加賀市に用事がありましたので、ついでに大聖寺城を訪れました。
大聖寺城とは
案内掲示板によれば、築城は南北朝以降で、加賀の一向一揆でも登場しているそうです。織田信長の後、戸次広正、拝郷家嘉、柴田勝家、山口宗長(小早川秀秋の重臣だそうです)と続きました。山口宗永は慶長5年(1600年)の関が原の戦いで豊臣方につきましたが、金沢の前田利長(徳川方)に攻められ、討ち死にしてしまったそうです。
本丸跡に建てられていた山口宗長の石碑
寛永16年に大聖寺藩が成立しましたが、前田氏は徳川に遠慮してこの城を再建せず、ふもとに館を造ったそうです。
現地案内板
ふもとの館があったとされる加賀聖城高校
本丸櫓台跡
櫓台から背後に伸びる土塁、本丸を防御しています。
馬洗い池
本丸と二の丸との間の堀切、右側の階段を上ると二の丸があります。
ということで、今回は時間も少なかったので、ここまででした。次回来るときは樹木の葉がない早春にしたいです。
大聖寺城とは
案内掲示板によれば、築城は南北朝以降で、加賀の一向一揆でも登場しているそうです。織田信長の後、戸次広正、拝郷家嘉、柴田勝家、山口宗長(小早川秀秋の重臣だそうです)と続きました。山口宗永は慶長5年(1600年)の関が原の戦いで豊臣方につきましたが、金沢の前田利長(徳川方)に攻められ、討ち死にしてしまったそうです。
本丸跡に建てられていた山口宗長の石碑
寛永16年に大聖寺藩が成立しましたが、前田氏は徳川に遠慮してこの城を再建せず、ふもとに館を造ったそうです。
現地案内板
ふもとの館があったとされる加賀聖城高校
本丸櫓台跡
櫓台から背後に伸びる土塁、本丸を防御しています。
馬洗い池
本丸と二の丸との間の堀切、右側の階段を上ると二の丸があります。
ということで、今回は時間も少なかったので、ここまででした。次回来るときは樹木の葉がない早春にしたいです。