愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

駿府城 静岡県静岡市

2020年04月03日 18時22分11秒 | 静岡県
3月に駿府城に行きました。他の友達と駿府城に行く計画があり、その下見です。

はじめは今川氏の館
駿府城は、今川氏、徳川氏、豊臣氏が関わった城です。戦国時代には、今川氏の館があり、ここに徳川家康は天文16年(1547)から人質として預けられています。桶狭間の戦いで今川義元が討たれると今川氏は力をなくし、永禄11年(1568)、駿府城は武田氏の手に落ちました。

武田氏から徳川家康へ
しかし、武田信玄は西上作戦途中で亡くなり、天正3年(1575)長篠の戦いでは武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れ、ついに天正10年に武田氏は滅びてしまいます。その後織田信長が本能寺の変で討たれると、徳川家康は北条氏と戦いながら三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の5か国の大大名となります。そして天正13年、家康は居城を浜松城から駿府城に移しました。

秀吉家臣から再び徳川家康へ
天正16年にようやく天守が完成しますが、天正18年(1590)家康は豊臣秀吉によって関東に移封され、代わりに秀吉家臣の中村一氏が駿府城に入ります。しかし、関ケ原の戦いを経て徳川の時代になると、慶長12年(1607)には再び家康が駿府に戻り、天下普請による大改修が行われました。

家康時代の天守台

家康時代の天守台石垣

駿府城の見どころは何といっても本丸の発掘現場です。発掘現場の中に入ると、すぐに見られるのが、天守台の石垣です。この天守台は、家康時代に天下普請で造られたもので、西側の長さが約68m、北側の長さが約61mで、記録では堀底から石垣最上部までの高さが約19mで、日本で一番大きい天守台だそうです。石垣は、何度か積み直されていますが、その跡も分かるそうです。また天下普請なので、石垣に刻印があります。さらに、石垣の構造も分かったそうです。

豊臣方天守台
2019年家康時代の天守台の南東に、豊臣方の天守台の跡が見つかりました。この天守台は、豊臣方の家臣中村一氏によって築かれたものとされています。(「家忠日記」に普請の記述があることから家康が豊臣方のために築いたという説もあります)特徴は野面積みで自然石を用いていること(矢穴がない)、石垣の勾配が緩やかであることなどがあげられます。
また、この天守台の西側の堀跡に大量の金箔瓦が見つかったそうです。これは、家康があとで大きな天守台を造る際、この豊臣方の天守閣を壊し、ここに瓦を埋めたためと考えられています。

豊臣秀吉時代の石垣と大御所時代の石垣

上の写真の説明板

見どころ満載
駿府城は、その他いろいろ見どころがあります。
東御門、巽(たつみ)櫓、坤(ひつじさる)櫓、大手門の枡形(ますがた)、二の丸水路、本丸の堀跡、本丸東食い違い御門跡などがあります。見どころ満載でした。


巽櫓と東御門


坤櫓(内側から撮影)


大手門(枡形です)


二の丸水路(本丸の堀と二の丸の堀を繋いでいる水路、水量の調整をしていた)


本丸堀跡(中央奥が本丸の石垣)


本丸東食い違い御門跡(かつて、この石垣状の土塁の右側に、食い違いに同じような土塁があったそうです。敵の侵入の勢いをそぐ仕掛けです)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする