最近、「グループリビング」という言葉が流行のように言われ始めている。何をもってグループリビングとするのか明確な規定はないようだが、主に高齢者の共同生活の形態として使われているようだ。
認知症高齢者が共同生活をする場としてのグループホームとは違い、認知症ではない元気な高齢者がプライバシーや自主性を重んじつつ、支え合って生活する共同住宅で、現代の「長屋」と評する声もある。日本での普及のきっかけは、95年の阪神・淡路大震災。その頃はグループリビングという言葉はなかったように思うが、そこには仮設住宅のなかで支え合って生活する高齢者の姿があった。その仮設住宅の取り壊しなどに伴って、各地に広がりをみせた。
かつて「隣三軒両隣(となりさんげんりょうどなり)」という言葉があったように、喜びも悲しみも分かち合うコミュニティーが存在していた。隣近所の心配をし、思いやり、助け合い、祝い事も近所ぐるみで祝っていた。しかし、核家族が急速に増え、現在では隣近所との交流が希薄になったところが多いだろう。
こうした中で、高齢者に限らずグループリビング的な住まいが各地で見受けられるようになっているようだ。
まだ元気なうちに自分たちでグループリビングを設計し、気の合う家族同士が共同生活を送る。そんな光景もみられる。それぞれが独立したプライベートなスペースを持ち、いつでもお互いの顔を見ることができる共同のリビングを有する中での生活。
しかし、このような状況に疑問を抱いてしまうのは私だけだろうか。お互いが都合のいい時だけ人のぬくもりを求める擬似家族のように思えてしまうのである。いくらプライベートなスペースがあるとはいえ、共同生活である。いいことだけあるとは思えない。ましてや、大家族の形態を捨てて核家族化してきたことを考えると矛盾を感じてしまう。また、現状のように安易にグループリビングという言葉だけが先行してしまう状況では、本来の目的とは関係ないところで形だけが広がってしまう危険性もある。まるでグループホームのような形を取りながら、名前はグループリビングとしているところもある。営利目的のところも増えてくるだろう。
せっかくよい効果も報告され始めてる住まいのスタイルである。しかし、ひとつのスタイルでしかないことを忘れてはいけない。よくも悪くも、これからの舵取りで決まる。
認知症高齢者が共同生活をする場としてのグループホームとは違い、認知症ではない元気な高齢者がプライバシーや自主性を重んじつつ、支え合って生活する共同住宅で、現代の「長屋」と評する声もある。日本での普及のきっかけは、95年の阪神・淡路大震災。その頃はグループリビングという言葉はなかったように思うが、そこには仮設住宅のなかで支え合って生活する高齢者の姿があった。その仮設住宅の取り壊しなどに伴って、各地に広がりをみせた。
かつて「隣三軒両隣(となりさんげんりょうどなり)」という言葉があったように、喜びも悲しみも分かち合うコミュニティーが存在していた。隣近所の心配をし、思いやり、助け合い、祝い事も近所ぐるみで祝っていた。しかし、核家族が急速に増え、現在では隣近所との交流が希薄になったところが多いだろう。
こうした中で、高齢者に限らずグループリビング的な住まいが各地で見受けられるようになっているようだ。
まだ元気なうちに自分たちでグループリビングを設計し、気の合う家族同士が共同生活を送る。そんな光景もみられる。それぞれが独立したプライベートなスペースを持ち、いつでもお互いの顔を見ることができる共同のリビングを有する中での生活。
しかし、このような状況に疑問を抱いてしまうのは私だけだろうか。お互いが都合のいい時だけ人のぬくもりを求める擬似家族のように思えてしまうのである。いくらプライベートなスペースがあるとはいえ、共同生活である。いいことだけあるとは思えない。ましてや、大家族の形態を捨てて核家族化してきたことを考えると矛盾を感じてしまう。また、現状のように安易にグループリビングという言葉だけが先行してしまう状況では、本来の目的とは関係ないところで形だけが広がってしまう危険性もある。まるでグループホームのような形を取りながら、名前はグループリビングとしているところもある。営利目的のところも増えてくるだろう。
せっかくよい効果も報告され始めてる住まいのスタイルである。しかし、ひとつのスタイルでしかないことを忘れてはいけない。よくも悪くも、これからの舵取りで決まる。