凡凡「趣味の玉手箱」

キーワードは中国です。中国以外のテーマは”趣味の玉手箱にようこそ”で扱っております。

王の秘密を守るため

2005-08-10 13:03:31 | 十八史略を読む
十八史略を読む-63 戦国の七雄-5 楚 その4 王の秘密を守るため 
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

 春申君(しゅんしんくん)が楚の宰相の任についた。

当時、斉には孟嘗君(もうしょうくん)、魏には信陵君(しんりょうくん)、趙には平原君(へいげんくん)、そして楚には春申君がいて、それぞれ食客を抱えていた。

そのころ、趙の人、荀卿(じゅんきょう:人間の天性は悪であるが、後天的努力で矯正できるという性悪説を唱えた荀子のこと)が楚にやってきた。

春申君は荀卿を蘭陵県の知事にした。趙の人梨園(りえん)が妹を春申君に献じた。そして妹が身ごもると、すぐさま引き取って、今度は考烈王の側室とした。こうして生まれたのが幽王である。

幽王は実は考烈王の子ではない。この秘密を守るため、梨園は刺客を使って春申君を殺し、自分は楚の政治を思うままに操った。

幽王が死ぬと弟の哀王が即位したが、自国民の一人に殺された。そのあと腹違いの兄の「負すう:ふすう」が即位した。まもなく、秦王政が楚に軍をさし向けてこれを破り、「負すう」をとりこにした。こうして楚は滅び、秦の一部とされた。


屈原の死 

2005-08-10 13:02:18 | 十八史略を読む
十八史略を読む-62 戦国の七雄-5 楚 その3 屈原の死
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

秦の恵王は斉を攻めようと思ったが、楚が斉と手を組んで秦に対抗することを恐れ一計を案じた。

策士張儀を楚の懐王のもとに送り込み「もし、王が斉に通じる国境の関所を閉じて、姓との国交を絶つならば、わが国の領土ふたつ6百里を献上しましょう」

懐王はこれを真に受け、北の斉に勇者を送り込んで、斉王を辱めた。斉王は激怒して、急遽秦と同盟を結んだ。

さて懐王は約束の地を受け取るために使者を秦に送った。すると張儀は「お約束の土地は広さ6里でしたな」

懐王は大いに怒りすぐさま秦に軍を進めたが、大敗を喫した。

秦は昭王の代となり、楚の懐王と盟約を結び、続いて懐王に書簡を送り、「是非、もう一度武関でお目にかかりたい」といった。

屈原が反対したが懐王は会見の場にのぞんだ。秦は会見の場で懐王を捕らえ、秦に連行してしまった。懐王は秦で悶死してしまった。

屈原は懐王に信任されていたが、讒言にあって遠ざけられた。名作「離騒」はその怨念を綴ったものである。

その後屈原は頃襄王のとき、再び讒言にあって、江南の地に流され、ついに汨羅(べきら)に身を投じて死んだ。

秦は楚を攻め、楚都郢(えい)を陥れた。楚は陳に都を移した。さらにまた頃襄王が死んで、考烈王が即位すると、都を寿春(じゅしゅん)に移した。


鳴かず飛ばず

2005-08-09 20:20:21 | 十八史略を読む
十八史略を読む-61 戦国の七雄-5 楚 その2 鳴かず飛ばず
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

楚は穆王(ぼくおう)を経て荘王(そうおう)の代となった。

しかし荘王は、即位以来三年間、政令一つ出さず、日夜酒宴にふけっていた。そして国中に「あえて諫めるものは死刑に処す」というおふれを出した。

たまりかねた臣下のうち、伍挙(ごきょ)という者が「岡の上に一羽の鳥がいて、三年の間、飛びもしなければ鳴きもしません。いったいどうしたことでしょう」と皮肉を言った。

すると王は答えた。「三年も飛ばないのは、ひとたび飛べば天まで高く飛ぶためだろう。三年も鳴かないのは、一旦鳴けば世間を驚倒させるためだろう」

蘇従(そじゅう)という臣下も、王の前に進み出て諫めた。すると王は、左手で蘇従の手を取り、右手に剣を握って、酒宴のための鐘や太鼓をつるした紐を一気に断ち切った。

その翌日からというもの、荘王は政務にいそしみ、伍挙、蘇従を重く用いた。これを知った国民は喜びにわいた。

荘王はさらに賢人孫叔敖(そんしゅくごう)を宰相にして、ついに諸侯に覇をとなえるに至った。


楚 概要 

2005-08-09 20:16:38 | 十八史略を読む
十八史略を読む-60 戦国の七雄-5 楚 その1 概要
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

楚はび姓の国で、先祖は古代五帝の一人「せんぎょく」から出ている。

春秋の世に武王が出て強大となった。

中原の諸国からは蛮夷として軽んじられながらも、覇を争うほどの大国にのし上がった。

情熱の詩人屈原を生んだのもこの国であるが、屈原を疎んじた懐王(かいおう)は秦に捕らえられ、やがて滅ぼされる。


古い袴も功績をあげた者に

2005-08-09 17:33:51 | 十八史略を読む
十八史略を読む-59 戦国の七雄-4 韓 その3 古い袴も功績をあげた者に
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

韓では景候から4代目哀候のとき、都を鄭に移した。さらに哀候から二代目昭候のとき、鄭の人、申不害(しんふがい)が黄老刑名の学(進言と実績が一致すること)をもって宰相となった。その結果、政治は改革され、軍隊は強化された。

あるとき昭候は、持っていた古い袴を側近の者にしまわせ、近侍に下賜する事をしなかった。このため「情に薄いおかただ」などと陰口をたたかれた。

これを伝え聞いた昭候は言った。

「明君はうかつに顔をしかめたり、笑ったりするものではない。顔をしかめれば、すぐそれにあわせて顔をしかめるものがあるし、笑えばすぐそれにあわせて笑うものがあるからだ。功績のないものに袴を与えれば、その影響は大きい。顔をしかめたり、笑ったりすることが与える影響の比ではない。この袴は功績をあげたものに恩賞として与えるのだ」

この昭候が死んで、その子宣恵王(せんけいおう)が即位した。それから三世を経て、桓恵王が即位したとき、韓の上党郡の郡守が趙に降り、このため、趙は秦の攻撃を受けることになって、長平の戦いで大敗した。

それから一世を経て、国王安(あん)のとき、秦王政が軍をさし向けて安を捕らえ、韓を滅ぼして秦の一部とした。


立派な弟の名を明かさずには

2005-08-09 17:30:36 | 十八史略を読む
十八史略を読む-58 戦国の七雄-4 韓 その2 立派な弟の名を明かさずには
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

濮陽の人、厳仲子(げんちゅうし)は、ある事件から韓の宰相の侠累(きょうるい)に恨みを抱いていた。

たまたま、聶政(じょうせい)という男が武勇に優れていると聞いて、侠累は黄金を差し出して聶政の母の長寿を祝い、仇討ちを依頼した。聶政は母が生きているうちには、この体を人に差し上げるわけには行かぬと断った。

聶政の母が死ぬと厳仲子は聶政に再び仇討ちを依頼した。聶政は今度は引き受け、見事侠累を刺し殺し、厳仲子の代わりにあだを討った。


そして、刺し殺した剣で、顔の皮をはぎ、目をえぐって自分が誰だかわからないようにした

。韓ではこの男の身元を探そうと、屍体を町にさらし、千金の懸賞を付けた。

聶政の姉の「おう」はもしや弟ではないかと駆けつけた。はたして弟であった。

「おう」は屍体に取りすがって、「これは私の弟の聶政という男です。姉の私がいることをはばかって、こんなにまで自分を傷つけて死んだのです。この立派な弟の名をどうして明かさずにいられましょう」こう叫ぶと、弟の傍らで自害した。

韓 概要

2005-08-09 17:29:11 | 十八史略を読む
十八史略を読む-57 戦国の七雄-4 韓 その1 概要
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

韓は魏、趙とともに晋を三分して独立した。戦国七雄のなかでは、もっとも国土が狭く、しかも地理的に中国全体の中央に位置したため、隣接する国々からの圧迫に悩んだ。

特に西に接した秦は、韓にとって最大の脅威であった。

前4世紀、昭候の代には、申不害(しんふがい)を登用して政治改革を断行し、一時は国力も充実したが、その後は衰退の一途を辿った。

信陵君、秦を破るも

2005-08-05 23:14:55 | 十八史略を読む
十八史略を読む-56 戦国の七雄-3 魏 その6 信陵君、秦を破るも
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

魏の安き王が即位すると、公子無忌(むき)に領地を与えて、信陵君とした。無忌は人民に恩徳を施し、また有能な士を丁重にもてなしたので、食客の数は3千人にも達した。

やがて秦の昭王(しょうおう)が趙を攻めた。無忌の姉が趙の平原君の夫人だったことから、趙はしきりに魏に救援を求めた。

しかし魏王は秦を恐れて、がんとして聞き入れなかった。

このとき食客の一人が、策を弄し無忌が秦と戦えるよう下地を作った。そして、無忌は首尾良く秦を破り,趙都の邯鄲(かんたん)の包囲を解いた。

無忌はそのまま趙にとどまり、魏に戻ろうとしなかった。魏に秦が攻めてきた。

魏王は趙に使者を送って、無忌を帰国させようとしたがなかなか応じなかった。

これを見た無忌の食客の毛公らは「もし秦のために、都の大梁(たいりょう)が陥落して先王の祖廟が荒らされることになれば、あなたは何の面目あって生きておられましょう」と魏に戻るよう説得した。

これを聞くと無忌はただちに帰国の途についた。

無忌が魏の将軍になった報せが諸侯に届くと続々と救援軍が送られてきた。

無忌は5カ国の軍を率いて、黄河の南に秦軍を撃破し、さらに勝ちに乗じて追撃し、秦軍を函谷関以西に追い払った。

無忌が死んで18年後、魏王に仮(か)が即位した。それから2年後、秦王政(せい)が軍を派遣して、魏を攻め、仮を殺した。

これをもって魏は滅び、秦の一部に編入された。

わが舌、なお在りやいなや

2005-08-05 23:13:14 | 十八史略を読む
十八史略を読む-55 戦国の七雄-3 魏 その5 わが舌、なお在りやいなや
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

魏の人に連衡策の立役者の張儀という者がいた。青年時代に合従策の蘇秦とともに鬼谷(きこく)先生に学んだ。

やがて諸国遊説の旅に出て、楚に入ったが、ここで宰相から拷問の辱めを受け、ほうほうのていで帰ってきた。

妻が怒ってどなりちらしたが、張儀は平気で舌をぺろりと出して「どうだ、俺の舌はまだついているか」これさえ在れば大丈夫という意味である。

さて、同門であった蘇秦が先に出世して合従を成立させたとき、蘇秦は張儀を秦で出世させようと思い、訪ねてきた張儀が秦に行くようにした。

張儀は秦に登用されたあと、事情を理解し、深く恩に感じた。「蘇秦が生きている限り、私は彼に不利になるような献策は口にすまい」と。

やがて蘇秦が趙を出奔して、合従が壊れた。張儀はこのときとばかり国際舞台で腕を振るった。連衡策をとって、六ヶ国がこぞって秦に服従するようにはかった。

張儀の術策は老獪だった。

例えば秦の恵王のとき、張儀は秦軍を率いて魏を攻め、一都邑を奪うと、それをいったん魏に返した。そうして恩を売りつけておいて魏をだまし、秦にもっと有利な土地を割譲させるという具合であった。

張儀は魏から帰ると秦の宰相になったが、やがてこれを辞して魏に行き、魏の宰相になった。

しかしこれも実は張儀の深謀遠慮であり、秦の利益のためにしたことであった。

秦の襄王のとき、秦に戻って秦の宰相に返り咲き、さらにその後再び秦を離れて魏の宰相になり、そこで死んだ。

為政者の徳こそ宝

2005-08-05 12:46:10 | 十八史略を読む
十八史略を読む-54 戦国の七雄-3 魏 その4 為政者の徳こそ宝
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

文公が死に、その子撃(げき)が即位した。これが武候である。

武候はある時、呉起とともに舟で西河(せいか)をくだった。

その途中、景色を眺めていた武候は呉起に「何と見事なものではないか。この険阻な地形を見るがいい。これこそわが魏の宝だ」

だが呉起はこう答えた。「いえ、国の宝とは地形ではありません。為政者の徳こそ国の宝です。むかし、三苗(さんびょう)氏は左に洞庭湖、右に彭蠡湖(ほうれいこ)という絶好の地形を得ながら、兎に滅ぼされました。夏の桀王(けつおう)も左に黄河と済水(せいすい)、右に泰山、華山、南に伊闕(いけつ)、北に羊腸(ようちょう)という要害に恵まれながら、殷の湯王に駆逐されました。また、殷の紂王も左に孟門山(もうもんさん)、右に太行山(たいこうさん)、北に常山(じょうさん)、南に黄河という自然の要塞に恵まれながら,周の武王に殺されました。かりにわが君が徳を身につけないとするならば、いまこの舟に乗っているものまで、敵国につくことになりましょう」

武候はなるほどとうなずいた。

武候が死に、その子恵王が即位するに至って、国勢はしだいに傾いてきた。

東では斉に破れて、南では楚に破れ、さらに西でも秦に土地を奪われた。

そこで恵王は礼をつくし、待遇も良くして、広く天下の賢人を招いた。

このころ、孟子もやってきたが、結局登用されなかった。