愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松尾山城(1) 岐阜県関ケ原町

2020年04月06日 08時25分36秒 | 岐阜県
3月22日に松尾山に登りましたが、松尾山城の詳しい様子は紹介していなかったので、改めて紹介します。
なお、2017年に関ヶ原に行ったときに松尾山に登り、ブログで紹介していますので、参考まで。

関ヶ原古戦場(8) 岐阜県

山城として
松尾山城は、現地案内によれば、応永年間(1394~1428)に小守護(守護代の家臣?)富島氏が城を築いたとあります。また、元亀(げんき)元年(1570)には浅井長政が織田信長に対する前線基地として樋口直房(ひぐちなおひさ)をこの城に入れたそうです。しかし樋口直房は調略により織田信長方に寝返り、松尾城には信長の家臣不破光治(ふわみつはる)があらたに配されました。ところが、中井均氏によると、現在の城郭遺構を考えた場合それ以降の改修があったのではないかと言います。

本丸の掲示板(城の歴史を記載している)

関ケ原の戦いの城として
中井氏によれば、この城は関ヶ原の戦いにおいて毛利輝元(もうりてるもと)の城(つまり西軍の本拠地)として、石田三成が大垣城主伊藤盛正(いとうもりまさ)に築かせたそうです。慶長5年(関ヶ原の戦いの年)8月10日に築城を命じ、そのまま守備につかせることにしたそうです。しかし、9月14日、石田三成の意思を無視した形で小早川秀秋(こばやかわひであき)が、守備していた伊藤盛正を追い出して陣を構えたということです。関ケ原の戦いは、翌15日に開戦します。

小早川秀秋(ウィキペディアから)

腰曲輪
松尾山城の本丸にたどり着くちょっと手前に腰曲輪があります。曲輪の周りには土塁が巡り、先端が段々になっています。そしてその先を堀切で切っています。こうした曲輪がこの曲輪の南の方にも見られます。城の東側を守る役割をしていたようです。

腰曲輪

本丸
【土塁】本丸でまず目につくのは周囲をぐるっと土塁が巡らされていることです。これだけでもただの陣ではないと分かります。

本丸

【眺望】さらに、ここから関ヶ原を一望することができます。小早川秀秋がここで戦況を見ながら、裏切るかどうか迷っていて、徳川家康の「問い鉄砲」で裏切ることを決意したというのは江戸時代の軍記物(ぐんきもの)の話で、実際は合戦が始まると同時に裏切り行為に及んだようです。

本丸から関ヶ原を望む(当時木は切られていて、なかったものと思われます)

【枡形虎口】本丸の南側に枡形虎口(ますがたこぐち)があります。枡形虎口は戦国時代の後の方で造られることが多いです。この松尾山城の本格的な改修が関ヶ原合戦の前あたりだと考えられているのは、この虎口があることが一つの理由だと思います。

本丸の枡形虎口

【竪堀】本丸から北の方に一本竪堀(たてぼり)が入っています。これも戦国時代の後期に造られることが多い構造物です。したがって、この竪堀も関ヶ原の戦いに関してのものと思われます。

本丸北の竪堀(撮影したところより下方にも延びていました)

松尾山城 つづく
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安城城(2) 安城市

2020年04月05日 06時21分42秒 | 安城市
本丸は、現在大乗寺になっています。

本丸跡(大乗寺)

大乗寺の境内が現在も一段と高いところにあるのが曲輪だったことを物語っています。
手前の低いところは堀跡、もしくは深田だったのでしょう。絵図で見ても安城城は周囲を深田で囲まれていて、堀の役目を果たしていたものと思われます。

この大乗寺の境内を歩きますと、南東の突端がやや高くなっていました。おそらく絵図の四角い黒い部分(櫓)があった場所だと思いました。

本丸南東の櫓台跡?

本丸の南側は二の丸があり、間は堀になっていました。

堀跡 

本丸と二の丸の間に土橋があったのですが、今はありません。突き当りには「安城市埋蔵文化センター」があります。さらに本丸側の堀のところに切岸があるようです。表示がされています。

切岸

さきほどの堀の左側(南側)は、二の丸(八幡宮)になります。

二の丸(八幡宮)

二の丸も本丸(大乗寺)同様やや小高い丘になっています。ここに曲輪があったことを示しています。

疑問
「愛知の山城ベスト50」の著者であり、安城市歴史博物館所属の天野信治さんは、この八幡宮について、本丸と共に安城城の大きな曲輪の一つであるとし、「「諸国古城之図」でも、この二つの曲輪がこの城の中核部分であるように見える」としています。そして、江戸時代の絵図では、安城城の機能が縮小したことで、八幡宮が城から切り離されていると、言及しています。
八幡宮が二の丸であろうということは間違いないと思いますが、その根拠として「諸国古城之図」を持ち出すのはどうかと思いました。というのは、上記絵図に示すように「諸国古城之図」の中には本丸と八幡宮の間に二の丸らしきものが描かれ、八幡宮は、べつのもののように描かれているからです。「諸国古城之図」は八幡宮を曲輪とみなしていないように見えます。

松平清康は庶家?
もう一つ、この天野さんの話で面白かったのは、松平清康のことです。清康は、徳川家康のおじいさんで、安城松平家(宗家)松平信忠の嫡子となっています。私もそう思っていましたが、天野さんは、松平清康は元々庶家(宗家ではない)で、安城松平で実力を持っていたのは、松平信定だったというのです。信定は、清康とことあるごとに対立し、「三河物語」ではまるで悪人です。清康が守山で家臣の阿部正豊に暗殺された守山崩れも、松平信定が裏で操っていたような書き方をしています。
しかし、近年の研究では清康が独自に岡崎を拠点に力を蓄え、しだいに権力が岡崎に移ったと見るそうです。松平清康を宗家の直系としたのは、家康の正当性を示すための後世の作りごとかも知れません。
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安城城(1) 安城市

2020年04月04日 17時57分11秒 | 安城市
4月に入り、安城市歴史博物館の会員証の更新手続きを行いました。この博物館では、かつて「三河一向一揆」のイベントを企画し、私も講演会や展示会に何度か訪れました。この博物館の会員になると、催し物の案内などが郵送されてきますので、入ることにしました。

安祥文化のさと会員証(イラストは安城市の古墳から出土した土器に描かれた人面模様をモチーフにしています)

ついでにこの博物館に室町時代後期にあったという安城城を見学することにしました。2013年10月のブログで紹介したお城です。

こちらに2013年10月の安城城訪問の記事があります。
安祥城 安城市

大河ドラマで織田信広と松平竹千代(徳川家康)の人質交換のシーンがありました。その松平信広が今川勢と戦った城が安城城です。安城城は、今は安城市歴史博物館や大乗寺、八幡宮などになっています。

安城城(広島城「諸国古城の図」より)

今川勢(太原雪斎ら)による安城城攻めの先鋒役が松平軍の本多忠高というそうです。あの徳川四天王の一人本多忠勝のお父さんです。彼は安城城の本丸まで突入し、もう少しで織田信広を捕らえられるというところで敵の矢にあたり死んでしまったそうです。後世子孫が安城城の、忠高の死んだその地にお墓を建てたそうです。

本多忠高のお墓

そのお墓を見ながら、松平軍が向こうからここまで迫ってきたんだ、ここで矢はこっちからこう飛んできたんだなどと想像され、あたかも安城合戦の中にいるような気持ちになりました。

さて、肝心のお城ですが、北の方に虎口がありました。絵図を見るとかなりしっかりした虎口になっています。

登城道・虎口があったらしい場所

虎口と本丸の間に現在県道が走っていますが、絵図で虎口の東側は堀になっています。それで、いまでも県道のあたりに水がしみ出ているそうです。


堀の跡のために滲み出ている水

安城城 つづく
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駿府城 静岡県静岡市

2020年04月03日 18時22分11秒 | 静岡県
3月に駿府城に行きました。他の友達と駿府城に行く計画があり、その下見です。

はじめは今川氏の館
駿府城は、今川氏、徳川氏、豊臣氏が関わった城です。戦国時代には、今川氏の館があり、ここに徳川家康は天文16年(1547)から人質として預けられています。桶狭間の戦いで今川義元が討たれると今川氏は力をなくし、永禄11年(1568)、駿府城は武田氏の手に落ちました。

武田氏から徳川家康へ
しかし、武田信玄は西上作戦途中で亡くなり、天正3年(1575)長篠の戦いでは武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れ、ついに天正10年に武田氏は滅びてしまいます。その後織田信長が本能寺の変で討たれると、徳川家康は北条氏と戦いながら三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の5か国の大大名となります。そして天正13年、家康は居城を浜松城から駿府城に移しました。

秀吉家臣から再び徳川家康へ
天正16年にようやく天守が完成しますが、天正18年(1590)家康は豊臣秀吉によって関東に移封され、代わりに秀吉家臣の中村一氏が駿府城に入ります。しかし、関ケ原の戦いを経て徳川の時代になると、慶長12年(1607)には再び家康が駿府に戻り、天下普請による大改修が行われました。

家康時代の天守台

家康時代の天守台石垣

駿府城の見どころは何といっても本丸の発掘現場です。発掘現場の中に入ると、すぐに見られるのが、天守台の石垣です。この天守台は、家康時代に天下普請で造られたもので、西側の長さが約68m、北側の長さが約61mで、記録では堀底から石垣最上部までの高さが約19mで、日本で一番大きい天守台だそうです。石垣は、何度か積み直されていますが、その跡も分かるそうです。また天下普請なので、石垣に刻印があります。さらに、石垣の構造も分かったそうです。

豊臣方天守台
2019年家康時代の天守台の南東に、豊臣方の天守台の跡が見つかりました。この天守台は、豊臣方の家臣中村一氏によって築かれたものとされています。(「家忠日記」に普請の記述があることから家康が豊臣方のために築いたという説もあります)特徴は野面積みで自然石を用いていること(矢穴がない)、石垣の勾配が緩やかであることなどがあげられます。
また、この天守台の西側の堀跡に大量の金箔瓦が見つかったそうです。これは、家康があとで大きな天守台を造る際、この豊臣方の天守閣を壊し、ここに瓦を埋めたためと考えられています。

豊臣秀吉時代の石垣と大御所時代の石垣

上の写真の説明板

見どころ満載
駿府城は、その他いろいろ見どころがあります。
東御門、巽(たつみ)櫓、坤(ひつじさる)櫓、大手門の枡形(ますがた)、二の丸水路、本丸の堀跡、本丸東食い違い御門跡などがあります。見どころ満載でした。


巽櫓と東御門


坤櫓(内側から撮影)


大手門(枡形です)


二の丸水路(本丸の堀と二の丸の堀を繋いでいる水路、水量の調整をしていた)


本丸堀跡(中央奥が本丸の石垣)


本丸東食い違い御門跡(かつて、この石垣状の土塁の右側に、食い違いに同じような土塁があったそうです。敵の侵入の勢いをそぐ仕掛けです)
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