ジブリの最新作。
中学生の甥っ子と観に行った。
混雑を避けて、午前中の上映にしたが、さすがジブリブランド、一番大きな箱が8割方埋まっていた。
しかし、びっしりと席が埋まっていた「ハウルの動く城」や「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」の時と比べると、熱気の度合いが違うというか・・・、ちょっと醒めた感じがした。
作品の中に入っていけなかった一番の原因は、やはり「絵」だと思う。
わたしの場合、まず「絵」の素晴らしさに「ハアァァァァ」と溜息が出て、その次に、生き生きと描かれた主人公たちに共感して、気がついた時には作品の世界にどっぷりと浸っているという具合だった。
ところが、今回の作品は、「絵」にノレないのだ。
これまでのジブリの瑞々しい感性が漂う絵と比べると、どこか違和感がある。
それがどうしてだか判らないままだったけれど、今、思えば、その違和感とは、自然を描く時の考え方の相違からきているのではないだろうか。
従来のジブリの「絵」の特徴であった大自然の美しさや生命力を描くことへの拘りや愛情が希薄になっているような気がしたのだ。
多分そのせいで、わたしには「ゲド戦記」の舞台となる「アースシー」の世界観がぼやけているように思え、ダイレクトに伝わってこなかった。
原作を読んでいないから、偉そうなことは言えないけれども、有名な「アースシー」の広大な海に点在する「多島海世界」のイメージは、それなりに頭の中に描いていた。
わたしのイメージでは、「青と白」のコントラストが美しい、そういう地中海のような世界が広がっているものと考えていた。
しかし、今回の作品では、何故か「赤」が目立っている。どうしてなんだろう。
これは、わたしの感性あるいは趣味の問題なので、如何ともしがたいが、なんだか暑苦しい。「アースシー」という語感から想像される爽やかな海辺の風が感じられない。
こういう何気ないシーンが秀逸であると思うがゆえに、余計に合点がいかないのだ。
例えば、「風の谷のナウシカ」の「オームの森」の描写は、実に見事にナウシカの世界観を描き出していた。それは、わたしの感性にしっくりと合っており、反対に、今回の「ゲド戦記」は、そういう意味で、わたしの感性には合わなかったようだ。
著名な日本画家の東山魁夷は、芸術の普遍性について、作品が一般大衆の平均以上に受け容れられること、最大公約数をどうやって創造するかが重要なポイントなのだと語っていた。10人のうち2人とか3人とかしか認めてくれないような作品であれば、芸術としての普遍性がないということだ。
とすれば、観客動員数からすれば大成功の部類に入る「ゲド戦記」は、たまたま「わたしの個人的な好みに合っていないだけ」なのだろう。
☆見所
導入部において、主人公の「アレン」が
父親のエンラッド国王を殺す場面では、
なぜ彼が父王を殺さねばならなかったのか、それが知りたくなった。
そして、竜が共食いをするようになった理由とは一体何なのか、
大賢人たるハイタカ(ゲド)とは何者なのか、
謎めいたストーリー展開に気持ちは逸る。
見所は、間違いなく、その謎を解き明かすところにある。
それなのに、その気持ちをはぐらかすようなその後の展開。
どう言えばいいのか、昂ぶるだけ昂ぶらせておいて、さっとかわされたような、誤魔化されたような気分とでも言っておこうか。
結局、アレンは、自分の「カゲ」・・・自分の心の中に巣食う暗黒面・・・に支配されて、狂気の中で父王を殺害したということらしいが、このへんがすんなりと理解できなかった。父親は、非の打ち所のない人民思いの善政を施す王であったようだし、母親もその立派な国王を補佐する優れた女性のようなのだ。
それなのに、なぜ、そういう父親を殺すに至ったのか、この部分を掘り下げて描いてこそ、原作にはない「父親殺し」を入れた価値が出てくると思う。
「親が子を殺す」あるいは「子が親を殺す」痛ましい事件が続発し、世間を騒がしている今の時代にマッチした設定と思うだけに、このへんの燃焼不足が惜しいと感じてしまった。
☆不覚
めったにないことなのだが、途中で睡魔に襲われ、一瞬、眠ってしまった。自分の落ち度は棚に上げて言わせて貰うと、それは、やはり興味を持ち続けて鑑賞するのには、間が悪い展開であったからのような気がする。
「父親殺しの理由」・・・結局、判らなかった。その代わりに、「クモ」が「アレン」を誘惑するシーンがある。
つまり、「アースシー」における様々な災厄は、全て「クモ」の呪術のせいにしたいようなのだ。そういう前提で物語を最初から観れば、なるほど話は繋がってくる。そうなのか? 本当にそれでいいのか?
「竜の共食いの理由」・・・ほとんど語られていない。永遠の命を求める「クモ」の陰謀なのか。それならば、それらしいおぞましい儀式の描写とかそういったものが欲しかった。冒頭の嵐の海上でのドラゴン同士の戦いは、どういう経緯で起こったものなのか、これが語られないと、ストーリーが繋がらない。
「異常気象や疫病発生の描写」・・・これも上と同じ。悲惨さを描いてこそ、アレンが「魔法の剣」を抜く必然性が増すと思うのだ。
「クモとハイタカの因縁の描写」・・・こういうどろどろとした部分を描くことによって、ファンタジーの世界が俄かに現実世界と繋がってくるのだ。どろどろとした部分とは、つまり我々が住むこの俗世界を象徴する。物語がどこか上滑りなのは、そういう人間性を描くことに労力を注いでいないからなのではないだろうか。
かくて、わたしには、こういう重要な物語の要素どれもが、一呼吸ズレているというか、間を外しているみたいに感じたのだ。
それとは対照的に、妙に主題歌だけが頭に残る。
これは、予告編の時からそうだった。
ヒロイン「テルー」の声を演じる「手嶌葵」
彼女は久しぶりの大型新人だとは思う。
それだけに、彼女だけに依存していては駄目だとも感じてしまう。
もちろん制作側にそんな安易な考えはないと思う。しかし、彼女の澄んだ歌声を繰り返し聴くにつけ、その思いが強くなってきた。彼女を客寄せパンダ的に扱うのは逆効果だ。せっかくの決め台詞も、公開前に飽きてしまった。
そう言えば、テルーは、最初に登場したドラゴンのうち、海に落ちたあのドラゴンが化身したものだったようなのだが、これも「どうしてそうなったの」と首をかしげるばかりである。彼女に絶大な力が秘められており、「クモ」との最終対決には
彼女の力がなくてはならない設定なのであれば、それなりに物語を盛り上げて欲しい。このへんの伏線の張り方が、なんとも間が悪いのだ。本来、極めて感動的であるはずのこのシーンも、今ひとつ盛り上がりに欠けてしまうのも、そのせいだ。
やはりジブリ作品は、大自然を描かせたら右に出る者がいないほどの類稀な描写力を備え、ストーリーテラーと呼ぶに相応しい観客を惹きこむような物語の展開がなければ、眼の肥えてしまったファンは満足しない。
そういうわけで、わたしとしては、あまり楽しめなかった。
こんなことばかり書くと、ジブリ信奉者の方から怒られそうだ。
でも、わたしも、ジブリ作品のDVDはすべて持っているほどのファンなのだ。たぶん期待が大き過ぎたのだと思う。
これは、映画館に観に行く前に集めていたもの。
わたしはコーラが大好きなのだが、このオマケが欲しいばかりにサイダーをしばらくの間、買い続けた。「コーラvsサイダー」なんて、どうでもいいことではあるが・・・・・。
次回作は、従来のジブリ作品に見られた輝きを取り戻して欲しいのものだ。
偉大な父親を超え、新時代を切り開くには並大抵の努力ではかなわないと思う。
何をやっても、それこそ「カゲ」のように、かつての父親の姿が見え隠れすることだろう。わたしは、この作品を通して、ジブリの世代交代の格闘劇を垣間見たような気がしてきた。
DVDが出たら真っ先に買って、今回感じた数々の疑問を解き明かすべく、じっくりと観ることにしたい。
怖いもの観たさで観るもよし、今回は評価を控えます。
したがって、ハートは0個というこで・・・・・・。
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中学生の甥っ子と観に行った。
混雑を避けて、午前中の上映にしたが、さすがジブリブランド、一番大きな箱が8割方埋まっていた。
しかし、びっしりと席が埋まっていた「ハウルの動く城」や「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」の時と比べると、熱気の度合いが違うというか・・・、ちょっと醒めた感じがした。
作品の中に入っていけなかった一番の原因は、やはり「絵」だと思う。
わたしの場合、まず「絵」の素晴らしさに「ハアァァァァ」と溜息が出て、その次に、生き生きと描かれた主人公たちに共感して、気がついた時には作品の世界にどっぷりと浸っているという具合だった。
ところが、今回の作品は、「絵」にノレないのだ。
これまでのジブリの瑞々しい感性が漂う絵と比べると、どこか違和感がある。
それがどうしてだか判らないままだったけれど、今、思えば、その違和感とは、自然を描く時の考え方の相違からきているのではないだろうか。
従来のジブリの「絵」の特徴であった大自然の美しさや生命力を描くことへの拘りや愛情が希薄になっているような気がしたのだ。
多分そのせいで、わたしには「ゲド戦記」の舞台となる「アースシー」の世界観がぼやけているように思え、ダイレクトに伝わってこなかった。
原作を読んでいないから、偉そうなことは言えないけれども、有名な「アースシー」の広大な海に点在する「多島海世界」のイメージは、それなりに頭の中に描いていた。
わたしのイメージでは、「青と白」のコントラストが美しい、そういう地中海のような世界が広がっているものと考えていた。
しかし、今回の作品では、何故か「赤」が目立っている。どうしてなんだろう。
これは、わたしの感性あるいは趣味の問題なので、如何ともしがたいが、なんだか暑苦しい。「アースシー」という語感から想像される爽やかな海辺の風が感じられない。
こういう何気ないシーンが秀逸であると思うがゆえに、余計に合点がいかないのだ。
例えば、「風の谷のナウシカ」の「オームの森」の描写は、実に見事にナウシカの世界観を描き出していた。それは、わたしの感性にしっくりと合っており、反対に、今回の「ゲド戦記」は、そういう意味で、わたしの感性には合わなかったようだ。
著名な日本画家の東山魁夷は、芸術の普遍性について、作品が一般大衆の平均以上に受け容れられること、最大公約数をどうやって創造するかが重要なポイントなのだと語っていた。10人のうち2人とか3人とかしか認めてくれないような作品であれば、芸術としての普遍性がないということだ。
とすれば、観客動員数からすれば大成功の部類に入る「ゲド戦記」は、たまたま「わたしの個人的な好みに合っていないだけ」なのだろう。
☆見所
導入部において、主人公の「アレン」が
父親のエンラッド国王を殺す場面では、
なぜ彼が父王を殺さねばならなかったのか、それが知りたくなった。
そして、竜が共食いをするようになった理由とは一体何なのか、
大賢人たるハイタカ(ゲド)とは何者なのか、
謎めいたストーリー展開に気持ちは逸る。
見所は、間違いなく、その謎を解き明かすところにある。
それなのに、その気持ちをはぐらかすようなその後の展開。
どう言えばいいのか、昂ぶるだけ昂ぶらせておいて、さっとかわされたような、誤魔化されたような気分とでも言っておこうか。
結局、アレンは、自分の「カゲ」・・・自分の心の中に巣食う暗黒面・・・に支配されて、狂気の中で父王を殺害したということらしいが、このへんがすんなりと理解できなかった。父親は、非の打ち所のない人民思いの善政を施す王であったようだし、母親もその立派な国王を補佐する優れた女性のようなのだ。
それなのに、なぜ、そういう父親を殺すに至ったのか、この部分を掘り下げて描いてこそ、原作にはない「父親殺し」を入れた価値が出てくると思う。
「親が子を殺す」あるいは「子が親を殺す」痛ましい事件が続発し、世間を騒がしている今の時代にマッチした設定と思うだけに、このへんの燃焼不足が惜しいと感じてしまった。
☆不覚
めったにないことなのだが、途中で睡魔に襲われ、一瞬、眠ってしまった。自分の落ち度は棚に上げて言わせて貰うと、それは、やはり興味を持ち続けて鑑賞するのには、間が悪い展開であったからのような気がする。
「父親殺しの理由」・・・結局、判らなかった。その代わりに、「クモ」が「アレン」を誘惑するシーンがある。
つまり、「アースシー」における様々な災厄は、全て「クモ」の呪術のせいにしたいようなのだ。そういう前提で物語を最初から観れば、なるほど話は繋がってくる。そうなのか? 本当にそれでいいのか?
「竜の共食いの理由」・・・ほとんど語られていない。永遠の命を求める「クモ」の陰謀なのか。それならば、それらしいおぞましい儀式の描写とかそういったものが欲しかった。冒頭の嵐の海上でのドラゴン同士の戦いは、どういう経緯で起こったものなのか、これが語られないと、ストーリーが繋がらない。
「異常気象や疫病発生の描写」・・・これも上と同じ。悲惨さを描いてこそ、アレンが「魔法の剣」を抜く必然性が増すと思うのだ。
「クモとハイタカの因縁の描写」・・・こういうどろどろとした部分を描くことによって、ファンタジーの世界が俄かに現実世界と繋がってくるのだ。どろどろとした部分とは、つまり我々が住むこの俗世界を象徴する。物語がどこか上滑りなのは、そういう人間性を描くことに労力を注いでいないからなのではないだろうか。
かくて、わたしには、こういう重要な物語の要素どれもが、一呼吸ズレているというか、間を外しているみたいに感じたのだ。
それとは対照的に、妙に主題歌だけが頭に残る。
これは、予告編の時からそうだった。
ヒロイン「テルー」の声を演じる「手嶌葵」
彼女は久しぶりの大型新人だとは思う。
それだけに、彼女だけに依存していては駄目だとも感じてしまう。
もちろん制作側にそんな安易な考えはないと思う。しかし、彼女の澄んだ歌声を繰り返し聴くにつけ、その思いが強くなってきた。彼女を客寄せパンダ的に扱うのは逆効果だ。せっかくの決め台詞も、公開前に飽きてしまった。
そう言えば、テルーは、最初に登場したドラゴンのうち、海に落ちたあのドラゴンが化身したものだったようなのだが、これも「どうしてそうなったの」と首をかしげるばかりである。彼女に絶大な力が秘められており、「クモ」との最終対決には
彼女の力がなくてはならない設定なのであれば、それなりに物語を盛り上げて欲しい。このへんの伏線の張り方が、なんとも間が悪いのだ。本来、極めて感動的であるはずのこのシーンも、今ひとつ盛り上がりに欠けてしまうのも、そのせいだ。
やはりジブリ作品は、大自然を描かせたら右に出る者がいないほどの類稀な描写力を備え、ストーリーテラーと呼ぶに相応しい観客を惹きこむような物語の展開がなければ、眼の肥えてしまったファンは満足しない。
そういうわけで、わたしとしては、あまり楽しめなかった。
こんなことばかり書くと、ジブリ信奉者の方から怒られそうだ。
でも、わたしも、ジブリ作品のDVDはすべて持っているほどのファンなのだ。たぶん期待が大き過ぎたのだと思う。
これは、映画館に観に行く前に集めていたもの。
わたしはコーラが大好きなのだが、このオマケが欲しいばかりにサイダーをしばらくの間、買い続けた。「コーラvsサイダー」なんて、どうでもいいことではあるが・・・・・。
次回作は、従来のジブリ作品に見られた輝きを取り戻して欲しいのものだ。
偉大な父親を超え、新時代を切り開くには並大抵の努力ではかなわないと思う。
何をやっても、それこそ「カゲ」のように、かつての父親の姿が見え隠れすることだろう。わたしは、この作品を通して、ジブリの世代交代の格闘劇を垣間見たような気がしてきた。
DVDが出たら真っ先に買って、今回感じた数々の疑問を解き明かすべく、じっくりと観ることにしたい。
怖いもの観たさで観るもよし、今回は評価を控えます。
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私もジブリファンの一人ですぅ!
はやりジブリとなると期待しますよねぇ~
それなりには楽しめましたが、今ひとつ盛り上がりに欠けていたので残念です・・・。
私の連れも隣でグースカピーでしたw
ちなみにその連れもジブリの大ファンです
ジブリはどうなのでしょうか。
もし、営業が上手で利益を一杯上げることができて、
それでアニメーターの方々の労働環境がよくなるなら・・・なかんずく賃金・・・それはそれでとてもよいことだと思います。
そういう方向性をめざしてもいるのなら、そのうち、素晴らしい作品ができあがることでしょう。
だって、描いているのは、アニメーターの方々だから。もし、そういう方々を酷使して、制作しているなら、それほどカリスマ性もなさそうだし、センスも今のところ、冴えたところが見えないので、並のプロダクションに成り下がってしまいそうですね。
そうなったら、悲劇です。
minaさんコメント&TB有難うございます
( ̄_ ̄∥)確かに2回目観た時は・・・
少し(-o-)zzzZZZ~~~! 状態に成りました(笑)
それから、マージャン談義も
ぎゃゃははヾ(_ _)ノ彡☆ばんばん
でした。有難うございます
まあジブリは宮崎パパと鈴木Pのビミョーなバランスで成り立っていたのでしょうけど。それが崩れたのでしょうね。
ディズニーは創業者の考え方を継承するノウハウを確立していると仮定した場合。ジブリは完全に失敗している印象を持ちました。
(^_^;)世襲ですものね。鈴木Pの責任のような感じがします。しかも、今回、宮崎パパの味付けを守って居ないのに、店に出した感じが、この映画の辛口評の多さなのでしょうね
あれだけ繰り返し聞かされると、飽きちゃいました。
公開前に飽きちゃったのは、初めてです。
ほかにセールスポイントがなかったんでしょう。
観終わって、そう思いました。
新しいタイプのスパム?
まあ、どうでもいいんですけれどね。
隠れファンという言葉ハ、とても巧みにブログ管理者の心理を突いていますね。
ある意味、感心しました。
初コメントします。
夫の転勤で引越ししてやっと落ち着いたところです。
最近インターネットを始めましたが、本当に便利ですね。
ブログもお気に入りです。
もっと早く始めるんだった、って思っています。
北陸に居ながら新居を探せるんだもの。
私もブログに挑戦しようかなぁ・・・
隠れファンのユカでした。
ずっと培ってきたジブリ作品の悪い部分を全て失ってしまった気が・・・
僕は、手嶌葵の歌もダメでした・・・
手嶌葵を前面に押し出した徹底したプロモートは、数字を見る限り、大成功を収めたのではないかと感じます。彼の手腕は、こうした営業面にこそあるのではないかと思わずにはいられません。
「親の七光り」って、こういう感じなのかなぁって、思っちゃいます。
最近の政治の世界も2代目が多いし、なんとなく不安です。
その理由は、彼ら、あんまり苦労してないから。
エリート教育を受けて、矢面に立つこともなく、定められた線路の上を走ってきただけ。
それで、果たして、その時代の底辺に彷徨う人間の心のうちが判るのかしら。
吾郎監督の場合は、それが判らなかったとしても、そういうわたしみたいな人間が観た時に、「つまんない」と思うだけのことなのだけれど、政治家の場合は、そうはいかない。不安です。
「時をかける少女」は観に行きたいと思っています。
だって1作目にしてこの観客動員数でしょう?
訳判んない。
どうしてあんなに観客動員数が多いのか。
素人らしさがよかった?
まさかね。
わたしが、うとうとして見逃した時間に、凄くおもしろい場面があった。
そうに違いない。
だとしたら、もう一度 観に行こうかしら。
大成功の部類ですよね。
ひょっとしたら、名作なのかも。
楽しめなかったわたしの感性不足。
世の中についていけない。
いやぁ~、『ゲド戦記』評判悪いですね~。
まあ無理もないと思いますが・・・。
今までのジブリ作品と比べると、
単純に面白みには欠けるところがありますね。
原作は全部は読んでいないんですが、
おそらくあの世界観は、力量不足で描ききれていないと思います。
初監督作にこれを選んだこと自体が「?」なんですが、
ただ、私としては、ここ最近の商業的なジブリ作品に、
やや嫌気がさしていたので、むしろ好感が持てました。
『ハウル~』よりは、ずっと好きですね。
コメントありがとうございます。
この作品なんだか”ぶーぅ!”ですよねぇ。
宮崎駿さんの流れでこの映画を観るととんでもない
事になりますよねぇ。
次回作に是非とも期待!なんですが、どうでしょう?
すこし厳しいような気がするんだけど、、、。
全体的に暗すぎたんでしょうね。
「時をかける少女」のクチコミ評判のよさにも
最近はびっくりしてますが、
それにしても偉大なる父を持つということは
こんなにもしんどいんでしょうか。
ジブリだって全ての作品が大ヒットしたわけじゃ
ないんですけどね。
ファンと言われるひとたちは大概
ナウシカやラピュタ、トトロあたりを挙げますし。
父を殺す・・・というよりは
父という、「なかなか越えられない存在がもたらす
プレッシャーをはねのけたい」思いが
どっかにあるんじゃないかと
うちらはついつい邪推して
ゲド戦記ならぬジブリ戦記が後ろにあるって思うから
余計にまだまだやねとかつい言うてしまうんですが。
世界の混乱の元凶をクモのせいにしようとしたのは
子どもにわかりやすく勧善懲悪にしたかったのでしょうか?
いずれにしても監督の頭にあるイメージが
うまく伝わらない段階で
俺じゃなくってまわりがわからへんからとは
・・・言えませんからね。
かなり注目を集めましたが、
こっそり公開したほうが良かったかもしれませんね~
疑問も多いし、消化不良でした。
やっぱり父親を超えるのは難しかったですね
TB&コメントありがとうございました
まあ大した映画じゃなかったですね。
単純に監督の頭の中に最終的な画が無かったのだと思います。
やりたい事はあったのでしょうが、それを画に描く事は出来ていなかった。
いくらジブリでもアニメーションを素人に撮らせるのは、無理がありすぎました。
もっとファンタジーチックな作品か、
「~戦記」っていう位だから、激しい戦闘シーンがあるのかと思ってましたが・・・
いずれにも当てはまらず。
どうにも、中途半端な作品でした。
残念っ。
お手数かけて済みませんでした。
全くの別物になってしまったのも判るような気がしてきました。
お勧めに従い、原作にチャレンジしてみようと思います。
要するに、消化不良を起こしたのですね。
そして、若い監督は頑張り過ぎた。
そういうことならば、今回の作品がこんなふうになってしまったのが、よく理解できます。
結局、脚本が悪かったのでしょう。
何もかも突っ込み過ぎたんですよ、多分。
欲張り過ぎとも言えるでしょう。
次回があるのなら、次回作に期待ということで・・・・・・。
興味がおありならば是非とも原作に当たっていただくことを、私もお勧めします。
もし、時間があれば、1巻だけでも読んでみてくださいね。長くてほんと、ごめんなさい。ぺこり。
まず、私短い感想をTBしました。
ゲドは今や6巻もあるんですよね。3巻で終りかと思いきや4巻がかなり遅れて出て、その後追加の2巻。ハリーポッターになぞった、とか、ファンタジーブームにあやかろうとした、とか言う人もいます。
でもね、あの時代にアメリカでイギリス物に劣らない少し違った視点でファンタジーを書いたのはル・グィンが始めてだと思うんです。
父親殺しの罪はどうなるんでしょう。
それも、善政を施し、国民に愛されていた国王を殺しちゃったんだから、これはもう死罪は免れないでしょう。吾郎監督も無茶をやってしまいましたね。
物語が破綻しています。
続編制作の許可は取れるのでしょうか。
心配です。
にもかかわらず、観客動員数は、さすがにジブリブランド。かる~く400万人を突破したとのこと。
大ヒットじゃないですか。
凄いなぁ。
全然わかりませんでした、、、
いぁ、父殺しという重罪を、あんな簡単にほっぽってしまっては、、、
浅すぎます。
リリコさまのブログを拝見させていただきました。
歯切れの良いご意見で、読んでいてスッキリしました。
原作者からも批判されているようで、こうなると、次回作は(アニメ化の許可が取れず)制作が難しいかも知れませんね。
私の「ゲド戦記」の記事はあまり深くない記事ではありますが、末席に置かせていただきたいとTBさせていただきましたvv
私の友人も、今回の絵はジブリにしては甘いと同じような感想を持っていたので、やはりそうだったんだなあ、と改めて思いました。
それから、新人を強調させただけの映画に見えるのもいけないですよね。
原作が深い分だけ、表面を掬ったようにあっさりと流してしまった感じがしたのですが。
今後の作品にも期待したいと、願っている一人です。
わたしには、雰囲気が合いませんでしたね。
名作の映像化は難しいのだと思います。
と感じるのはかなり難しいのではないかと思います。
登場人物たちの移動も陸路ばかりですし、そのせいか世界が凄く狭く感じられてしまったのは残念ですね。
実写ドラマ版の『ゲド』も評判悪いですし、原作者激怒の代物ですが(苦笑)、
少なくても”海が中心の世界”という気分だけは味合せてくれます。