前福井県議会議員 さとう正雄 福井県政に喝!

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あらたな「安全神話」の原子力安全保安院の説明に厳しい批判が相次ぎました

2011年06月22日 | Weblog
福井新聞・・・・停止原発の再稼働議論は平行線 保安院が説明、福井県「不十分」(2011年6月21日)


経済産業省原子力安全・保安院の黒木慎一審議官は21日、福井県と県会に対し、県内原発の安全対策は適切で、運転には安全上支障ないと説明した。東京電力福島第1原発事故の原因として高経年化(老朽化)や地震の影響はないとの見解も示した。これに対し県や県会は「根拠がない」と反発。現段階で停止中の原発の再稼働は認めないとする立場を変えなかった。

 西川知事は同日「県のこれまでの要請に対する回答になっていない。国として前進させる意欲が全く見られず、再起動に向けた安全対策を積極的に進めない国の責任は大きい」とのコメントを出し、国の対応に強い不快感を示した。海江田万里経産相は本県など立地自治体を訪れ、再稼働を要請したい考えだが、会談の受け入れは困難な状況だ。

 黒木審議官は満田誉副知事と面談し、緊急安全対策や過酷事故対策などを説明した。県が説明を求めていた高経年化や地震の影響に関しては、データの解析からは安全上重要な設備に影響は見られず、事故原因ではないと指摘。停止要請した浜岡原発との違いについては「福井県周辺にはプレート境界がなく、大津波が襲来する切迫性がない」とした。

 高経年化と地震の影響に関し満田副知事は「(データ上)プラントが動いていたというだけで損壊していなかったと断じていいのか。なお徹底して原因究明すべきだ」と反論した。また、若狭湾で過去に大津波が襲ったことを示す文献があるとして「プレート間地震だけが大きな津波になると言えるのか」と疑問を呈した。

 実施された安全対策は「プラント全体の安全確保強化に結びついていない」との認識も示し、2、3年で取り組むとしている中長期対策の前倒し実施を要請。福島で新たな知見が得られた場合、速やかに安全対策や安全基準に反映させることも求めた。

 会談後、満田副知事は記者団に「高経年化の影響などでなお十分な説明が必要。疑問がきちんと解決されなければならない」と述べた。知事はコメントで、保安院と原子力安全委員会の一体的な責任ある姿勢が見えない点も指摘した。

 一方、黒木審議官はプラントなどの基礎データを使い、根拠を示した形で安全性をさらに説明する考えを示した。県との認識の差には「規制当局がギャップを埋める努力をしないといけない」と述べた。・・・・・・





      昨日は、原子力安全保安院、資源エネルギー庁による説明会が県議会にたいしておこなわれました。
保安院からは黒木審議官、熊谷原子力発電検査課長補佐、エネ庁からは森本原子力立地・核燃料サイクル産業課長らが説明者として来福しました。

福島原発事故をふまえて

●地震発生時にプラントは正常に停止。冷却機能も正常に作動。
●高経年化による劣化事象が事故の発生、拡大の起因になったことはない
●福井県の周辺海域にはプレート境界はなく、浜岡で想定されるような大きな津波襲来の切迫性はない

したがって、福井県内の原子力発電所等の運転継続や運転再開に安全上支障はない、というものでした。


この説明には、多くの議員から批判が相次ぎました。
わたしも、女川原発では2000ガルが記録され、地震の影響が確認されていることや、福井の原発直下や近傍に活断層が確認されたことにふれ、保安院の説明ではまったく信頼できない、と批判しました。また、佐賀県議会には福島事故の生データなども提供し説明しているのに、福井県議会での説明資料では省かれていることについて、説明内容に「格差」をつける問題を指摘しました。

黒木審議官は「女川についてもきちんと反映していく必要がある。東電のデータは数千ページあり、そういう証拠を出していくといいと思うが、頭が混乱すると思った。災害は起きたが、原発は運転するものは運転している。ので地元説明させていただいている。県議会への説明では、佐賀県議会には詳細データを提供した」などと答えました。
私は「運転しているものは運転しているから、という言い方では県民理解は得られない」と批判。黒木氏は「言い方は十分注意して対応する」と答えました。

多くの議員も批判してましたが、いきなりの「安全宣言」は、国民、県民の空気をよめないKYでしょう。
わたしは、「そのような態度は、あらたな安全神話のはじまりになる」と指摘しましたが・・・・・・。






昨夜は、子どもの時から県議会議員選挙まで大変お世話になった長谷川義一さんのお通夜でした。享年83歳。
昨年7月に脳卒中で倒れ、1年の闘病生活でした。ほんとうに、働き、働き、という仕事人間の方でした。

父の存命中は農作業などはよく「共同、手間替え」でのおつきあいでした。私の両親が車の運転ができないため、よく福井市内を両親を乗せてまわっていただいていました。
本当に長い間お世話になりました。ありがとうございました。