雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  ほんろうされながら 

2012-12-09 08:00:29 | 運命紀行
       運命紀行

          ほんろうされながら


阿野廉子が中宮のもとに出仕したのは、十九歳の頃のことであった。

元応元年(1319)、西園寺禧子(キシ)が後醍醐天皇の中宮に冊立された折に、中宮付き上臈として宮中に入ったのである。
しかし、ほどなくして廉子は後醍醐の寵愛を受けることになる。それも、並居る後醍醐の后妃の中で一番の存在感を持つようになっていくのである。
中宮付きの女房として出仕した廉子にとって、決して意図したことではなかったが、才色兼備と伝えられる女性は、やがて激動の舞台へと押し上げられていくのである。

中宮付き女房から、後醍醐の寵愛をうける身になることは、中宮の立場を奪い取った形に見えるが必ずしもそうではなかったようである。
中宮禧子が後醍醐と結ばれたのは、十一歳のことであった。まだ皇太子尊治親王であった後醍醐に略奪されるような結婚であったらしい。十三歳の頃には内親王(後の光厳上皇妃)を儲けている。
十六歳の時に後醍醐が即位すると女御の宣下を受け、中宮に就いたのは十七歳の時であった。
禧子の実家である西園寺家は鎌倉幕府との関係が強く、後醍醐にとって重要な公卿であった。幼い姫を略奪するほどの愛情に加え、政略面でも重要な意味があり、後醍醐はこの中宮を大切にしていたようである。

図らずも、後醍醐の寵愛を受けることになった廉子は、その意思に関わらずその政権の中で重きを成すことになっていく。
三人の皇子と二人の皇女を儲け、後醍醐の再三の決起や配流や逃亡に常に同行していた。
元弘の乱のため後醍醐が隠岐に配流となった時にも同道し、その後の隠岐脱出から京都奪還までの間も付き従っていたようである。

因みに、中宮禧子は京都に残り、新たに立てられた光厳天皇より女院号を宣下され、出家している。この光厳天皇は北朝初代とされる天皇である。
その翌年後醍醐が政権を奪取すると、中宮に復され、その後皇太后となるも、それから間もない元弘三年(1333)十月に崩御している。享年三十一歳である。

常に後醍醐と行動を共にしていた廉子は、建武新政下においては皇后並の待遇を得ていた。それは単なる地位的な意味だけでなく、政治向きのことに対しても少なからぬ影響を持っていたようである。
自分が産んだ皇子恒良親王の立太子や、後醍醐と対立し始めていた護良親王を失脚させたのも廉子が足利尊氏と謀ったことだともいわれている。

やがて、新政権は脆くも瓦解、後醍醐は吉野に逃れるが、廉子も従い、吉野を中心とした後醍醐を助けた。
決起しては敗れ、逃亡してはまた決起する波乱の日々を、廉子は後醍醐の単なる寵妃などではなく、南朝と呼ばれることとなる弱体政権を必死に支えていたのである。

やがて、延元四年(1339)八月、後醍醐は強大な足利政権に対してあまりにも脆弱な政権を残して崩御する。享年五十二歳。廉子は三十九歳になっていた。
その跡は、廉子の儲けたうち一番下の皇子が継いだ。後村上天皇である。
後村上天皇はこの時十二歳。文武に優れた気鋭の人物とされるが、若年での即位であり、皇太后となった廉子が積極的に貢献したであろうことは間違いあるまい。
この後も、圧倒的に不利な体制の南朝を護り続け、京都を奪還すべき戦いを続けた。
それは、五十九歳で崩御するまで続き、後村上天皇もまたその遺志を継いで、和議の話を受けようとせず南朝政権として戦い続けるのである。

「新葉和歌集」に廉子のこんな和歌が残されている。

『 時しらぬ嘆きのもとにいかにして かはらぬ色に花のさくらむ 』

後醍醐を偲んで歌ったものであるが、後醍醐と共に行動し、その亡き後もまるでその遺志を継ぐかのように南朝を護り通そうとした阿野廉子。
それは、後醍醐への限りない尊敬や愛情から生まれたものなのか、それとも、さらに大きな要因があったのか、それを知りたくてならない。


     * * *

阿野廉子が生まれたのは正安三年(1301)のことで、鎌倉時代の末期とはいえまだ北条政権健在な時代である。
廉子は、五十八年の生涯を送るが、そのうちの二十四年間は南北朝と呼ばれる時代を生きたのである。南北朝時代をおよそ五十六年間とすれば、その前半の相当部分について大きな役割を担っていたと考えられ、その子後村上天皇の活躍期間までも合算するとすれば、およそ三十三年となり、南北朝時代の六割にあたる期間に影響を与えていたといっても過言ではあるまい。

廉子の父は、右近衛中将阿野公廉である。阿野氏は、藤原北家閑院流の名門貴族であるが、当時は超一流の貴族に位置していたわけではない。たまたま中宮禧子に仕えたために、歴史の表舞台に登場することになるのである。
なお、廉子の読み方であるが、ヤスコともカドコともいわれているが、「レンシ」と呼ばれるのが一般的のようである。

「太平記」に限らず、後世廉子が登場する物語などは多数作られており、現代文学においても登場しているが、そのほとんどは、悪女的な取り扱いのものが多いようである。
その源泉ともいえる「太平記」は、「雌鶏が鳴いて夜明けを報せると一家が滅ぶ」という中国の諺を引いて、廉子を批判的に描いている。その根拠としては、建武の新政実現に功績の大きかった護良親王を足利尊氏と謀って後醍醐に排斥させたことや、わが子恒良親王が皇太子に就くため暗躍したとかを理由としている。

しかし一方で、決起しては敗れ、決起しては敗れという後醍醐を支え続けた功績や、彼女の五人の子供の波乱の生涯を合わせて見た場合、廉子を悪女と評するのはある一面を見ての判断のように思えてならない。
例えば、五人の子供の生涯を覗うだけでも、決して安穏な生涯でなかったことが分かるはずである。

二人の皇女のうち、上の祥子内親王は、斎宮に卜定され京都野宮で三年ばかり籠っている。戦乱のため伊勢に向かうことはなかったが、母としては辛い時間であったことだろう。
下の惟子内親王は、尼となって嵯峨今林に住んでいる。
三人の皇子たちについては、今少し詳しく見てみるが、後醍醐得意の戦法として、まるで錦の御旗のように有力豪族に預けられ、各地を転戦しているのである。

一番上の恒良親王は、後醍醐が決起した元弘の乱の時は七歳くらいであったが、鎌倉方に捕らえられ但馬国に流されている。その後足利尊氏が鎌倉を裏切り六波羅探題を攻撃した戦いには、太田守延に奉じられて攻撃に参加している。
建武の新政が始まると、廉子の暗躍があったか否かはともかく皇太子となったが、ほどなく新政は瓦解、湊川で勝利した尊氏が京都に攻め込んでくると、比叡山に逃れていた後醍醐から三種の神器を譲られ、異母兄の尊良親王とともに新田義貞らに奉じられて北陸に下向している。この地からは、天皇の命令書である綸旨を発給するなど天皇として行動していたようだが、京都を脱出した後醍醐が吉野に南朝を開いたため、梯子を外された状態にされている。
翌年、足利勢に拠点である越前金ヶ崎城が落され、義貞は脱出するが、尊良親王は自害、恒良親王は捕らえられ京都に送られ、幽閉の後毒殺されている。まだ十四歳の時のことである。

二番目の成良親王は、兄が皇太子に指名された時、鎌倉府将軍となり尊氏の弟足利直義に奉じられて関東統治のため鎌倉に下向している。
翌年の中先代の乱の際には京都に戻り、一時は征夷大将軍に就いたがすぐに停止されている。その後、尊氏に擁立された光明天皇の皇太子になるが、これも後に廃されている。
「太平記」によれば、兄と共に毒殺されたとあるが、実際はもっと早くに殺されているらしい。いずれにしても、兄よりもさらに若くしての逝去と思われる。

三番目の義良親王が後の後村上天皇である。
建武の新政が始まると、まだ六歳の義良親王は、東国武士を帰属させることを目的に北畠親房・顕家に奉じられ奥州多賀城に派遣された。多賀城となれば、当時の京都政権から見ればまさに北端の地であったろう。
建武二年に足利尊氏が離反すると、北畠顕家らと共に尊氏討伐のため京都に戻る。そして、尊氏が九州に落ちていくと、再び奥州に赴いた。
建武四年(1337)、今度は多賀城が攻められ苦戦となるが、八月には後醍醐支援のため京都に向かった。
十二月には鎌倉を攻略し、翌年一月には美濃国青野原で足利方を破り、後醍醐の逃亡先である大和の吉野行宮に到着している。
その後再び、南朝方の支援者を募るべく伊勢大湊より奥州を目指すが、嵐のため船が難破し果たせず、吉野に戻る。その後まもなく、皇太子に就く。
延元四年(1339)八月、後醍醐崩御。義良親王が跡を継ぎ後村上天皇誕生となる。

十二歳で南朝を率いることになった後村上は、若年ながら畿内を中心に綸旨を発し南朝勢力の拡充に奔走している。母である皇太后廉子の後見を受けながら、圧倒的に弱小である南朝政権を支え続けた。
それは、廉子が没した後も変わることなく、四十一歳でわが子に跡を託して没するまで南朝政権を護り抜くのである。

廉子は後村上を後見し続け、正平十二年(1357)九月に落飾し、同十四年(1359)五月に河内観心寺で崩御した。享年五十九歳であった。
後醍醐と共に波乱の時を送り、その死後もわが子を助けて南朝を護ろうとした真意は何であったのか。
後醍醐の遺志を貫くためであったのか、若くして死んでいった子供たちの無念を弔うためであったのか・・・。
いずれにしても、その懸命な生きざまを悪女などという表現で捉えることが正しいとは思われない。
歴史上、南朝の存在に意義があるとするならば、その原因を作ったのは確かに後醍醐であるが、その存在を確かなものにした第一人者は、阿野廉子だと思えてならないのである。

明治四十四年(1911)、南朝が正統とされたことによって、後村上は正式に第九十七代天皇となり、廉子も皇太后として認知されることになった。
それが、廉子の懸命の生涯に報いることになるわけでもあるまいが・・・。

                                        ( 完 )

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