球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

綾と飴と水は桃の雫に

2006-10-17 | 技術
※今日は、書く前から内容が難解(俗に言う電波)になることを宣言します。

今さらここで書くのも恥ずかしいくらい当たり前のことなんだけど、
毎日毎日こういうことを書きながら久しぶりに感じたことは、
今自分が生きている世界の中でしかこの世界も広がりを見せないということなんだ。

カテゴリが読書であるということは、その日に読んだ本の感想を、書くということだ。
問題はそこから発されている空気。
その本の内容に触れるか触れないかなんて問題ではない。
読んでいなければ絶対に出てこない、時には絶妙で時にはただイヤミッたらしさが
部屋中を横殴る文体。
それが感想でなくて一体何だと言う!?
本の内容に一文字も触れない読書感想文が存在し得ることを、皆、知ってた?

…というわけで、ちょっと一冊本を読んでしまったりすると、
Blogの内容なんてものはあっさりと日常を離れて遊離していく。
とっても、精神的に安定する。

これは青春生き方文庫のようなハウツー本では得ることができず、
「こんなの読んで一体何の役に立つの?」か、わからない、小説でこそ得ることができるもの。
「作者がなぜこんなことを書いたのか」を考えもしない人に、わかるものか。

最近は生活のことや楽器のことを書くことが多かったけど、
生活のことは生活で表現し、楽器のことは楽器で表現するのが一番かもしれない。
…つまり、書くことってのは、読んだことに対する表現としてこそベストたりえるとしか思えないって話。



よく「言葉では言い表せないほど旨い」とか「言葉では言い表せないほど美しい」
というが、
それは、そのとき食べたり見たりしたものが、読み物ではないからだと思う。

味覚では感じたことがないくらい味わい深い読み物はあるし、
絵では書き表せないくらい、奇妙な描写ってものもある。
別に"言葉"を擁護したいわけじゃなくて、適材適所という話。

「読み物ではないからだと思う」という言い回しに改善の余地を求める人が予想できる。
文章をシンプルにするために、ちょっと乱暴な言い方をしている。
あなたの好きなように解釈して欲しい。



さて、オレンジ色の糖がだらりと垂れる甘ったるいラビリンスは
さっき通った道でさえ薄黄色のべたべたしそうな膜に覆われてしまってなかなか出られない。
かすかな音波は桃色の雫となり、その膜に穴を開けた。

コメント
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