愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(23) 松平記

2022年04月23日 08時37分04秒 | 松平記
蔵人信孝、討死す

松平記p23

翻刻
成、町の両方より散々に射たりしかハ、いかがしたりけん
蔵人殿左の脇を射られ痛手なれば、馬より落て討れ給ふ
天文十七年四月十五日也。か様に両人大勢をかけ破り蔵人
殿を討取申事高名比類なし、痛ハしや蔵人殿心から起ら
さる敵に成て、御討死是非なしと廣忠も大になけき給ひ
し也
一 蔵人殿御討死有しかハ、三河衆大かた御手に入ける、明年
天文十八年駿河今川殿より被仰るハ、何とぞ安定の城を攻落
し、三河一国平均に治めらるへしとて雪斎和尚大将にて
安定を攻らるる、岡の城をは、早々明渡し、安定にハ織田三

現代語
(大久保五郎右衛門、石川新九郎の両人は両方から二手に)なり、明大寺の町の両側からさんざんに矢を射ったので、どうしたものか蔵人信孝殿の左の脇にあたり、深手を負い、馬より落ちて討たれてしまった。天文17年(1548)4月15日のことであった。このように、大久保五郎右衛門と石川新九郎の両人が大勢の敵を打ち破り、蔵人信孝殿を討ち取ったのは、高名この上ないことであった。いたわしいのは蔵人信孝殿で、心ならずも敵になり、討死をしてしまったのはどうしようもなかったことだと廣忠もおおいに嘆かれた。
一 蔵人信孝殿が討死をしたので、三河衆は大方手に入った。明年天文18年(1549)駿河今川殿が仰せられる事には、「なんとかして安城の城を攻め落とし、三河一国を支配する」と。そのため太原雪斎和尚を大将として、安城を攻めてきた。岡の城を早々に明け渡した。安城には織田三(郎五郎)殿が立て籠もっていた。

コメント
ついに蔵人信孝は、討死をしてしまいました。大久保五郎右衛門も石川新九郎も詳しいことは分かりませんが、松平廣忠の家臣であると思いますので、ある意味これは仲間内の戦いであるともいえます。戦国時代の小豪族では、まわりの大大名の影響を受け、松平氏のように、一方で今川派、他方で織田派といった内部分裂が起こり、どちらに付くかという抗争が起こっています。今川と織田からの調略活動もあり、なかなか大変です。よく松平家は滅びずに残ったなあと思います。
後半部分は、いわゆる安城合戦です。これを読むと蔵人信孝が討死したことが安城合戦の契機になっているようです。織田はこの時安城を取っていましたので、松平としては、親忠、長親、信忠と3代続いた安城松平の城でもあるので、取り返したいという気持ちもあったと思います。

岡城の土塁
愛知の史跡めぐり「岡城址 岡崎市」より

ここで「岡の城」が出てきます。この城は岡崎城の南東約3キロの乙川(菅生川)沿いにあります。この時点では、織田方になっていたのでしょう。それを今川方がまず、攻め落としたわけです。このブログ「松平記(22)」で、<通説では、「小豆坂合戦時、山中城は、岡城、生田城と共に今川軍の重要拠点」となっていたとあります。(ウィキペディア)>とウィキペディアの記事を紹介しましたが、めまぐるしく織田方、今川方の取り合いがあったようです。
コメント
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