世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

飛行機雲の道

2014-01-23 08:50:48 | こものの部屋

多重人格というのは、多くの霊魂が一人の人格を荒らすという現象です。
わたしたちの今の状態は、そういうものではありません。

わたしたちは、かのじょの人格を荒らすつもりはありません。その人生を汚すつもりもありません。

また、本来ならこの人生の正当な持ち主であるかのじょが、活動不可能なまでに疲れ果て、休眠している今、この人格は、正確にはかのじょ自身のものとも言えません。

今、わたしたちが置かれている状況は、非常に特殊で、高度なものです。どういう状態であるかということを、あなたがたに教えることはできません。それを試みても、あなたがたに理解することは不可能です。

とにかく言えることは、わたしたちは今、かつてないこころみをしているということです。

かのじょは、わたしたちに、自分を使って、自由に表現してくれと、言ってくれました。
その愛に感謝し、わたしたちはできることをすべてやっていきます。


                         サビク







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少年

2014-01-23 04:39:33 | 月夜の考古学・本館

(「フィングリシア物語」より。1994年に近代文芸社から発行された処女小説。第一章のみブログで発表する。続きを読みたい人は、ネットや図書館で探したまえ。)


一  少 年

   おお 我が愛し児よ
   我を求めよ 我を探せ
   我は湖底に死魚のごとく横たわれり
              (イオネリア予言古詩集)


 今から思うと、あの頃、時はまるで透明な音のない水の中に沈んでいたかのように、不思議にのろのろと進んでいた。根源の記憶はそこで動きを止めたまま、もはや夢とも現実ともつかぬ映像となって薄いもやの向こうに消えている。彼は自分が誰なのか知らない。
 少年が覚えている、一番古い風景は、薄寒い灰色の小屋の中だった。壁ごしに、何かを話し合う大人の声がぼそぼそと聞こえていた。時折耳をたたく男の荒々しい声に、少し不安を感じながらも、彼はそのとき得意の一人遊びに夢中で、はっと顔を上げたりすることはなかった。
 冷たい土座の暗い隅に座って、開いた足の間に細い藁くずを並べて輪を作る。そして、覚えたばかりの言葉を一つ、唱える。
「コーイ、コーイ」
 すると、キンポウゲの花のようにかわいらしい鬼火が、不意に輪の中央に踊り出て、くるくると回り始める。
 それは、ごく簡単な精霊招喚呪術だった。だがもちろん、誰にでもできることではない。
 いつ、どこでそんなことを覚えたのか、彼は知らない。はっきりとしていることは、その時少年はまだ四歳にも満たない幼児だったということだ。彼はほかにも、祠の中にいる小さな神様や気まぐれに空を流れていく精霊などの姿を見ることができ、また、しようと思えば、川を泳いでいる魚や、小鳥や小動物などを呼び寄せることもできた。それは、その時の彼にとっては、何の不思議もない当然のことだった。しかし、少年のこの能力は、彼を幸福な道へと導きはしなかった。
 少年の名前は、ジンという。それは西方の方言で、火種という意味の言葉だ。だがこの名をつけたのは、彼の両親でも、村の世話役の老人でもなかった。
 ジンの両親が、カーフという名の怪しげな旅の呪術師に彼を売ったのは、彼が四つになったばかりの時だった。
「おまえの両親はな、たった五枚銀でおまえを手放したんだよ」
 後に、カーフが言ったこの言葉が、ジンが実の両親について知っているたった一つのことだった。カーフは、新しい発火具を買う予定で用意した金を、彼を買うために使ったのである。ジンの名前はここからきていた。
 ジンと出会った時、カーフは、すでに頭に白いものの混じった初老の男だった。玉虫色の肌に縮れ毛という容貌は、西方地域では珍しくもなかったが、彼はいつも東方地域の僧侶のような姿(なり)をしていた。擦り切れた筒袖の衣服の上に、幅広い毛織の一枚布を袈裟のように体に巻き付け、頭には朱色のターバンのような帽子をかぶっていた。
 カーフは、遠い東の御本山から免状をもらった僧侶だと、自分では言っていたが、実際は各地の村々の市を訪ねて、ありがたい神の教えだと適当なことを触れまわっては何も知らぬ田舎者から喜捨をせしめる、いいわゆる「勧進聖」に過ぎなかった。手品まがいのまやかしの技を使い、難しい文字の並んだ書物をもっともらしく読むことはできても、本物の呪術師や僧侶の修行を積んだことなど一度もなかった。
 そんなカーフがジンを買ったのは、もちろん、老いて行く身が寂しかったからでも、子供が好きだったからでもない。
 最初、カーフはジンを知り合いの占い師に売るつもりだった。見えないものが見える子供は、鬼の目と呼ばれ、占い師の修行をさせるとよい、そうでなければ家や村を滅ぼすという迷信が、西方各地にあったからである。
 知り合いの占い師は、町で商売人相手に相場の予想や生まれてくる子供の性別などを占い、割合に結構な暮らしをしていた。だが、もう随分と年をとっていて、跡継ぎを欲しがっていた。あの男なら、この子供に十や二十は払うだろう。カーフはそんな胸算用をしていた。
 だが、親から見捨てられたショックで身も世もなく泣きじゃくっていたジンが、ようやくあきらめもついて新しい境遇に慣れ始めてきた頃のことだった。カーフはジンに奇妙な才能があることを発見した。ある時ジンが、小枝で地面をひっかいて、珍妙な人間の顔を描いたのだ。初めは単なる子供の落書きだと思ったが、よく見るとなかなかに達者な筆遣いで、しかもその顔にはどこか見覚えがある。カーフが、それは誰の絵だと尋ねると、ジンは、きょとんと目をむいて、あんたのご先祖様じゃないか、というような意味のことを片言で言った。カーフは目を見開いた。言われてみればその絵は、二十年前に死んだ自分の親父にそっくりではないか。
 興味を持ったカーフは、ジンに麻布と筆を与えて、色々な絵を描かせてみた。ジンは森の神の絵を描き、河の神、樹木の精霊、岩陰に潜んでいる邪鬼の絵まで描いてみせた。それらはどれも、とても四歳の子供が描いたものとは思えないものだった。
 カーフの頭の中の算盤が激しく弾かれた。彼はそれから各地の村を回るごとに、ジンのことを神童と触れ回り、人々の前で絵を描かせた。ジンは、客の要請に従って、未亡人には死んだ夫の顔を描いて見せ、親のない子供には父親の顔を描いて見せた。そして客が、その絵が本人にそっくりだということに驚き腰をぬかすところを見計らって、カーフは適当なことをいい、金を取るのである。
「あなたの死んだご主人は、いつも後ろからあなたを見守っているのですよ」
「お父さんはこうおっしゃっております。元気を出せ、いつかきっといい運が巡ってくる」
 このようにして、十歳になるまでの約六年間、ジンはカーフとともに、西方地域の各地を旅して回った。ジンはカーフにとってこの上ない金づるとなったのだ。何も解らない幼児だったジンは、カーフの言いなりの道具だった。
 一晩のうち百枚絵を描けだとか、自分は神の子だと、芝居がかった台詞を人前で言えだとか、カーフは事あるごとに無理なことをジンに言い付けた。ジンが少しでも逆らうようなそぶりを見せれば、誰のお陰で食べてるんだと、こわい声で怒鳴った。もちろん言うとおりのことがすっかりジンにできたためしはなく、結局は鞭と怒鳴り声をいただかねばならなかった。
 しかし、それでもジンはカーフを半ば父のように慕い、愛着を感じていた。幼い子供には、自分を保護してくれる大人の存在は必要不可欠なものだからだ。たとえその愛情が金物のように冷たく浅薄なものであっても。
 子供を慈しみ包みこむように育てるのが正しい大人とすれば、カーフは確かに最低の部類だった。一緒に暮らした六年の間、ジンにはいい思い出など一つもなかった。いや、それは、あの頃のカーフのむごさ、ずるさを思い出すたび、後のジンの心の中に憎悪と嫌悪ばかりがあふれ出てくるから、そう思うだけなのかも知れない。考えてみれば、少しはましなことがないこともなかった。
 後年、ジンがこの六年間のことを振り返る時、言いようのない胸の痛みとともに、なぜかいつも、緑の大地の上を、蛇のようにくねりながら横たわる銀色の川と、色鮮やかな赤い遊び車の映像が脳裏に付きまとった。
 あれは確か、初秋のことだったように思う。過ぎ去ってゆく夏のしっぽにしがみついて、必死に鳴いているセミの悲しげな声が、何と無く耳に残っている。
 彼はその時、大きな荷物を背負ったカーフに手をひかれて、どこかの細い山道を黙々と登っていた。手には、小さな赤い遊び車のおもちゃを握っていた。酒と食い物以外の買い物は滅多にしないカーフが、商売上手な古道具屋の口車にのって、つい買ってしまったものだが、ジンにはそれがよほどうれしかったらしい。しっかりと車を胸に抱え込んで、何度も買ってもらった時の情景を思い出しながら、その感触と喜びをかみしめていた。途中、道端でしばしの休息をとるたび、ジンは車を地面や岩肌に走らせてうれしげにはしゃいで見せた。カーフもそんなジンの様子が何やらまんざらでもないようで、一言二言嫌みめいたことを言いつつも、怒りもせずただ眺めていた。
 道が峠にさしかかったとき、不意に木立が分かれ、視界が開けた。すると眼下に広大な風景が広がった。傾きかけた日の黄みをおびた光が、粉をふったように森や集落のモザイク模様の上に降り注いでいた。そしてその間を縫うように、ゆうるりとうねった川が、銀の重たい帯のように大地におかれていた。いつになく上機嫌のカーフは立ち止まり、風景を指さして言った。
「ほうら、ジン、見ろ。これがフィングリシアだ」
「フィン……グリシアって?」
 ジンは、カーフの機嫌が変わらないようにできるだけ注意を払いながら尋ねた。カーフはいつもちょっとしたことで態度を急変させるからだ。幸い、カーフはこの時よほど気分がよかったらしい。
「この世界全部のことだ。あの川も、あの森も、あの平地も、向こうの山も、そして地平線の向こうにある都も、ご本山も、みんなフィングリシアだ。もちろん、今おまえが立っているところも」
 この時、ジンは初めて自分が属している世界のことを知った。後で、カーフは地図を広げて、フィングリシアがいかに広く、豊かであるかということをジンに教えた。実際に目で見た大きな川が、地図の上では髪の毛のように細く短かったことを、ジンははっきりと覚えている。
 初めて見る世界は、ちょうど、羽根を閉じかけた蝶のような形をしていた。世界の真ん中に流れる大きな河を、両の手でやさしく包むように、ふたつの弓形の山脈が東西を囲んでいる。カーフはこの大河を指さして、これは香河(こうが)だ、と言った。そして、この山脈は東の手山脈、こっちは西の手山脈、ここが都、そしてここが本山……。
 カーフの指が地図の上を動くたび、ジンの心は踊った。色々なことを知り、覚えていくのは、とても楽しかった。ジンは、もうそろそろ、八つになろうとしていた。普通なら、村の子供組に入れられて、算術や文字を習い始める年頃だった。
 自分の肌の色が、カーフやほかの人たちと随分違うことに気づいたのもこの頃である。フィングリシアの西方地域には、グリザンダ人と呼ばれる緑がかった肌をした人間が多かった。だのにジンは、まるで西に重たく沈みかけた入り日のように、赤っぽい肌をしていた。
 機嫌のよさそうな時を見計らって、ジンはカーフにそのことを尋ねてみた。だがカーフはぶっきらぼうにこう言っただけだった。
「おまえは鬼っ子なんだよ」
 ジンも子供だったから、村の広場などで楽しそうに遊んでいる子供たちを見れば、自分も仲間に入れてもらいたくてしようがなかった。だけどジンが怖ず怖ずと近づいていくと、子供達はたいてい、何か気味の悪いものでも見るような視線を投げながら逃げていった。石やむごい言葉が幾つも飛んでいることもあった。子供達はいつでも、毛色の違う者や弱く傷ついたものを本能的に察知し、選別する能力に長けている。大人たちでさえ、陰で口を覆いながら、彼の赤い肌を指さして何事かをささやきあう。
 積み重なったくやしさが溢れ出てどうしようもなくなった時、ジンはどこか人気のないところで、一人で声も出さずに泣いた。カーフに慰めを求めたりしたら、逆にもっとひどいことを言われることが経験上解っていたから。
 寂しさを紛らわすために、彼は時折、ウサギやテンなどの動物を呼び寄せたり、通り掛かった風や霧の精霊に声をかけたりした。だが、動物たちは彼の術が切れるとすぐに逃げて行ったし、精霊たちも時たま興をひかれて振り返るくらいで、すぐに通り過ぎて行った。自然界の者は、誰も自分の事に忙しかった。己が身の不幸を嘆いて泣いている子供にかまっている暇はないのだった。
(何でぼくは赤いんだろう? どうして、みんなと同じじゃないんだろう?)
 ジンは、とある村外れの、小さな古びた祠の神に、そのことを尋ねてみた。その神は森の神で、ジンの目には、ノウサギの体に中年の女の顔がついたような姿に見えた。だが、村人の信仰を失いつつあったその神は、ただ石のように目を閉じているだけで、何も答えようとはしなかった。
 結局、ジンは、誰にも答えを聞けないまま、一人で苦しまねばならなかった。手を差し延べてくれる者は誰もなく、世間は己を攻撃するものだけで出来ている。そんな孤独に、幼い子供が抗する術があるはずもなく、ジンの柔らかい精神は次第に石化し、子供らしさを失っていった。彼はめったに笑ったりはせず、動作は老人のようにうすのろで、びくびくと脅えた目ばかりが大きく光っていた。そんなひからびかけた彼の魂を支配し、同時に辛うじて支えていたのが、カーフだった。
 カーフは、情緒不安定であったが、ある点では非常に単純な精神構造をしていた。他人というものは、自分に利用されるためにあると考えていた。彼の、時折聞く甘ったるい優しい言葉も、実は鋭利な刃物を中に隠した真綿のようなもので、うっかり心を許せばこっちの心がいつの間にかずたずたになっていた。でも、ジンはそんな見せかけの優しさにすら飢えていた。彼はカーフの気をひくために、その顔色を盗み見、心にもないお世辞を言う術を早々と覚えた。とにかく、逆らいさえしなければ、カーフは自分を側においてくれるのだと、彼は思っていた。
 ジンは、細い焚火の前にうずくまって必死に寒さを堪えている裸の子供だった。その炎が熱のない幻だと解っていても、そこを離れることはできなかった。そこより他に、行く所はなかった。
 だがある日、そんな小さな炎さえも、失わなければならない時がやって来た。彼は十歳になっていた。
 いつものように彼は、ある村の辻に座って、客の注文に答えて板に絵を描いていた。それは、深々と眉間に皺を寄せて世間をにらみつけているみすぼらしい老婆の絵だった。今にもこっちにかみついてきそうな恨みがましい老婆の顔を見ているうちに、ジンは何やら気分が悪くなってきて、ふと思った。
(ぼくは、何でこんな顔を描いているんだろう?)
 できあがった絵を渡すと、客の婦人はひとしきり感心して、何度も何度もジンにお辞儀をした。目にはうっすら涙さえ浮かんでいる。その絵の顔は、婦人の死んだ母親だということだった。十歳のジンが、今日会ったばかりのこの夫人の十五年前に死んだ母親の顔など、知っているはずはなかった。今思えば、こうして初めて疑いを持った時から、ジンはその能力を失っていたのだろう。
 翌朝目が覚めた時、ジンの目には、まわりの世界が、何やらまだ夢でも見ているかのように、妙によそよそしく映った。何かが彼のまわりで、急激に変わっていた。日の光の具合も、風の匂いも、鳥たちの歌さえ、今までとは違う、不思議な鮮明さをもって頭の中に染み通ってくる。まるで、今まで脳みそを覆っていた透明な薄い膜が一枚、奇麗に剥げてしまったかのようだった。
 そして、気がつくと、ジンはもう、客の祖先の顔どころか、精霊や神様の顔さえも、見ることができなくなっていた。どうやれば精霊を招喚できるかも、動物や魚を呼び出すことができるのかも、何もかも忘れてしまっていた。
 彼は焦った。焦って、能力を呼び戻そうとすればするほど、訳が解らなくなった。しまいには、本当に自分にそんなことができたということすらも、疑わしくなってきた。
 自分にもうあの能力がないことがわかると、カーフはどうするだろう? ジンはそのことを考えると背筋が寒くなった。彼は最初のうち、何とかそのことを隠そうとした。カーフの前で、今、風の精霊が通ったとか、水の神があそこにいるとか、事あるごとに彼は口にするようになった。村で仕事をしなければならなくなると、彼は今までに描いたことのある神様の絵を描いて、適当にごまかした。だが、そんなことがいつまでも続くはずはなかった。
 何度か、描いた絵がちっとも似ていないということが続くと、カーフはジンを問い詰めた。ジンは白状するしかなかった。泣きじゃくりながら、できるだけ同情をひくために、彼は言い訳にもならぬことを言い連ねた。だがカーフは聞く耳を持たなかった。もうとっくにカーフの胸の中の算盤は弾かれていた。
 数日後、カーフはカナパという西方辺境の村で、ジンを奴隷商人に売った。値段は買われた時と同じ、五枚銀だった。
 それからしばらくの間、思い出したくもないようなことが続いた。奴隷商人は片目がつぶれた醜い中年の小男だった。得意先の人間には下男のように腰が低いが、商売物の奴隷には暴君のように残酷だった。ジンのように見た目のよい奴隷は、特にいじめられた。
 暗く不潔な奴隷小屋の隅で眠っていると、ジンはよくカーフの夢を見た。夢の中のカーフは、いつも優しく笑っていた。小屋の入口の向こう側で、手を振りながら、ジンを呼んでいる。
(カーフ! 迎えに来てくれたんだね!)
 夢から覚めた時の、言いようのない失望感を何度も味わううちに、彼はもはや、現実にある何もかもを信じなくなっていった。商人の罵声も、鞭の痛みも、ひどい空腹も、きつい労働も、これはみんな夢だ。だからもう、何も考えない。ただ人形のように体を動かしていればいい。眠っている時だけが、安らげる。一日の労働が終わり、床に身を投げ、このまま目が覚めなければいいのにと思いながら、眠りにつく。だが朝は容赦なくやってくる。
 そんなことが、あと数日も続いていたなら、ジンは死ぬか、狂うかしていたに違いない。だが幸運は思わぬ方向からやってきた。
 ある朝ジンは、首に縄をつけられて家畜のように小さな荷馬車に乗せられた。荷台にはジンを入れて五人の奴隷が乗っていた。誰もかれも、骨と皮にやせていて、目はうつろだった。中の一人は病気で死にかけていた。
 これは後で聞いた話だが、カナパの奴隷商人はとても残酷で、人間をゴミのように扱うことで有名だった。奴隷は鮮度が売り物で、一月以上経っても売れないものは魚のように腐ってしまうものだと考えていた。ジンを含めた五人は、もう商品価値がないものと判断されたのだ。
 カナパの南には、ネイロークタ山という険しい休火山を囲む、広大な樹海が広がっていた。そこは昔から、夢魔や亡霊がはびこる闇の森と言われて、人は決して近寄らなかった。それをいいことに、商人は奴隷のゴミ捨て場として、ちゃっかり利用していたのだ。
 やがて荷馬車は村を出て、暗く細い山道にさしかかった。道は上り道で、両脇に腕を組んで並んでいるような背の高い木が続いていた。右手側に暗い木々に覆われた小高い峰が空の一角を隠していた。道が、山の尾根の形に沿って、ゆるりと右に曲がるところに来ると、遙か前方に、頂上を雲に突き刺した奇怪な形の山が姿を現した。
 と、その時、不意に荷台が揺れて、ジンがもたれ掛っていた上り口の止め金が外れた。ジンは声も上げず、どさりと道に落ちた。商人は大声で下手な歌を歌っていたので、そのことに気づかなかった。
 しばらくの間、ジンは呆然と道端に転がって、去ってゆく荷馬車を見送っていた。馬車が見えなくなると、ようやく息を吹き返したかのように、ジンはのろのろと立ち上がった。
 きっと、帰る時も、馬車はこの道を通るだろう。ジンはそう考えた。その時に拾ってもらえばいい。ちょうど、少し奥に入ったところに、子供一人が楽に入りこめそうなうろのある大木が目についた。ジンはそこにもぐりこんで待つことにした。
 うろに入ろうとして、ジンはその中に何か変なものが置いてあることに気づいた。目をこらしてよく見ると、それは何かの御神体らしかった。神聖文字を刻みつけた銅の鏡に、ぼろぼろの麻の結界縄が巻きつけられている。どうやらここは、天然の木のうろを利用した、古い祠らしかった。もっとも、とっくに忘れられているらしく、鏡には緑青がこびりつき、供え物を載せる台も、御神体が載っている台も、朽ちて元の形をなくしていた。
 実はこの祠は、遠い昔にある高徳の僧侶が魔封じのために作ったものであった。この森は、かのネイロークタ周辺の闇の森と奥深くでつながっていて、その昔、森の夢魔や邪鬼が、通りかかった多くの人間を苦しめていたのである。
 以前のジンなら、この祠の神の、森の奥に行ってはならないという小さな声を聞くことができただろう。人々に忘れ去られて弱っているとはいえ、この神は、昔、僧侶から授けられた使命をまだ覚えていた。だが今の彼には何も聞こえないし何も見ることはできなかった。
 どうしたものかと、ぼんやりつっ立っているうちに、ジンは、ふと森の奥に見覚えのある後ろ姿を見た。
「カーフ!」
 ジンは思わず叫んだ。荷物を背負ったカーフの背中が、並んだ黒い幹の間に、吸い込まれるように消えて行った。
「カーフ! カーフ!」
 硬い水面に、湯の塊を投げつけられたように、突然、ジンの胸に長い間忘れていた感情が蘇った。ジンは夢中でひょこひょこと走りだした。空腹と疲労でがたがたになっているはずの体が軽快に動くのを、頭の隅で少し奇妙に思いつつ、彼はカーフの背中目指して真っすぐに進んだ。だがどんなに走っても、決して追いつくことはできなかった。ようやく捕まえたと思ったら、いつの間にかカーフはずっと先を歩いていた。そんなことを何度か繰り返しているうちに、彼はどんどん森の奥へと入っていった。
 やがてジンは疲れ果て、地面にふらふらと倒れ込んだ。ここまで来ると森は、木々の梢が密集して、昼間でも光が地面に届かず、鬱蒼として寒かった。下草のない地面は鉄の板のように冷たく、ジンはしばし、過熱した頭と薄い体をそれにぺったりとつけて冷やした。ぼうぼうと音をたてて繰り返し気管を摩擦する熱い息が、ようやく少し落ち着いてくると、耳元で誰かの声がした。
「ジン」
 顔を上げると、仮面のようなカーフの笑顔がそこにあった。不意に涙がジンの頬に流れた。そして、恐る恐る体を起こしてカーフの胸に近づこうとしたとき、なぜか彼は一瞬、戸惑った。
 カーフは、にこにこと笑いながら、ジンを迎え入れるように手を広げて立っている。だがジンはどこからか湧いてきた妙な違和感を押さえ切れなかった。そして彼は突然、直感した。これはカーフではない。カーフの顔をしているが、カーフではない。
「だ、だれ……」
 ジンがそう言って後ずさったとき、カーフの顔が急に崩れ始めた。玉虫色の肌に白い斑点が現れ、それは黴のようい見る間に大きくなり、顔全体を覆った。厚い唇は薄く刃物のように左右の頬に切れ込み始め、黄色い歯の並んでいた口の中は墨を食べたような闇になり、目は空洞になり、縮れ毛はぱらぱらと抜け落ちた。
 ジンは、いつしか、悪しき精霊――夢魔の術中に陥っていたのである。
 ――ジン!
 恐ろしげな声が、突然頭上から落ちてきた。笑い声が木霊のように、周囲から跳ね返ってきた。ジンは金縛りにあったように動けなくなった。夢魔は骨と皮ばかりになった顔を、ジンの目に張りつくように近づけ、ささやき声で言った。
――ジンヨ、オマエハ殺サレル。
その言葉を、木霊が千回も繰り返した。
――オマエハ死ヌ。鬼神ニ殺サレル。
――ホホホ! ソウダ、ソウダ!
――胸ヲ射抜カレ、
――血ミドロニナリ、
――死骸ハ打チ捨テラレ、
――川底ノ泥トナル!
――ハッハハハハハ……
ジンは目をつむり耳を覆った。だが声は消えなかった。かえって閉じた耳の中で声は蠅のようにジンの脳味噌を掻き回した。
(やめろ! やめろ!)
 ジンは叫び声をあげようとしているのに、それができなかった。全身の血がひいて、皮膚が急速に冷たくなり、喉はからからに乾いていた。閉じたまぶたの上を汗が冷たいヒルのように流れていく。だが彼はそれを拭うこともできない。夢魔の笑い声は嵐の時の梢のうなりのように彼を取り囲んで、責め立てるのをやめない。
と、何の拍子か、不意に辺りが静かになったかと思うと、何かに無理矢理こじ開けられたかのように突然目が開いた。ふと彼は何か生暖かいぬるぬるしたものの感触が腹の辺りに流れるのを感じた。見ると、自分の胸にこぶし大の大きな穴が空いている。暖かい血が衣服をべっとりと濡らし、血をまとった肉片の幾つかが滴となって地面に落ちていた。
どこにそんな力が残っていたのか、気がつくと、彼は狂ったように悲鳴をあげながら走っていた。だが、夢魔の声は彼の耳にしつこく張り付いて、逃れることができなかった。
――我々ハ嘘ヲ言ワヌ。
――我々ハ予言スル。
――オマエハ死ヌノダ。
――祖先ノ罪ヲ償ウタメニ。
――狂王ノ科ノ穢レヲソソグタメニ。
夢魔たちの、細長い手が、くもの糸のように彼の体に絡みついてきた。ジンは無我夢中でそれを払いのけようとした。後ろを振り返ると、うらみがましい目を象嵌した、何百というされこうべが、コウモリのように空に群れて、一斉に彼を見つめている。ジンは腰から力が抜けてへなへなとその場にへたりこんだ。すると何かがどさりと地面に落ちた。
走っているうちに、胸の穴はだんだんと大きくなり、いつの間にか鎖骨の辺りにまで達していた。そして、腐り落ちるように方から血みどろの腕が外れ、ジンの目の前に落ちていた。
ジンの恐怖は頂点に達した。だが同時に、彼の頭の奥で、何かが急にかちりと音を立てて切り替わった。
(違う。これは夢だ。現実なんかじゃない)
 反射的にジンはすっくと立ち上がった。そして一刻も早くこの悪夢から目覚めようとほぼ自動的に思考が動き出した。不意に夢魔の声が遠くなり、行く手にまばゆいほどの光が見えた。ジンは迷わずその光に向かって走った。だが、足がもつれてなかなか前に進めない。そして夢魔の声は小さくなりながらも、まだしつこく耳にまとわりついてくる。
 ――イクナ、イクナ!
 ――ズットココニイルノダ!
 ――ココニハ死モ苦悩モナイ!
 だがジンは耳を貸さなかった。足元を邪魔する何かに狂ったように抵抗しながら、にじるように前に進んだ。目は光を見失わないように見開いていた。地面を掻きむしる爪からは血が噴き出ていた。口は叫びを放出するために開きっぱなしにしていた。だが、叫んでいるかどうかは、彼自身にも解らなかった。
 少しずつであるが、光はだんだんと近づいてきた。彼はあきらめなかった。一体、自分のどこにこんな力があったのか、彼は不思議に思い、心を動かされていた。ジンはそのことがうれしかった。何故かは解らないが、涙が出るほどうれしかった。そして彼は、光に向かって手を伸ばした。
 白い、光る手が、彼の手を取った。すると水の中から強い力でいっぺんに引き上げられたように、突然体が軽くなり、夢魔の声と重苦しい木の下闇が拭い去られたように消えていた。肩で激しく息をしながら、ジンは顔をあげた。涙と汗が、ひっきり無しに顔の上を流れている。そして、光を背に負ったまぶしい人間が、彼の前に立っていた。ジンは思わずひざまずいて、頭をたれた。
「ジン」
 光る人は言った。美しい声だった。
「おまえは、しなければならないことを、せねばならぬ」
 次の瞬間、はっと顔を上げたとき、もうその人の姿は影も形もなかった。
 ジンは、まるで何以下を抱き締めでもするように、虚空に両手を伸ばしながら、ゆっくりと、前にのめった。
 古い祠の前で、死んだように眠っている少年を、見守りでもするかのように、木漏れ日が一筋、彼の黒い髪の上に落ちていた。





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