雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

テスバウ共和国 入国体験記 ・ 第十五回

2011-08-17 11:09:18 | テスバウ共和国 入国体験記 
     第三章  私たちの国

          ( 1-1 )

入国体験講座が始まった。
もっとも、配布された資料にある講座日程表によれば、昨日の役員挨拶が最初のプログラムになっているので、正しくは講座の二日目が始まったということになる。
会場は昨日と同じで、全員が昨日と同じ席に着いた。朝は九時に集合、九時十五分に講義が始まり、午後四時半に終了というのが大体の日程になっている。
日程表には全八週間の大まかな内容が書かれていて、第一週目の五日間は国家全体の組織とか、運営体制、財政状況などの説明が主体で、土曜と日曜の二日間はお休みで講義は予定されていなかった。

二日目最初の講義は、昨日も挨拶に立った理事長の石田順三が講師であった。講義の表題は、『私たちの国テスバウ共和国が目指すもの』となっている。
石田は、昨日に続き参加者に対して歓迎の言葉を述べたあと、簡単な自己紹介を始めた。
それによると、石田理事長は現在満七十歳、テスバウ共和国の市民権を得たのが六十五歳の時なので、当然のことながら、まだ五年余りしか市民生活の経験がなかった。

もともとは大化学者を目指した優秀な研究者で関東の有力大学の教授になる一歩手前までは順調だったのだが、そこで悪い仲間に誘われて民間企業に移り娑婆の世界を経験したと、冗談を交えながら自己紹介した。

中堅の化学会社の研究室に招かれた石田は、大学の研究室とは肌の違う厳しい競争環境の中で戸惑いながらも、幾つかの成果を生み出していった。目まぐるしいばかりの競争は、その中に身を任せているうちにある種の充実感を与えてくれるものでもあった。
いつか社内での身分も上がり、同時に自ら望んだわけではなかったが、職務範囲は広がり研究者というより経営陣の一員として活動するようになっていった。経済的にもそれなりに恵まれていたし、子供はいなかったが妻との生活にも満足していた。
しかし、ある時ふと漏らした妻の一言が彼に衝撃を与えた。

「結局わたしたち、慌ただしく一生を終えるのでしょうね・・・」
妻は社交的な性格ではないが、若い研究者や会社の部下たちを自宅に招いた時には気持ちの良い応対をしてくれていて、現に今でも妻のファンだという後輩が何人かいるのである。
近隣の人や、古くからの友人も何人かおり、旅行や習い事などそれなりに充実した毎日を送っているように見えていた。子供がいないという面はあるが、たまたま授からなかっただけで、結婚以来二人だけの家庭というものを築き上げてきたつもりであった。
しかし、妻の漏らした一言は、彼には少なからぬ衝撃となって伝わってきた。考えてみると、二人で築いてきた家庭だといっても、殆ど全てが彼を中心に慌ただしく動いていた。妻が家庭生活をどう考えているかなど考えてもみなかった。

この妻の一言は、単に妻の人生を思いやる切っ掛けになったばかりでなく、石田自身の将来に思いを巡らす切っ掛けとなった。彼も、いつか六十歳に手が届こうとしていた。
石田は、自分の人生というものを真剣に考え始めた。それは、初めてといってよい経験であった。
もちろん、若い頃には人並みに仲間とそれぞれの将来を語り合ったこともよくあった。研究者としての進路を定めた後も、折々に思い悩むことも少なくなかった。自ら望んだことではなかったが、いつか研究者から管理者へと進み、幾つかの研究チームを統括する立場になっていった。

自らが研究に没頭する時間は失われていったが、若い研究者に活躍の場を作るべく腐心することも、それはそれでやりがいのある仕事であった。
高い能力を持ちながらチャンスに恵まれず挫折していく部下がいた。なまじ先が見えるばかりに、闇の向こうにある真実を見つけることの出来ないエリートがいた。偶然掴んだ新発見を己の能力の成せるわざと勘違いして、社内地位の向上と共に傲慢で面白味のない男になっていった者もいた。愚直なまでにこつこつと縁の下の力役を務め、属したチームは常に相応の成果を上げながら職業人としては日の目を見ることの少ない男もいた。

幸いにも会社は大きく成長し、石田は数百人の研究員を統括する立場に立っていた。
目まぐるしく発展する技術競争の中で身を削るような緊張こそが生きがいだと考えていた。自分は、研究者としてよりも、多くの研究者に活躍の場を与える仕事の方が適しているように思えるようにもなり、いささかの自信も掴みかけていた。
しかし、「結局わたしたち、慌ただしく一生を終えるのでしょうね・・・」という妻の言葉に、石田は愕然としたのである。

「そのような、気持ちが激しく動揺している頃に、私は大月先生に会ったのです」
石田順三は、一呼吸置くように言葉を切り参加者を見渡した。

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