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風声鶴唳

2007-06-01 21:19:07 | 中国のことわざ
中国のことわざ-283 風声鶴唳(ふうせいかくれい)


広辞苑によれば「“ひ水の戦い(“ひ”はさんずいに肥と書く)で敗れた前秦軍の壊走ぶりから“、風の音や鶴の鳴き声をも敵かと思って驚き恐怖心をつのらせること。怖じ気づいた人が、ちょっとしたことにも驚き怖れること」とあります


泰治元年(265年)司馬炎は三国鼎立の中から天下を統一して晋を建てましたが、それから40年後には、再び天下騒乱の時代に入ります。様々な民族があちこちに国を建ててはめまぐるしく交代を繰り返した五湖十六国の時代です。晋も長安の都を洛陽に移して、以後を東晋といいました。


長安から晋を追い出したのは符堅の前秦王朝でした。符堅はさらに東に攻め込み、“ひ水”を挟んで東晋軍と対峙しました。383年のことです。
両軍の軍勢を見ると符堅の軍は百万、東晋の軍は僅かに8万これでは勝負になりません。そこで東晋の将である謝玄は一計を案じて使者を符堅のもとに送って伝えさせました。
「東晋軍は速戦をのぞみたいが、このままでは多勢に無勢で川も渡れない。どうか少しばかり引いてほしい。その間は大軍というものがどのように引いてゆくのか見物させてほしい。そちらが引いた後に我が軍は川を渡るから、そこで決戦をいたそう」
符堅の幕僚達はこぞってその手に乗るなと反対しました。しかし符堅は同転んでも勝利間違いなしと有頂天になっていたか、あるいは謝玄の申し出を「飛んで火にいる夏の虫」とうけ取ったのかも知れません。
「我が軍を引き、敵に“ひ水”を渡らせるその間に数十万の鉄騎をくりだして敵をつぶそうと言って」謝玄の申し出を受け入れた。


前秦側は突然の思いがけない引き上げ命令で混乱が起きたのは自然の成り行きでありました。謝玄はそれを狙いすましたように、八千の精鋭を選んで川を渡り攻め込みました。不意をつかれた前秦軍は算を乱して敗走しました。
その様子を「晋書」謝玄伝は次のように記しています。


「風声鶴唳を聞き、皆な以て王師の己に(すでに)至ると為す。草に行き露に宿り、重なるに飢凍を以てし、死者中に七八」
風の音、鶴の鳴き声を聞いても、それが東晋が攻め込んできたと思いこんだ。そして荒れた草原に追い込まれ、夜霧にぬれ、折り重なるように倒れて飢えと寒さで十中七、八人が死んでいったというのです。


符堅はこの戦いで負傷して長安に逃げ帰りましたが、前秦王朝はたちまち斜陽を迎え、其の翌年の684年後秦の姚萇に滅ぼされました。
田川さんは富士川の合戦で「風声鶴唳」があったのではないかと記しておられます。源頼朝軍と平維盛軍が富士川を挟んで対峙したときのある夜のこと、水鳥がいっせいに飛び立ちました。平維盛軍はそれを源頼朝軍と思いこみ算を乱して逃げ、一敗地に塗(まみ)れたのでした。


出典:広辞苑、田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/37251868.html


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