人から、
“幸せとはなんですか?”と聞かれる時に、
私はいつも1つの答えを用意している。
『幸福(幸せ)の定義』は、
“考えていたいこと”を考えていられる状態を保つこと。
であり、
『不幸(不幸せ)の定義』は、
“考えたくないこと”を考えなければならない状態(現実)。
である。
【幸せについて】
我国で最も信頼が高いとされる、
語学辞典:広辞苑(岩波書店)には、
*幸福=満ち足りた状態にあって幸せだと感じること。
*不幸=幸福でないこと、不幸せ、不運。
また、
*幸せ=幸福、幸い、運が向くこと。
と記載されており、
まるで“禅問答”のようだ。
誰もが“幸せになりたい”と願いながら、
幸せとは何かについての明確な答えを持たない事実は、
幸せとは(個人個人の)感覚(感情)的な問題と捉えるからだ。
幸せとは心の中の感じ方であって個々に感じる事が違う限り、
幸せを定義する事は難しく殆どの辞書・事典では、
幸せ(=幸福)について曖昧な表現に留めることは承知の通りだ。
では“幸福”を仮に、
“考えていたい事を考えていられる状態”
と定義すればどうだろう。
それは、
個人の感覚的な問題ではなく、
“人の脳の働き”の問題となる。
また幸福を定義する上で必要な、
不幸(=幸福の対義語として)を、
“考えたくない事を考えなければならない状態”
と定義すればそれもまた、
個人の感覚的な問題ではなく、
人の脳の働きの問題となる。
人の心(=経験・環境・教育等で築かれた感情)は、
多種多様であるが脳の働きは基本的には個々に変化はない。
幸せを定義する上で必要な基本的な脳の働き。
~ソフトとしての感情に対するハードとしての脳が持つ機能。
書き手(私)が文書を進める上で、
読み手はこの事実(脳の働きの視点で捉える幸福の定義)を、
あなたの心(=脳の中の記憶)に留めて欲しい。
【嬉しい気持ち】
昭和の名人と言われる、
落語界の巨人:古今亭志ん生さんの話で、
「露天の店先で、
支払いをしようと手に持っていた1万円札が、
突然の風に吹かれて飛んでしまった。
一生懸命探すが見つからない。
探しながら、
“1万円あればあれも買える、これも買える。”
と頭に描きながら、
更に探すがどこにも見つからない。
仕方なく(覚悟を決めて)、
1万円を失った事実を受け入れようとしたその時に、
ふと目の前の“自分が乗ってきた自転車”のカゴの中に、
探していた1万札を見つけたとき、
人は“心から嬉しい”と感じる。」
話の内容は、
理解しやすいよう現代風に改良したが、
志ん生さんが語る“嬉しさの意味”は深い。
つまり、
ある程度のレベルの生活(標準的な先進国の生活)は、
心の動き(=脳の働き)は一定の状態が保たれており、
平素の生活で“嬉しい”と感じることは少ない。
しかし突発的に、
自分が思ってもいない不幸(=考えたくない事実)に襲われたときに、
その不幸(=考えたくない未来)が解決に導かれた時の心理こそが、
“嬉しいと感じる瞬間”なのだろう。
平素私達の多くは幸福(=安定)な環境の中で生きながらも、
幸福である事に気づかないことが多い理由はそのためだ。
戦時の中で生き抜いた古今亭志ん生さんの時代。
“嬉しい”と言う感情は日常(=平和な状態)と、
非常時(=災害や戦争状態)では大きく異なる。
“嬉しい”と言う気持ちを、
欲っしている人達と立場と、
与える事のできる人達の立場。
2011年3月27日。
“嬉しいの言葉の意味”
を多くの方々が、
思い悩んでいるだろう。
【不幸の回避】
幸福の定義を、
“考えていたいことを考えていられる状態”
だと仮定して
“考えていたい事を持続(保持)”
するためには何が必要か?
人は、
*病気にもなれば、
*事故にも遭遇する。
それは、
偶発的な出来事の場合もあれば、
自己責任の生ずる場合もある。
考えていたい状態(=幸福な日常)が仮に“食べたい”と言う感情から、
暴飲暴食の状態が続けば必ずいつかは内臓に障害をきたす。
~深刻な病気になれば生涯に渡って食事制限が課せられる。
考えていたい状態が仮に“贅沢な暮らしがしたい”と言った感情から、
見分不相応な生活が続けば近い将来に暮らしは必ず破綻する。
~不要な負債を繰り貸せば必ず将来“考えたくない事”を迫られる。
考えていたいこと(=安定した生活)を持続するためには、
計画的な生活と自らへの自制心が必要となり、
そのためには、
考えたくない事(=不幸)を先に見通し(=未来予測)、
自身の生活環境のバランスを保たなければならない。
~それは個人も企業も国家も同じシナリオを持つ。
不幸を回避する最善の方法は、
自分や家族にとっての不幸な未来予測を推測し、
回避するための準備(抑制)や知識の収得。
幸福の定義が仮に、
“考えていたいことを考えていられる状態”
だとして、
“考えていたい事(=幸福)”
を持続するためには、
自分自身をコントロールできる能力を身に付ける。
不幸の回避は、
それに尽きるのだろう。
【突発的な不幸】
人は時に無情を感じる事が多い。
2011年3月11日。
東日本を襲った巨大地震は、
多くの人々の“考える能力”を永久に奪い去った。
今を生きる者にとって、
不幸であると感じるのが脳の仕組みなら、
幸福だと感じるのも脳の仕組みによる所が大きい。
亡くなった人の不幸は如何なるものか?
その問題を解決するために宗教は、
人々(=残された)に必要とされ続けた。
~特に念仏とお題目は鎌倉期から大衆に指示される。
残された者の不幸とは何か?
それは、
*第1にすべてを失った喪失(焦燥)感であり、
*第2に見通すことができない未来への不安。
人類は、
安心の中に生きる知恵として、
衣・食・住に改良を重ね、
人々が安心して毎日を過ごすために、
医療の進化や環境の整備を整えてきた。
しかし自然は時として、
余りに多くの安心を一瞬にして奪い去る。
*同時に日々の自然からの恵への感謝。
災害時の衝撃的経験は幸福や不幸も通り越し、
人の考える能力を一時的に停止させる事もある。
しかし人(=人間)は、
必ず何かを考えなければ生きてはいけない。
多くの人達が、
幸福である事に気付かなかった3・11以前と、
多くの人達が、
幸福とは何かを真剣に考え出した3・11以後。
幸福は決して、、
一人では実現(達成)できない。
個人個人が幸福を持続するために、
自分自身をコントロールできる能力
が必要なように、
社会の幸福を持続するためには、
社会全体が個人個人の役割に気付き、
社会の一員として、
一人ひとりがコントロールできる能力。
それが何であるかを掴み取れば、
残された人間は、
どんな不幸をも乗り越えることができる。
~社会の幸福なしに個人の幸福はありえない。
皆が“考えていたい事”を、
個々に考える事のできる社会。
我国で実現できない理由はない。
【補足:不幸の最大値】
仮に、
*幸福(幸せ)の定義=考えていたいことを考えていられる状態を保つこと。
*不幸(不幸せ)の定義=考えたくないことを考えなければならない状態。
だとすれば、
*最大の不幸=考えることを許されない状態。
ではないかと感じる。
独裁国家、(極度な)主従関係、拉致・監禁、拘束、束縛。
などの理由で、
個人の自由や権利が侵された状態が“最大の不幸”と考える。
ただし、
何らかの依存症(薬物等)に対する一定期間の自由の拘束や制限は、
その限りではないと感じる。
また、
他人の権利を法的に侵した罪人に対する自由の拘束や制限も、
(法に基づく拘束=収監)その限りではない。
個人個人が自由に考え自由に感じる事のできる社会環境。
*幸福(幸せ)の定義=考えていたいことを考えていられる状態。
が可能な社会こそが“幸福な社会”と私は定義付けたい。
追記
今日初めて知った事だが、
3月27日は“さくらの日”なのだそうだ。
~自家用車に備付けのナビゲーションが教えてくれた。
桜の開花の早い年なら、
3月27日頃(今日)には上野公園~不忍池周辺の桜が満開になり、
4月3日には京都周辺のソメイヨシノが満開の花を咲かせ、
4月10日すぎには大阪造幣局の花見に多くの人出で賑わう。
それが今年はどうだろう?
私の地元では今朝も雪化粧。
桜の蕾(つぼみ)もまだまだ固い。
巨大地震により壊滅的な被害を受けた被災地。
燃料が少ない中での極寒の3月。
自然の与える試練はあまりに厳しく惨い。
しかし明後日(29日)以降は、
平年並みの暖かい日が予想され、
桜前線も徐々に北上していく事だろう。
季節の春が必ず来るように、
“被災者の方々の心に幸福感が芽生えますように”
と、
無力な自分は祈るしかできない。
mimi-fuku通信
しかし、わからない箇所がありましたのでコメント残させていただきます。
みみふく様は「幸福(不幸)とは人の感覚(感情)ではなく脳の働き」だと仰っておりますが、感情=脳の働きではないのでしょうか。
それともうひとつ。
「"考えたいこと"を考えていられる状態」とは、周りの環境に左右(影響)される。と言うことでしょうか。
もしそうならば外界の刺激により感情が揺らぐと思います。
以上の事から、感情と脳の働きは同じと解釈するべきではないのでしょうか。
お返事待っております。