宇利城跡に登城です。
県道81号線を東へずんずん進んでいきますと、中宇利という交差点があり、そこに宇利城登城者のための駐車場がありました。

駐車場の案内板
しばらく田んぼ道を看板に沿って歩いていきますと、看板がありました。

宇利城跡案内板。縄張り図ではなく、地形図をそのまま掲示していました。
松平右京亮の墓
しばらく山道を登っていきますと、『松平右京亮の墓』がありました。
こんな中途半端なところに墓がありますので、右京亮はここで討ち死にしたのかと思いました。


墓の辺りの様子。
墓の辺りは坂になっていて、これを登ると、本丸、姫御殿があります。右京亮は、手下十数人とこの坂を登りながら上から攻めてくる熊谷の兵と戦い、討ち死にをしたと思われます。松平内膳信定は、後方にいて「引き返せばいいのに、突っ込みすぎだわ」とでも思いながら、戦況を見ていたのでしょうか。
その様子を搦め手から総大将の松平清康が見ていたといいますが、納所平の方からは見えません。見えるとすれば、御馬屋平の方からです。ここにも虎口がありますので、ここが搦め手だったのかも知れません。
姫御殿
本丸と姫御殿の間の横堀です。

姫御殿には、虎口の右側に石積みがありました。

この時代に山城でも、石を用いていることが分かりました。
本丸
本丸のほうに行きますと、『物見櫓台』がありました。

納所平
さらに北のほうに進みますと、『納所平』がありました。
納所平と本丸の間には堀があり、堀の東端が土橋になっていました。

横堀。本丸と納所平の間の横堀。

本丸と納所平の間の土橋

納所平とその北のほうを断つ堀切
熊谷実長(直利)親子は、ここを通って逃げていったのでしょうか。
御馬屋平
さて、姫御殿を東の方に進んでいきますと、「御馬屋平」があります。

御馬屋平
その先に堀切と虎口らしきものがありました。

宇利城は、小高い山の上にあり、攻めるには手ごわい城であることが分かりました。
また、右京亮や内膳、清康がどんな風にしてこの戦を戦っていたかが
思い浮かばれ、なかなか感慨深い見学でした。
県道81号線を東へずんずん進んでいきますと、中宇利という交差点があり、そこに宇利城登城者のための駐車場がありました。

駐車場の案内板
しばらく田んぼ道を看板に沿って歩いていきますと、看板がありました。

宇利城跡案内板。縄張り図ではなく、地形図をそのまま掲示していました。
松平右京亮の墓
しばらく山道を登っていきますと、『松平右京亮の墓』がありました。
こんな中途半端なところに墓がありますので、右京亮はここで討ち死にしたのかと思いました。


墓の辺りの様子。
墓の辺りは坂になっていて、これを登ると、本丸、姫御殿があります。右京亮は、手下十数人とこの坂を登りながら上から攻めてくる熊谷の兵と戦い、討ち死にをしたと思われます。松平内膳信定は、後方にいて「引き返せばいいのに、突っ込みすぎだわ」とでも思いながら、戦況を見ていたのでしょうか。
その様子を搦め手から総大将の松平清康が見ていたといいますが、納所平の方からは見えません。見えるとすれば、御馬屋平の方からです。ここにも虎口がありますので、ここが搦め手だったのかも知れません。
姫御殿
本丸と姫御殿の間の横堀です。

姫御殿には、虎口の右側に石積みがありました。

この時代に山城でも、石を用いていることが分かりました。
本丸
本丸のほうに行きますと、『物見櫓台』がありました。

納所平
さらに北のほうに進みますと、『納所平』がありました。
納所平と本丸の間には堀があり、堀の東端が土橋になっていました。

横堀。本丸と納所平の間の横堀。

本丸と納所平の間の土橋

納所平とその北のほうを断つ堀切
熊谷実長(直利)親子は、ここを通って逃げていったのでしょうか。
御馬屋平
さて、姫御殿を東の方に進んでいきますと、「御馬屋平」があります。

御馬屋平
その先に堀切と虎口らしきものがありました。

宇利城は、小高い山の上にあり、攻めるには手ごわい城であることが分かりました。
また、右京亮や内膳、清康がどんな風にしてこの戦を戦っていたかが
思い浮かばれ、なかなか感慨深い見学でした。