凡凡「趣味の玉手箱」

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馬を食べたなら酒を飲まないと・・・

2005-08-17 06:01:14 | 十八史略を読む
十八史略を読む-73 戦国の七雄-7
 秦 その3 良馬を食ったなら酒を飲まないと腹をこわすぞ

「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

穆公(ぼくこう)の代となったとき、「百里けい」というものがいた。

百里けいが楚の役人に捕らえられたとき、穆公は百里けいが賢人の誉れが高いことを知り、五枚の牡羊の革と引き替えに百里けいを釈放させ、彼に政治を担当させた。

このことから百里けいは「五こ大夫」と呼ばれた。彼は友人である賢者の蹇叔(けんしゅく)を推挙して、これを上大夫とした。

そのころ、晋の恵公が秦に亡命していた。穆公は、これを晋まで送り返して、晋君の位につけてやったが、恵公はその恩に背き、やがて韓の地で戦うことになった。

穆公は包囲され、窮地に陥ったが、かつて岐山のふもとで穆公の馬を食ったことがある三百人の民衆が駆けつけ、晋軍に襲いかかった。

おかげで晋軍は包囲を解き、穆公は窮地を脱して帰国することができた。

この三百人についてはこういういきさつがある。

穆公の良馬が逃げ出したことがある。これを百姓たちが捕まえて食ってしまったのである。

役人が犯人たちを追いかけて捕まえ、処罰しようとしたところ穆公が情けをかけた。

「良馬を食ったなら酒を飲まないと腹をこわすぞ」

穆公はかれらに酒を飲ませて許してやった。

穆公が晋を攻めると聞くと、彼らは進んで従軍し、先を争って白刃に身をさらし、死を賭して奮戦、かつての恩に報いたのであった。

その後、晋の文公(恵公の兄)が秦に逃れてきた。穆公は、これを助けて晋に送り届けてやった。

文公は即位して後に諸侯に覇をとなえるに至った。

岐山以西に土地を周から賜る

2005-08-17 05:54:26 | 十八史略を読む
十八史略を読む-67 戦国の七雄-7 
  秦 その2 岐山以西に土地を周から賜る

「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

秦の先祖は,五帝の一人、「せんぎょく」の後裔である。

非子(ひし)というものが、馬の飼育に当たり、馬が大いに繁殖したため、その功績により周王から領地を賜り、諸侯に附属する小国となった。

その地が秦であった。

それから二代を経て秦は急速に勢力を強めた。

襄公のとき、犬戎(けんじゅう)が周の幽王(ゆうおう)を殺すという事件が起こった。

このとき、襄公は周救援に赴いて大功を立て、それにより周の平王から岐山以西に土地を賜って、はじめて諸侯に封ぜられた。

秦の概要

2005-08-17 05:51:08 | 十八史略を読む
十八史略を読む-71 戦国の七雄-7 秦 その1 概要
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

秦は春秋の世、穆公(ぼくこう)のとき、国力を強め、また流浪中の晋の重耳を助けて晋に送り込み、君位につかせるなど、中原の諸侯に対し、隠然たる圧力を加えるに至った。

他国から「虎狼(ころう)の国」と恐れられるのは、戦国に入って、孝公のとき、商鞅(しょうおう)を用いて、大改革を行い、富強を築きあげてからである。

中国大陸の西方にあって、東の六強国が覇を争うのをにらみつつ、秦は着々と国力を強めていった。そしてついに前221年、始皇帝が天下を統一する。

秦王暗殺ならず

2005-08-16 17:20:16 | 十八史略を読む
十八史略を読む-70 戦国の七雄-6 燕 その7 秦王暗殺ならず
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

刺客の刑軻は咸陽にたどり着いた。

秦王政は大喜びで引見した。刑軻は地図を取り出した。

秦王の前でそれを開き終わると、なかから七首が現れた。

瞬間、刑軻は秦王の袖をつかみ、七首を突き出した。

刃先が届かぬうちに、秦王は驚いて立ち上がり、袖を引きちぎって逃げた。

刑軻はこれを追う。柱を回って王が逃げ続ける。

秦の法律では殿上に侍る者は、身に寸鉄もおびることを許されなかった。

そのため、左右の者は、てんでに素手で刑軻に立ち向かってゆく。

しかし取り押さえることが出来ない。

「王、剣を背に」お側の者が叫んだ。王は剣を背負って抜きざま、刑軻の左の股を斬った。

倒れた刑軻は七首を秦王に投げたがあたらなかった。

刑軻の五体はズタズタに斬られ、さらしものにされた。

この事件に秦王は怒り、一層兵力を増強して、燕を攻めた。

耐えきれなくなった燕王の喜は丹の首を斬って秦王に献じた。

それから3年後、秦軍は喜をとりこにして、燕を滅ぼし、秦の一部とした。

壮士ひとたび去ってまた還らず

2005-08-16 17:15:53 | 十八史略を読む
十八史略を読む-69 戦国の七雄-6 燕 その6 壮士ひとたび去ってまた還らず
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

刺客の刑軻はかねて用意してあった世に二つとない鋭利な七首を取りだし、これに毒薬を塗って、焼きを入れ、試し斬りをすると、ほんのかすり傷でも皆、即死するほどであった。

かくて旅支度も整い、刑軻は秦に向かって出発した。

易水(えきすい)まで来たとき、刑軻は歌った。風は蕭々として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた還らず。

このとき、白い虹が太陽を貫いた。燕人はこれを不吉として恐れた。


秦王暗殺未遂の背景

2005-08-16 05:37:29 | 十八史略を読む
十八史略を読む-68 戦国の七雄-6 燕 その5 秦王暗殺未遂の背景
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

恵王の後、武成王、孝王を経て、王喜(き)の代となった。

喜の太子丹(たん)は秦の人質であったが、秦王政(せい:後の秦の始皇帝)に冷遇されたため、怒って燕に逃げ帰ってきた。

丹は復讐の念に燃えていた。

折しも秦の将軍、樊於期(はんおき)が罪に問われて燕に逃げてきた。

衛の人、刑軻(けいか)が頼りになると聞いた丹は刑軻を招き、刺客として秦に送り込もうとした。

この時、刑軻は「樊将軍の首を手みやげにし、さらにこれに肥沃の地督亢(とくこう)の地図を添えて秦王に献じたいと存じます」と条件を出した。

丹は樊将軍を殺すのに忍びない。首を縦に振らなかった。

そこで、刑軻は密かに樊将軍を訪ね「将軍の首を頂戴し秦王に献ずれば、秦王は喜んで引見します。その機に左手で袖をつかみ右手で胸を刺す。こうすれば、将軍の仇も報いられる。燕も恥をすすぐことが出来ます」と遠回しに言った。

これを聞くと将軍の樊於期は大きくうなずき、自ら首をはねた。

太子は報を聞いて駆けつけ、死体に取りすがって男泣きに泣いた。それから首を桶に詰めた。

斉、城を奪回

2005-08-16 05:31:31 | 十八史略を読む
斉、城を奪回
十八史略を読む-67 戦国の七雄-6 燕 その4 斉、城を奪回
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

楽毅は斉を破った勝ちに乗じ、6ヶ月の間に70余城を陥落させた。斉の城で降らなかったのは、「きょ」と即墨(そくぼく)だけであった。

昭王が死んで恵王が即位した。恵王は太子の時から楽毅を快く思っていなかった。

この点に目を付けた斉の将軍、田単(でんたん)は、燕にスパイを送り込んで、こうふれまわらせた。

「楽毅は、新王とうまくいかないので、斉を討つことを口実にして帰国しようとしないのだ。今、斉が一番恐れているのは、燕の将軍が交代して即墨を陥れることだ」

恵王ははたして楽毅に疑いを抱き、変わりの将軍を任命して楽毅を召還した。

楽毅は帰国せず趙に逃れた。

かくて田単は、燕を破って、奪われていた城を全て奪回することができた。



まず隗よりはじめよ

2005-08-13 18:33:52 | 十八史略を読む
十八史略を読む-66 戦国の七雄-6 燕 その3 まず隗よりはじめよ
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

昭王は、礼をつくし、禄を厚くして、人材を招こうとした。そして内乱に乗ぜられて破れた斉に破れた恥をすすぎたいと思い、そこで師傅(しふ)の郭隗(かくかい)に「いかなる人物を師とすれば良いか」相談した。

郭隗は「昔、ある王が,お付きのものに命じ、千金を投じて千里を走る馬を探させました。

ところが、使いの男は、死んだ馬の骨を五百金で買って帰りました。

王は立腹しましたがその男は答えました。

『死んだ馬さえ五百金で買ったのです。生きた馬ならもっといい値で買ってくれる、ときっと評判になります。馬はすぐにも集まって参ります』

はたして一年もたたぬうちに、千里を走る馬が三頭も集まって来たということです。

あなたも本気で人材を招こうとなさるなら、まず私、この隗からおはじめ下さい。

私のようなものでも大切にされるとならば、私よりも優れた人物はなおさらのこと、千里の道を遠しとせずにやって参りましょう」

そこで昭王は、邸宅を築いて郭隗に与え、師と敬って教えを受けることにした。

この話が伝わると、人材は先を争って燕に集まって来た。

その一人楽毅(がくき)は、魏からやってきて、将軍に任ぜられ、斉都臨し(りんし)を攻め斉王を都落ちさせた。

子之「塩漬け」にされる

2005-08-13 18:30:06 | 十八史略を読む
十八史略を読む-65 戦国の七雄-6 燕 その2 子之、塩漬けにされる
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

燕の王室の姓は姫(き)であり、周初の功臣である召公せきが封ぜられた国である。

それから三十余世を経て文公の代となった。

文公は蘇秦の説を入れて、六国と合従の同盟を結んだ。

文公が死んで易王(いおう)が即位した。易王は在位10年にして、国を宰相の子之(しし)に譲り、王の仕事を任せ、自分は隠居して政務を執らなくなった。

このため国は大いに乱れた。斉がこれに乗じて、攻めると、ひとたまりもなく破れ、子之は塩漬けにされ、易王は殺された。

その後、燕では太子の平を立てて君主とした。之を昭王(しょうおう)という。


燕 概要 

2005-08-13 18:25:11 | 十八史略を読む
十八史略を読む-64 戦国の七雄-6 燕 その1 概要
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

燕は、戦国七雄のうち、一番北の河北省北部に位置し、北には勇猛な未開民族、南には斉、趙の強国を控えて、たえず外患に苦しんだが、八百年にわたって命脈を保った。

刺客「けい軻(か)」は「壮士ひとたび去ってまた還らず」の名せりふを残して秦王政の暗殺に出かけたが、この成否は、当時の全中国の運命を分けた。