★ベトナム・ハノイは「こんなとこ」★

コネなし、金なし、能力なし。50を過ぎて、単身ハノイで会社を作り10年目。毎日「こんなふうに」すごしています。

ベトナムハノイの「数奇な縁」

2023-08-02 12:21:28 | ベトナム・ハノイ

 10年以上ベトナムに「在住すると」好むと好まざるとにかかわらず、いろんな「縁」が出来てくる。

そもそも「最初に会社を作ったとき」に「手伝ってくれたそのころまだ東工大の学生だった人物から始まる」

「彼はハノイ工科大を自主退学し、ドンズー日本語学校に学び東工大に入った」 その後この「ドンズーグループ」

の「日本でのリーダー」になり、どういうわけか「弊社を一緒にやらせてくれと」しばらくは一緒にやってきた。

その後「いろんな理由で袂を分かった」がいろんな人と出会うことが出来た。

*ビナスキー会長:実はベトナムで最初に国産車を作ったのは「このビナスキー社」である。変わったひとで会社名も

「スアン、とキエン」の二人の娘の名前をとって「ビナスキー」となずけた。この人は元は「政府の高官」であったが

とにかく自動車が好きで「それが高じて自動車会社を作ってしまった」原資は、実は「レアメタル鉱山を持っており

そのもうけを自動車につぎ込んだ」しかし現在は休業、閉鎖状態になっている。少し前までは時々日本からの

「面談希望者」をアテンドし、会っていた。どういうわけか「この会長」に気に入られ、自宅での食事や、

「このレアメタル(アンチモン)の販売権まで頂いている。(調べたが到底素人が手を出せることなどできず、宝の持ち腐れ

状態になっているが?」面白い縁である。

 現在の社員は「ほぼ一つの専門学校からの人材」だ、この学校の「学長さんとも数奇な縁である」元はこの

ドンズーのリーダーから紹介されたが、「この学長は、もともと東京大学で15年学び」すごいことに「ある数学定理を発見した人だ」

そしてベトナムに帰り「ベトナムで最初の私立大学である(今も名門大学である)タンロン大学を創立した人なのだ」

その後「大きくなりすぎ、政府からもにらまれ、もともとは理系の人のため、ベトナムの今後を考え【タンロン技術学院】という

専門学校】を創設した。CADと日本語を教えるユニークな発想があたり「日産自動車が目をつけ、一時期は毎年300~400名もの

技術者を「日産テクノベトナム」と言う会社に輩出していた。(延べ5000人と言われている)その後自分が「起業するにあたり、この学長から連絡を頂いた」

ネットで自分を調べ「自動車金型の3Dデータを使った製作データの技術者」であることを知り、これも協力してくれることになった。

もう10年の付き合いだ。弊社社員の根幹は「すべてこの学校からの人材」なのだ。現在でも「日本から人材のオファーがあると

この学長にお願いしている」 私がベトナムで最も「恩を受けた人である」それなりにベトナムで強いリレーションを持つ人で

「コロナ禍」JETROや日本大使館が「ベトナム帰国するのに何の力も貸してくれなかったが」「社員とこの学長」が手続き一切を

行ってくれ、「帰国できた経緯」もある。現在は「多数の教え子がベトナム教育界」で活躍し、このタンロン技術学院の場所には

この教え子たちが私立の「小学校」を運営している。今回も「日本の建築系の会社」が欲した人材は「このタンロン技術学院」から

弊社内の「建築系会社に就職している」

 「コロナ禍」の「ワクチン接種」でも「日本大使館のアクション」よりも数段早く「社員のリレーションでの4階の接種」が

叶っていた。日本からの「薬の送付」に関しても「社員のリレーションで税関より許可を得られた」などなど

自分は「ベトナムでの数奇な縁によるメリットをたくさん受けてきた」

ベトナムに来た時、自分は「できるだけ日本人とは付き合わないようにしよう」と決めて現在まで来た。

自分は「駐在者とは違う」どこにも帰る場所などないのだ。そう思い今日まで来たのだ。

企業の駐在者と違い「数年ハノイで過ごして帰れる人たちとは根本的に異なるのだ」

結果それが「ベトナムでのリレーション」をつなげてくれることになったようだ。

人生とは「つくづく不思議なものである」

いつもの仕事をしながら、「曇りがちのハノイの風景を見ながら、そんなことを考えた」

 

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