いた。

「ウェーバーは楽器の源について稀に見る知識をもっていたと言ったのでは充分ではない。むしろウェーバーは一つ一つの楽器の魂をつぶさに調べそれを優しい手ではだけたとでも言わなくてはならない」

「ウェーバーが意図的に交響曲の色彩を強く出そうとしているときのこの上なく大胆な組合わせの管弦楽は、元の趣きをとどめた音の色彩を特に有している。そうした音の色彩は相互に惹き起こされる反応を混じり合わせることなく重なり、個性をなくしてしまわずむしろ強めている」

→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
→エドワード・ロックスパーザー「絵画と音楽」(白水社)
→藤本・岩村他「ドイツ文学史」(東京大学出版会)