天空の城 越前大野城
7月20日、福井県、越前大野城を訪れました。
越前大野城と言えば、霞の中に凛とそびえる「天空の城」と言うイメージが最近あるようです。

この写真は、親しくさせていただいている、ブログ「越前若狭の城と考古学」からのものです。愛知県でよく似ているお城として小牧城をイメージさせます。しかし、気象条件がそろうと、雲海に浮かぶ大野城が出現し、それこそ「天空の城ラピュタ」を彷彿させるようです。この大野城を全国にアピールしようと「ラピュタの会」があるそうです。
どんな城か、行ってみました。
越前大野城縄張り図

武具蔵があったと推定される場所にあった看板です。絵の左側が現在残されている部分ではないかと思います。図の橙色の部分の大天主、小天主、天狗の間、天守閣の周りに塩硝蔵。武具蔵、麻木櫓などが亀山という山にあったのではないかと思われます。図の右下の二の丸は、現在有終西小学校になっていると思われます。
西からの階段は心臓破り
今回は西のほうから登城しました。国道158号線がお城の西を走っているからです。

航空写真で見るとよく分かりますが、西のほうから登城するには、とても急な階段を上らなくてはなりませんでした。途中で3回ぐらい息切れがしてしまい、休憩を余儀なくされました。

写真に見える階段の右に更に急な階段がありました。
天守閣
登って改めて天守閣を見ました。

なかなか立派な城でした。
城から大野市を展望できました。

大野城 歴代城主
大野城の城主は大略以下のようです。
天正3年(1575年)、金森長近(かなもりながちか)
金森長近は、はじめ隣の犬山にあった戌山城に入部しています。戌山城から新しく城を亀山に構えたようです。天正14年(1586年)金森氏は飛騨高山に転封となります。
その後、長谷川秀一(はせがわひでかず)、青木一矩(あおきかずのり)、織田秀雄(おだひでかつ)、土屋氏が2代、小栗正勝(おぐりまさかつ)と続きました。
慶長6年(1601年)からは松平氏。4代続きました。
寛永8年(1631年)からは土井氏。土井氏は明治を迎えるまで城主を務めました。
その中で土井利忠(どいとしただ)という城主は大野藩に功績があったようで城内に碑が建てられていました。

土井利忠の像
7月20日、福井県、越前大野城を訪れました。
越前大野城と言えば、霞の中に凛とそびえる「天空の城」と言うイメージが最近あるようです。

この写真は、親しくさせていただいている、ブログ「越前若狭の城と考古学」からのものです。愛知県でよく似ているお城として小牧城をイメージさせます。しかし、気象条件がそろうと、雲海に浮かぶ大野城が出現し、それこそ「天空の城ラピュタ」を彷彿させるようです。この大野城を全国にアピールしようと「ラピュタの会」があるそうです。
どんな城か、行ってみました。
越前大野城縄張り図

武具蔵があったと推定される場所にあった看板です。絵の左側が現在残されている部分ではないかと思います。図の橙色の部分の大天主、小天主、天狗の間、天守閣の周りに塩硝蔵。武具蔵、麻木櫓などが亀山という山にあったのではないかと思われます。図の右下の二の丸は、現在有終西小学校になっていると思われます。
西からの階段は心臓破り
今回は西のほうから登城しました。国道158号線がお城の西を走っているからです。

航空写真で見るとよく分かりますが、西のほうから登城するには、とても急な階段を上らなくてはなりませんでした。途中で3回ぐらい息切れがしてしまい、休憩を余儀なくされました。

写真に見える階段の右に更に急な階段がありました。
天守閣
登って改めて天守閣を見ました。

なかなか立派な城でした。
城から大野市を展望できました。

大野城 歴代城主
大野城の城主は大略以下のようです。
天正3年(1575年)、金森長近(かなもりながちか)
金森長近は、はじめ隣の犬山にあった戌山城に入部しています。戌山城から新しく城を亀山に構えたようです。天正14年(1586年)金森氏は飛騨高山に転封となります。
その後、長谷川秀一(はせがわひでかず)、青木一矩(あおきかずのり)、織田秀雄(おだひでかつ)、土屋氏が2代、小栗正勝(おぐりまさかつ)と続きました。
慶長6年(1601年)からは松平氏。4代続きました。
寛永8年(1631年)からは土井氏。土井氏は明治を迎えるまで城主を務めました。
その中で土井利忠(どいとしただ)という城主は大野藩に功績があったようで城内に碑が建てられていました。

土井利忠の像