初日に「ナルニア国物語」をどうしても観たくて、小学生の甥っ子を無理矢理誘って観に行った。
「僕も4月から中学生なるのだからね。これからは、恥ずかしいから、おねーちゃんとは一緒に映画を観に行きたくないよ」
ちょっと生意気な口を利くようになった彼を、なだめすかして、やっとのことで映画館に辿り着いた。
彼に見捨てられたら、わたしにはもう映画館に一緒に行ってくれそうな人間はいない。そう思うと彼の言いなりになるしかなかった。
足元を見透かされたわたしは、「ナルニア国物語」に続いて、彼が最も観たい映画も観ることになった。途端に、目を輝かせて喜ぶのだから、可愛いものだ。彼が一番観たいのは「ワンピース」だと言う。ワンピースはわたしもファンだからいいのだけれど、意外にも彼は「有頂天ホテル」も観たいらしい。
「有頂天ホテル」は、この間、本当に久しぶりに彼氏に連れて行って貰ったばかりなので、少し複雑な気持ちがした。
「ナルニア国物語」は、午前中の早い上映開始にも拘らず、一番大きな上映館がほとんど埋まっていた。東京ならいざ知らず、わたしの住む地方都市では、こんなに入っているのは、かなり凄いことなのである。
観客は家族連れが多かった。男女のカップルはちらほら程度だった。
最初は、あまり乗り気でなかった甥っ子も、上映が始まると、たちまちナルニアの世界に夢中になってしまったようで、画面に目が釘付けとなっている。
第2次世界大戦中の英国。
ドイツ空軍の空襲にさらされたロンドン市民は、子供たちを安全な田舎に疎開させる。
壮大なファンタジー、夢と希望に満ちたナルニア国物語は、彼らの疎開先の田舎の屋敷の中で静かに始まった。
4人兄弟の中で一番幼い「ルーシー/ジョージー・ヘンリー」はかくれんぼをしていて、空き部屋の不思議な衣装箪笥をみつけ、偶然にも、その奥が「ナルニア国」に繋がっていることを発見する。
ここで興味深いのは、次男の「エドマンド/スキャンダー・ケインズ」が箪笥の奥の秘密の入り口のことについて、嘘をつくことだ。ルーシーがナルニア国の話が嘘でない証明として、エドマンドも一緒にナルニア国に行ったことを話してと頼むのに、エドマンドはルーシーの話をみんなの気を惹くための作り話だと言う。
エドマンドの嘘で、ルーシーは深く傷つく。
そればかりではない。エドマンドは、白い魔女「ジェイディス/ティルダ・スウィントン」の策略に陥り、
食べれば食べるほど欲しくなるという魔法のお菓子「ターキッシュ・デライト」欲しさに、嘘をついて兄弟を裏切るのだ。
その彼が「正義王」となる宿命を背負っているという。
何とも皮肉な話ではないか。嘘をついたり、人を裏切ったり、およそ「正義」とはほど遠いところにいると思われるエドマンドが「正義王」とは。
☆「正義」とは、「弱い心」を知ってこその正義なのだ。
わたしは「正義とは何か」という問いかけが、この作品のテーマのひとつではないかと思った。エドマンドのような「弱い心」を持っている人間こそが、正義のための「強い心」を持ちうるのだという逆説的ともとれる考え方に、わたしは凄く共感を覚えたのだ。
日本人の心の中には、「大岡裁き」や「判官贔屓」などに代表されるような、理屈のうえでは「こちらが正しい」と判っていることでも、心情的に心地よい「あちらの正しくない」方で決着をつけたがるという国民性がある。
否、欧米においても、「ベニスの商人」に見られるように、「感情」に配慮した判断を肯定する考え方はある。
正義の名をもって、人が人を裁くのである。所詮、人とは独りでは「不完全」なものなのだ。そうであるならば、弱い心を持つ者こそ、それが何たるかを知り、弱者の痛みの判る「感情に配慮した」「正しい」判断ができるのだと確信する。
そういう意味で、嘘をついたり、兄弟を裏切ったりしたエドマンドが正義王になる宿命を背負っているという設定に、正義とはどうあるべきなのかという作者の主張が込められているような気がした。
このように考えると、アスランと白い魔女との最初の対決の意味も、単にアスランが嬲り殺しにあうというだけのものでないと気づくはずだ。
白い魔女は、古の掟「初めにありき魔法」を楯に、エドマンドの命を差し出すように求める。「初めにありき魔法」は、アスランの力をもってしても、抗することはできないほど強大なものだ。白い魔女ジェイディスの主張は、「初めにありき魔法」に則ったもので、どこにも付け入る隙はない。このままでは、アスランはエドマンドを差し出すしかない。
苦悩したアスランは、自らがエドマンドの身代わりとなることを決断する。
しかし、幸いなことに「初めにありき魔法」は、罪のない者が石舞台のうえで殺される時、全ては無効になると定められていた。
この「とってつけたようなご都合主義」のストーリー展開には少々興醒めしたけれども、アスランが死んだままでは話が進まないので、やむを得ない。
魔法に対する理解力は、アスランの方が白い魔女を上回っていた。これが両者の命運を分けたということにしておこう。
このへんの感覚は、日本的な「大岡裁き」というよりは「ベニスの商人」の逸話に近いものを感じる。
つまり、法(決まり=魔法)には「抜け道」が用意されているのであって、その抜け道を上手に活用することにより、「真の悪者を懲らしめる」=「弱者を救済する」ことができるのである。
悪賢い白い魔女は「規則」を守ることを要求したが、杓子定規に「規則」を守ることだけが「正義」ではなく、また、「規則」を守るだけでは、戦いには勝てないと言う事かも知れない。第一、白い魔女の「心」の中には、「正義」など元々なかった。あったのは、アスランに対する「憎悪」だけであった。
アスランは、エドマンドを救うために、エドマンドを差し出すことを拒絶するという「違反」の代償として、身代わりになるという「自己犠牲」を提示した。一方、白い魔女は、宿敵アスランを倒せるというあまりに大きな餌に目が眩んで、それこそが「法を守る」ことから逸脱しているのに気づかず、アスランの提案に乗ってしまった。アスランの違法が「弱者救済」と「愛情」にもとづいたものとするならば、白い魔女のそれは「欲望」と「エゴ」にもとづくものと言えるだろう。そんなものから「正義」が生まれるはずがない。「正義」とは、弱者を守ってこそ意味があるのだ。
こうして、アスランは蘇り、白い魔女との最後の決戦に挑むことになる。
アスランとともにナルニアで様々な経験を積み、逞しく成長していく4人の兄弟姉妹。
この成長を見る限り、やはり、この作品の中心は、彼ら4人兄弟姉妹だ。
☆それでも見惚れてしまう白い魔女ジェスティス
映画「コンスタンティン」で堕天使ガブリエルを好演したティルダ・スウィントンは、抜けるような白い肌を持っている。
剃り上げた眉の下には鋭い眼光をたたえる目、酷薄そうな薄い口唇。
恐ろしい白い魔女ジェスティスに、彼女ほどぴったりの女優はいないだろう。
彼女は不思議な中性的な魅力を持った女優で、女でも男でもなく、恐らく「人間離れしている」というのが、わたしの気持ちに一番近い。だからこそ、ガブリエル役でもジェスティス役でも圧倒的な存在感を示すことができたのだと思う。
彼女の一挙一動に見惚れてしまったことを告白する。そのせいか、彼女がアスランに倒される時、本来なら「やったー」と歓声をあげるべきシーンなのだろうが、ちょっとかわいそうな気もしてしまった。
だって、アスランって、所詮、大きなライオンに過ぎないんだもの。そんなに感情移入できない。それに、アスランだって、主人公の4人兄弟姉妹みたいに、どこかの異次元世界から迷い込んだ・・・・・・
・・・・・・例えば、ひょっとしたら、映画「マダガスカル」に出ていた気弱なライオン「アレックス」かもしれないのだ。
ところで、成長した4人兄弟姉妹は、再び、ほとんど突然、元の世界、英国に戻ってしまうのだが、残されたナルニア国はどうなるのだろう。
それと、大人になっていたはずなのに、また、元の子供に戻っていたけれど、そのギャップは相当大きいものだと思うのだ。精神的に参ってしまうのではないかしらね。そんなことが、ちょっと心配になったminaでした。
要するに、それが心配なら、続きも観なさいということかしら。
公式HPはこちら
凄くおもしろかったですよ。
一緒に行った甥っ子も大興奮。
家族連れで是非ご覧になってください。
ハートは、当然、最高の3つを差し上げたいと思います。
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是非続編も観に行ってみたいと思います。
こちらからもTBさせていただきます。
どうも、あの終わり方は中途半端で、気になって仕方ないのです。
甥っ子さんが見る見るうちにナルニアの世界に引き込まれていったとの事、やはりこのストーリーは魅力的なんですね~。
ひねてしまった私にはちょっとシンプルすぎたけど、このシンプルなストーリーの根底にある深いものを理解できなかっただけなんだな~と反省です(汗)
全7話を3部作にまとめるらしいですね。
全7話を3部作にまとめるってほんとですか?
それはまた大胆な。
ということは残り6話分を2回で。
どこで切るんだろう。
すごく気になります。
子供が出る映画はヒットするけれど、大人なのに子供っていうパターンは、あまり訊いたことがないです。
コナンは、見かけは子供なのに高校生っていう逆の設定ですしね。
そのせいか、フォーンちゃんの写真には、いつも魅入ってしまいます。
もちろん年齢のせいもあるかもしれませんが、なるべく「子供目線」で鑑賞するように心がけている次第です。
もともと映画は、娯楽の王様だったはず。
子供の頃の純真な心に戻って、素直に感動を分かち合いたいものですね。