球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

劇音楽を聴く

2007-12-03 | オケと音楽
今日はオケっぽいけどそうでもない話。
さて、以前から何度か書いているけれど、
僕の音楽のルーツは8bit(むしろ矩形波?)のファミコン音源だ。
今の自分にある音楽的なクセも、そこに因るところが大きい。
よくも悪くも。

その中のクセの一つ…それは、基本的にはBGMという概念>絶対音楽ということ。
よく音楽のための音楽、というし、それを求める人は格好良いのかもしれない。
でも、育ちから言えば僕はBGMの世界で育った。

それはクラシック音楽でいうと、
・練習時、擬音語のアドバイスがわからない(共鳴しない)
・練習時、人の営みを基にしたアドバイスには共感できる
 (BGM的な要素を拾い上げる、ということになる。
  音楽があって光景があるか、光景があって音楽があるか、違いはあるけれど。)
・劇音楽かなり好き
というクセになっているな、と感じることが多い。
(どういう育ちをすると、擬音語のアドバイスが理解できるようになるのか…?)

そう、"僕は基本的に劇音楽が好きです"というのが当段落の主旨。



さて、先日"クレルヴォの歌詞を自分で和訳しようとしたらくじけた"話をしたと思う。
挫けた結果どうしたか、ということなんだけど、
珍しくオケのメンバーに"訳(やく)がわからないので教えてください"と頼んだのだった。

結果、オケの皆さんのご協力のお陰で対訳は僕の手元にある。
訳を手元に、クレルヴォ3楽章を聴きこむ。
…と、自分でもびっくりするくらい鳥肌が立つ展開になった。

具体的にはどういうことか。それまでは音楽をただ聴いていたが、
訳を手に入れることによって情景がわかり、
"この情景にはこういう音楽を割り当てよう"という
作曲者の視点を新たに取り入れて(想像して)聴けたことが大きい。
その視点が持てるようになると、シベリウスの音の並べ方に新たな驚嘆が生まれ得る。

・激しく動揺しているときのイメージをどう音に投影したか?
・曲中で"ガビーン"を言わせたい場合どんな音にするか

など、いちいち一つの音節が自分に響くようになる。
劇音楽を、背景をきちんと知らずに弾いてはいけなかったのだ。
楽しむための必要最低限の勉強はすべきだ、と言ってもいいかもしれない。

25分もある3楽章を実に動的に、
25分を長く感じずに聴くことができて大変満足。
演奏会でやる曲というのはリスナーとしては
演奏会が近づくにつれて飽きてしまいがちなものだけど、
ここにきてよさを再認識できた。

そういえば、同じ要因で好きであるところの
チャイコのマンフレッドをやってみたい。どこかでやってないかな…?
(カオスな曲ではあるため、曲選ではまず選出されない。)
コメント
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