雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

言葉のティールーム   第九話

2009-12-26 11:48:21 | 言葉のティールーム

『 天網恢恢疎にして漏らさず 』


「てんもうかいかい そにしてもらさず」と読みます。
これは「老子」の中にある言葉です。第七十三章の最後の部分です。
老子は中国の春秋時代から戦国時代にかけての頃に実在したとされる思想家で、その著書も同様に呼ばれています。


中国の春秋時代から戦国時代といいますと、紀元前七百七十年頃から紀元前二百二十年頃までの五百五十年程を指します。
王朝名でいえば周王朝にあたりますが、周王朝は紀元前千百年頃に武王により成立したあと三百年程で衰退してしまい、長い長い戦乱の時代に突入していきました。
春秋戦国時代とも呼ばれる戦乱期は五百年以上も続き、やがて、秦の始皇帝により収められるのですが、老子が活躍したとされる時代は、その戦乱期の真っ只中でした。


中国の歴史書や逸話などから孔子とほぼ同世代の人物と推定され、二人が会ったという逸話によると、老子の方が年長のように思われます。一方で、孔子より後の時代に活躍した孟子の頃にも老子が登場するようなので、二百歳位までは生きた人物のようです。
どこまでが真実なのかは別にして、老子が謎の多い人物であることは確かのようです。


私はある時期、老子に少々興味を持ったことがありました。特別に勉強したわけではありませんが、何冊かの解説書を読みました。老子に関する解説書は、古くに発行されたものまで遡りますと以外にたくさんあります。私は、それらの何冊かを読んだ程度で、その解説に寄りかかった程度の知識しか持っていませんので、ご承知下さい。


戦後教育を受けた人にとって、老子はあまり馴染みのない人物です。
その人物像については、髭を生やして生まれてきたとか、たいへん長命であったとか、謎めいていて面白い存在なのですが、何分二千五百年も昔の中国の人ですから、その真偽を確かめるすべなどなく、伝えられている逸話を眉に唾しながら信じるばかりです。


著作物としての「老子」は、全体が八十一章からなるものですが、各一章の量が比較的短く、趣味として勉強するには手頃なものだと思います。
ただ問題は、少々難解なことです。
文字や文章が難しいという意味ではありません。いえ、文字も文章も特別難しいのですが、そのようなことは私とっては当たり前のことで、驚くほどのことではありません。漢字の三分の一は書くことができない文字ですし、私は易しい漢文でも満足に読めないのですから。

難解と言いました理由は、一つは解説書によって解釈がかなり違うということです。原文についても幾種類も伝えられているようですし、和文に読み下していく場合でも研究者によってかなり違う部分が少なくありません。
二つ目は、その考え方といいますか、大きくいえば老子の思想というものが、私たちには少し肌に合わないような感じがすることがあるからです。


一般にいわれています老子の思想は、宇宙といいますか自然といいますか、本来ある絶対的なものの力に逆らわず、無為、自然のままであることが大切だというものです。剛より柔、争いより平和、謀略より無為、といったものを大切にしており、中には明らかに儒教に対抗していると思われる部分もあります。


老子の思想について私などが説明しましても正確なはずがなく無駄なことですが、無駄も必要と老子は教えていますので、その教えに甘えて先人の受け売りを書いてみました。
「老子」に書かれている内容の多くは、むしろ今日的な考え方も多く、私たちの生活の指針の中にもっと取り入れるべきだと思うのですが、それでいて何か馴染めないものを感じてしまうのは、私たちの身体の中にいつの間にか儒教的な考え方が植えつけられているのかもしれません。


私が、この「天網恢恢疎にして漏らさず」という呪文のような言葉を知ったのは、小学校の、それもまだ低学年の頃のことです。
その頃、昭和二十年代の中頃までは敗戦後の混乱がまだ色濃く残っておりました。物質的にも精神的にも、多くのものが壊れ、そして失われ、何もかもが足らない時代でした。

子供たちの遊びも、走りまわったり、身体をぶつけ合ったり、要は物を使わずに身体だけを使ってできる遊びが主体でした。多くの地域では、小学校低学年で午前と午後に分かれて登校する体制が取られました。教室が不足し、先生も足らなかったのかもしれません。
給食などは制度としてなく、ごくたまに出されるミルクは、脱脂粉乳から作られたものなのですが、ハラペコの子供たちの中でも飲める子は少数でした。


そんな時代の小さな子供たちにとって、紙芝居はたいへん楽しみなものでした。
自転車の荷台に紙芝居の道具を積んでやって来るのですが、もちろんその小父さんも職業として生活費を稼ぐために巡回しているプロなのです。駄菓子のようなもの、例えば今すぐに思いだせるものとしては、するめを甘辛く煮たものや、大きな酢昆布なのですが、確か五円位で買うと紙芝居を見せて貰える仕組みでした。


その頃の五円というのは、子供たちにとって貴重なお金でした。正確な記憶ではないのですが、私の仲間なのでは一か月の小遣いはせいぜい百円でした。それも、一か月分をまとめて貰える子供など居りませんでした。当時の国鉄(現在のJR各社)の最低運賃が多分十円位で、しかも人々の生活状態は大半の人がその日暮らしに近い状態でした。従って、当時の五円を現在の貨幣価値に換算することには無理があると思うのですが、私の感覚では、紙芝居を見るための駄菓子代は、今の二、三百円にあたるように思います。


私だけでなく、仲間たちの殆んどが親から毎日五円を貰うことなどできませんでしたから、三日に一度くらいだけは、買ったするめをこれ見よがしに食べながら前の方で紙芝居を見るのです。あとの二日は、後ろの方で肩をすぼめながら、ただ見をするのです。たまには紙芝居の小父さんに嫌味を言われることもありましたが、追い払われるようなこともなく黙認してくれていました。


紙芝居の内容もよく覚えていないのですが、鞍馬天狗とか黄金バットなどが登場してきたことは記憶にあります。ストーリーなども忘れてしまっているのですが、今も鮮明に覚えているセリフが二つあります。


その一つは、「いよいよ明日はクライマックス」という言葉です。
せりふというより、紙芝居の小父さんの絶叫するような声を今も覚えているのです。紙芝居は一編が十枚ほどでできていて殆んどが続きものなのですが、その日の場面が終わるところで小父さんは叫ぶのです「いよいよ明日はクライマックス」と。
私たちは、翌日もその物語の行方を楽しみに紙芝居を待つのですが、物語はクライマックスらしきものもなく進み、その日の終わりの場面では、小父さんは再び叫ぶのです。
「いよいよ明日はクライマックス!」


そして、もう一つの言葉が「天網恢恢疎にして漏らさず」でした。
こちらの方は、悪人を懲らしめるために正義の味方の主人公が登場する時に使われる言葉でした。もちろん子供たちには、どんな字を使うのか、どういう意味を持っているのかなど全く分かりません。しかし、小父さんがこの言葉を声高らかに唱える時には、必ず正義の味方が登場してきてかわいそうな少女を助け出してくれるという予感に、身を乗り出したものでした。
あれは、正義の味方のテーマソングであり、私たちを虜にする呪文だったのかもしれません。


「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉の意味は、「天が持っている網は広大でその目は粗いが、決して漏らすことがない」といったものです。つまり、天が持って網はそれとは分からないほど大きく、その目もとても粗いものなので、悪事や不条理を自由にさせているように見えるが、決して逃すことはないというのです。
「天」というのは、老子のいうところの絶対真理とでも訳すのが正しいように思いますが、もっと簡単に、軽い意味での「神さま」と考えていいのではないでしょうか。
紙芝居の小父さんの、あの呪文のような叫びは、正義の味方を登場させるのに実に適切な言葉を選んでいたのです。


冒頭でも述べましたように、この言葉は「老子」の第七十三章の最後の部分です。この章も、解説書によって違うとらえ方がされています。また、「漏らさず」の部分も「失わず」となっている本も多いのですが、私には子供の頃の呪文のような響きが忘れられませんので、「漏らさず」を使わせていただきました。


さて、現実の私たちの日常を考えてみますと、天の網が本当に機能しているのか疑問に思うことが少なくありません。小さな魚は捕えても大きな魚は見逃すのが、天の摂理のように感じてしまうことも少なくありません。
?舟の魚は枝流に游がず(舟を呑み込むような大きな魚は、小さな川には住まない)という言葉がありますが、私たちの社会の現実はこの言葉の方に納得してしまう部分も少なくないように思えます。
悪人の中の大物は、たとえ天が打つ網であっても、遥か離れた安全な場所で、そんな網には掛からないよと、せせら笑われているような気がすることが確かにあります。


しかし、本当はどうなのでしょうか。
老子が教えるように、全てのものを取り逃がすことなく裁く「天の網」など、存在するのでしょうか。老子は、単に凡人を戒めるために言った言葉に過ぎないのか、それとも、私が子供の頃に胸をときめかせたように、「天の網」を持って颯爽と現れる正義の味方が存在しているのでしょうか。


まあ、私としましては、せっかく今まで心に抱いてきた言葉なので、「天の網」を恐れながら生きるようなことは避けたいと思うのですが、目が粗いことをいいことに小ずるく立ち回るのを笑いながら見逃してくれたことが、すでに何度もあるのかもしれません。


*****          *****          *****

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 言葉のティールーム   第十話 | トップ | 言葉のティールーム   第八話 »

コメントを投稿

言葉のティールーム」カテゴリの最新記事