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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

山中城跡(3)西部分 岡崎市

2015年10月18日 09時33分50秒 | 岡崎市
主郭
主郭に入りますと、とりあえず石碑がありました。この石碑は、「愛知県」ということではなく、大久保忠言という人が書いたのだそうです。石碑の下半分に「大久保忠言」とありました。


他に祠や石柱などがありました。

主郭にあった祠


主郭にあった石柱

どうして、こんなところに石が積んであるのだろうと大変不思議に思いました。もしかしたら、この主郭の遺物の中に石もあったのではないか、などと想像してしまいました。

さらにこの主郭には、虎口がたくさんありました。いろいろな方向から入れたようです。守りとしては、よかったのかなと思いました。

また、土塁が西側に残っていました。おそらくぐるっと主郭をとり囲んでいたのでしょう。


北の方に見張り台?
主郭をあとにして、すぐ西側下の腰曲輪にそって北の方に進んでいきますと、ちいさな平たい土地がありました。ここに立って遠くを見ると、建物が見えました。おそらく1号線沿いの建物だと思います。木がなければ、ずっと北の方(街道)を臨むことができます。おそらく、この場所も見張り台だったのではないかと思いました。

見張り台と思われるところからの眺望。

大きな堀切
この見張り台と主郭付近の曲輪との間に大きな堀切がありました。また、西の尾根沿いにも2つ堀切がありました。

主郭北の堀切


西側の堀切(主郭に近いほう)


西側の堀切(主郭から遠いほう)

ということで、山中城跡は土塁あり、堀切あり、虎口あり、曲輪ありで、いろいろな遺構を一度に見ることができました。また、案内板によれば「県下最大級の山城である」そうです。まだ全部まわったわけではありませんが、たしかに大きな山城でした。
主郭に入ったときに、「イノコヅチ」が群生していて、大量のイノコヅチがズボンに付き、一本だめにしてしまいました。残念。

山中城跡(2)見学記 岡崎市

2015年10月17日 11時23分58秒 | 岡崎市
いよいよ登城です。駐車場がなかなか見つからず、結局遠く離れたところまで行きました。
東の登城口から登りました。

東の登城口。金網の柵がありましたが、はいってはいけないと書いてなくて、紐で縛ってあっただけでしたので、紐を解いて入城しました。

山中城跡地図

山中城跡見学図(「愛知の山城ベスト50」高田徹氏「山中城跡概要図」り作成)

見張り台?曲輪?
東の方から登っていきますと、さっそく小さな曲輪を見つけることができました。ただし、「愛知の山城ベスト50」では図には出ていましたが、特に曲輪とは説明されていませんでした。しかし、ちょうど東の端に当たり、いかにも平らにした感じがしました。そこで、これは「見張り台」ではないかと思いました。

見張り台のような場所

さらに進んでいきますと、こんどは虎口のような曲がりくねった上り坂がありました。

虎口のような登り坂。この右側にも平らになった土地があり、曲輪のように思えました。


曲輪のような平らな土地。

この曲輪と一つ上(西)の曲輪との間には、堀切がありました。

堀切

馬出
そして上の曲輪を登っていきますと、馬出が見えました。馬出とは、虎口のすぐ外に設けられたもので、主に虎口からの敵の侵入を防ぐために設けられたものです。関東の武田氏の関係する城に多いそうです。

馬出。画像の黄色い線の部分が土塁になっていました。

馬出を過ぎてその上(西)の曲輪に上りますと、この曲輪の北側、東側に土塁の跡が見られました。

曲輪の土塁跡。画像の「曲輪Ⅵ郭」とあるのは、「愛知の山城ベスト50」での表示です。

腰曲輪に竪堀が
この曲輪の北の方にけっこうおおきな腰曲輪がありました。その先の方にも曲輪が北の方に続いているようなので、見に行きましたが、一つ目の腰曲輪より先は、段差が大きくて行くことができませんでした。また、ぐるっとまわって、先の曲輪Ⅵの北西には、腰曲輪を縦に切った竪堀がありました。

曲輪Ⅵ北西下の竪堀

そして、いよいよ主郭にたどり着きました。

主郭を北東の下から見上げる。右側に虎口。

山中城跡(1)山中城とは 岡崎市

2015年10月12日 23時38分02秒 | 岡崎市
10月の3連休。初日10日は晴れでしたので、出かけることにしました。岡崎市の山中城跡です。

山中城跡全景(北より見た画像)

住所
岡崎市羽栗町平松
岡崎市舞木町 

位置
現在も、すぐ北を東海道、名鉄本線、高速道路が通っていて、交通の要衝に位置しています。


歴史

大永4年(1524年)に松平清康が奪取し、一時本拠地としました。松平清康は徳川家康のおじいさんに当たります。広島城で発行しているパンフレット「浅野文庫諸国古城之図の世界」に出ている図では、注記に、「松平弾正左衛門安城ヨリ責取」と、松平弾正左衛門(松平昌安、大草松平氏)が清康によって山中城を奪取されたことが書かれています。このとき、城を奪われた松平昌安は、岡崎城も持っていたらしく、同時に岡崎城も松平清康に奪われています。また、「愛知山城ベスト50」ではより詳しく、松平清康の命をうけた大久保忠茂による夜襲により陥落した、とあります。ちなみに「三河物語」では、以下の記述がありました。

「然処に岡崎の城をば松平弾正左衛門尉殿持たせられ給う。同山中の城をも弾正左衛門尉殿寄り持ちたるを大久保七郎右衛門調儀をもって忍び取りに取らせ給う」

しかし、天文4年(1535年)、いわゆる「守山崩れ」により松平清康が家臣に討たれ、山中城は今川氏の手になったようです。


天文17年(1548年)織田信秀と今川義元が小豆坂で戦ったさいには、山中城は今川側の拠点となりました。永禄3年(1560年)今川氏のものとなっていたものを、松平元康(徳川家康)が攻略し、再び松平が取りました。


今川義元

そして、あの三河一向一揆(永禄6年)の時には一時一揆衆の手に落ちたそうです。永禄7年~天正18年(1564年~1590年)には、酒井忠次の所領となっています。その後家康が関東に移った際に酒井忠次も関東に行ったので、山中城は廃城になったらしいです。


参考書 中井均「愛知の山城ベスト50」、広島城「浅野文庫諸国古城之図の世界」


小牧山城(3) 小牧市

2015年10月05日 10時58分48秒 | 小牧市
大手道
ぐるっとまわって大手道まで来ました。

大手道 中間から下のほう。発掘の結果、これよりも広く、幅5,4メートルあったことが分かったそうです。山麓より途中まで直線的に伸びています。

家臣の屋敷跡?
大手道の右側(東側)に広場がありました。何かイベントのようで人が集まっていました。この広場は、信長の家臣の屋敷跡ではないかと思います。「信長の城」では、山麓の大手道をわざと直線にしたといっています。直線にして防御性を弱くしたというのです。そして大手道が主郭に続く道は曲がりくねらせて、防御性を高めています。このことは、「個々の家臣の屋敷に独立した防御機能を発揮させないという、信長の強い意思の表れ」といいます。また、家臣の屋敷跡の堀や塀は山側に向かっては開かれていて、防御性を弱くしているといいます。

家臣の屋敷跡らしい広場

主郭への道
大手道はやがて細い曲がりくねった道になりました。

大手道2 主郭に繋がる大手道の入り口

主郭にたどり着く直前に曲輪らしいものが見えました。

主郭の直下ですから、守衛の曲輪なのかなと思いました。

主郭につきました。主郭は工事中です。小牧市のホームページによれば、主郭の虎口付近と東の虎口付近の発掘調査をしているとのことでした。また、行ってみて分かったことですが、資料館が10月15日までリニューアルのため閉館していました。残念。

主郭への虎口。奥に工事中の柵が見えます。

埋め戻した石垣
主郭では3段になっていたという石垣、信長が近くの山から運ばせたという花崗岩を見たかったのですが、ほとんどが工事中で見れませんでした。

主郭下の石垣の跡。もう少し発掘されているのですが、保存のために埋め戻したそうです。埋め戻すのは、保存のために致し方がありませんが、見学者が小牧山城の石垣を何らかの形で見ることができるようになっているとありがたいと思いました。


信長が運んだという花崗岩が台座になっている像。ブルーシートで覆われていて見えませんでした。

山麓の信長館跡
仕方なく下山し、信長館跡を見学しました。

この一帯だけ、周りに土塁が巡らされ、きれいになっていました。「信長の城」によれば、他の家臣と思われる曲輪は、山に向かっての堀や土塁などの防御装備が無いのですが、この曲輪だけは、四方を堀と土塁が巡らされているので、ほかの曲輪とは違い、信長の山麓の館ではないかといっていました。

初めて小牧山城を見学したのは、2013年でした。あの時は、「石垣の城の始まりとしての小牧山城」ということで認識していましたが、それだけではなく、家臣に対して絶対的な権力を持つ武将としての信長が築いた城ということが分かりました。

小牧山城(2) 小牧市

2015年10月04日 19時28分52秒 | 小牧市

現地小牧山案内板 赤い文字や赤い囲み、土塁跡、大手道は書き入れました。

以前小牧山城を訪れたことがありますので、タイトルを(2)としました。
小牧城 小牧市

小牧山城をもう一度
9月13日(日)小牧山城にて発掘についての現地説明会があり、参加する予定でしたが、私用で参加することができませんでした。そこで、改めて小牧山城を見学することにしました。
見学の動機にはもう一つありました。たまたま書店で千田嘉博「信長の城」を見つけ、読んでいたら、今までの小牧山城の自分の認識とは全然ちがうことが分かり、もう一度行ってみる価値があると思ったからです。

駐車場は「小牧山北駐車場」です。2時間無料で超過しても30分ごとに100円なので、大変割安な駐車場です。(実際は2時間以内だったので、無料でした)

家康が築いた土塁
駐車場から山に入るとちょうど北の土塁の切れ目から入ることになり、そこには土塁の断面が展示してありました。この土塁は「小牧・長久手の戦い」(豊臣秀吉と徳川家康の戦い)の際に徳川家康が築いたものだそうです。

土塁断面

小牧山の麓は曲輪群
そして左右には曲輪群が広がっていました。(といってもただの平面ですが)曲輪の中にどんな建物があったかは、削り取られていて、分からないそうですが、曲輪の周りの溝(堀)部分が遺構として残っていたので、曲輪の大きさ、形等は分かったそうです。

小牧山東側曲輪跡群。画像の左側は土塁、右側は小牧山です。

しばらく歩くと井戸の跡がありました。今はコンクリートで丸く囲ってあり、その周りを四角くして井戸らしく見せていました。

小牧山の外側は土塁で囲われていました。

搦め手口
小牧山を北の方から入り、左回りに巡っていきますと、搦め手の口がありました。

搦め手口 道が左右に分かれていて、まっすぐには進入できないようになっていました。