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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

飯盛山城 豊田市

2016年03月06日 10時41分20秒 | 豊田市
足助の町並みを散策したあとは、昼食をとり、いよいよ飯森山城に登りました。

駐車場からみた飯森山城。この山の麓が有名な紅葉の名所香嵐渓と呼ばれるところです。

昼食をとったお店で「ここから飯盛山に登れますか。」と聞いたところ、「すぐそこですよ。私も小さい頃はよく登りましたよ。今はすっかり、道がよくなって、登りやすくなりましたよ。」と、教えていただけました。

案内版
なるほど、お店のすぐ前が登り口でした。

登り口の脇にあった案内板。しかし、かろうじて題字の『飯森山城』が判読できるだけで、本文には何が書いてあるのか、さっぱり分かりませんでした。

太子堂
道は石が敷いてありました。しかし、かなりの急勾配で、途中で足が痛くなるほどでした。登り始めるとすぐに太子堂がありました。説明を読むと太子講の人たちが造ったとありました。足助の町に太子講の信仰があったことがわかりました。

太子堂

物見櫓の跡?
急な勾配の石の坂を登っていきますと、やがて道は土の道となりました。そして中腹になにやら郭らしき平地がありました。

ここに物見櫓のようなものがあったのではないでしょうか。ここから木が無ければ足助の町が一望できます。

虎口?
登り始めて20分ぐらいで、ようやく虎口らしきものが見えました。

虎口らしきもの

郭?
その上は郭らしき平地になっていました。

郭らしき平地。頂上を1郭とすれば3段目に当たります。

さらにその上に、頂上から2段目の郭らしき平地がありました。


主郭
主郭に登ってみると、残念ながら説明板が無く確かめることは出来ませんでした。代わりに東屋がありました。

頂上に設けられた東屋。外国の方たちによって建てられたとの説明がありました。

ということで、飯森山城は、櫓台、虎口、郭など遺構らしきものはありましたが、確かめることは出来ませんでした。これもきちんと調べてみたいと思います。

足助の町並み 豊田市足助地区

2016年03月06日 07時45分54秒 | 豊田市
足助町と加茂一揆
久しぶりの投稿です。2月はいろいろなことがあって、なかなか史跡めぐりに出かけることが出来ませんでした。
さて、久しぶりの史跡めぐりは、足助です。足助を選んだ理由は、加茂一揆との関係です。元来加茂一揆について関心があって、渡辺政香『鴨の騒立』(かものさわだち)なども読んでみました。すると、一揆の人たちが松平から、足助にまで及んでいること、そして、その足助に打ちこわしの対象となった豪商が存在したということです。加茂一揆は1万数千人もの人たちがかかわった一揆です。その一揆の対象が足助の豪商たちであったというのは、一つの驚きでした。大変失礼な言い方ですが、山間の小さな町にそれほどの影響力のある商人がいるということにびっくりした次第です。
そこで、足助とはどんな町だったのか、見てみたいと思ったわけです。


足助町観光マップ


足助町の町並み(西町)

足助町の町並み(ランダムに)
 はじめに西町辺りを歩いていると、宿屋が出てきました。

玉田屋という宿屋。現在西町に残っているのはこの一軒だけだそうです。

 続いて、それらしき店として、『鈴木商店』


 さらに『足助糧穀』。お店の人に「昔からの米屋さんでしたか?」とお聞きしたところ、そうではないということでした。


 呉服屋


 そしてついに見つけました。加茂一揆で打ちこわしの対象となった白木屋です。今はお菓子屋で『加東家』となっています。

『加東家』にあった旧足助町の看板です。木の陰で何が書いてあるのか分からないので、以下その文を掲載します。

十四 加東家
三河最大といわれる加茂一揆(天保七年=1836)は松平に端を発し近郷の参加村数二四七・一万三千人が異常物価高に抗議した住民運動です。作り酒屋であった白木屋は一揆側にとって足助の目標で、柱に鉈で切りつけた跡が残っています。いくつもの酒樽が破られ、酒が川のように流れ出たということです。


 その他、明治・大正期にランプの油として石油を売っていたお店、創業100年くらいの酒屋などがありました。

明治・大正期に石油を売っていたというお店。


創業100年以上という酒屋

 さらに現在補修中の『鈴木家』という豪商の跡もありました。


十分な下調べなしで行ったので、町並みについて詳しいことが分かりませんでしたが、お店がたくさんあったことはわかりました。ただし、それは今の姿で、多くは観光目的でした。江戸時代後期はどうだったのか、詳しく調べたいと思います。