昨日の夕方に撮ってきた菜の花です。光の具合かな、とても幻想的に映りました。川沿いの空き地に、一筋の赤い群れがあって、レンゲかと思って車を停めてみたら、ホトケノザの群れでした。陽だまりなのか、そこだけいっぱい咲いていました。菜の花は、そのすぐ近くに咲いていました。
去年も確か、この空き地で菜の花の写真を撮りましたね。モンシロチョウをみつけて、一生懸命撮ってはみたものの、ぜんぜんだめだったのでした。チョウチョは二匹で、ちょうど恋の駆け引きの真っ最中で、もう相手のことしか見えなくて、せかせかとカメラマンをもてあそぶように菜の花の中を飛び回った挙句、ふたりだけの空に消えていったのでした。
あの時と比べると、花の顔も少し違います。いろいろあって、学んだからでしょう。もうすぐチョウチョも目を覚ましますね。さて、今年のチョウチョは、どんな顔でわたしを見てくれるんでしょう。
去年の今頃には、わたしがこんなふうになっているとは、思っていなかった。いつまでもいつまでも、普通のおばさんで、自由に自分の好きなことが、ずっとできるのだと思っていた。馬鹿だったのではない。まだ知らなかっただけ。世界が、こんなにも苦しかったのだということを。
自閉の壁で自分を守りながら、わたしはずっとわたしという生き方で、生きていた。それはどんなに苦しくても、貫きとおすべきものでした。それがないとわたしは生きていけないから。それだけで、すべてを耐えていたから。
ひとりでも、自分を信じて、信じとおして、生きていくものがいたなら、世界は常に新しくなる。なぜなら、自分とは常に新しいものだから。この自分と、まったく同じものはほかに存在しないから。だから、自分を信じてずっと何かをやっていくものは、いつも新しいものを生み出せる。
この自分こそが、新しい創造の種。それを、すべての存在が持っている。けれど。
多くの人は、それを馬鹿なものだと言って、あてにしないのです。自分はいやだといって、別のもっといいものになりたいと、馬鹿なことばかりする。自分はやらない。自分をやらない。だれかが、なんとかしてくれるだろうと、楽なことばかりして、結局は、なんにもない。
自分をやらない人ばかりの世界では、新しいものは、ほとんど生まれない。新しいと思っても、それは、過去のデータを研究して組み合わせて、いかにも新しいと見せかけているだけ。町を彩るポスターの美女の微笑みも、どこかうそっぽい。完璧に近い顔とスタイル。研究し尽くされた笑顔の形と、ダイエット法。すべては、だれかの真似。本当の自分の個性よりも、絶世の美女のクローンになるほうがいいと、言っているようだ。
あらゆるものがあって、何もない。新しいものは、何もない。その世界で、この痛い魂を抱えて生きていくには、自閉になるよりなかった。
苦しいことは、想像を超えていた。それでも生きていく。生きていかねばならない。馬鹿みたいに苦しい壁が、何度も立ちはだかる。それでも自分を貫く。そうして、また、新しい自分になっていく。そのたびに、孤独が研ぎ澄まされる。
何もない世界で、このわたしだけが、常に新しい。
わたしは、どこまでいけばいいんだろう。