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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

柿本城跡(1) 新城市

2018年04月08日 11時57分08秒 | 新城市
4月7日、寒かったですね。
冷たい風が吹きすさび、初夏のような陽気が、いっぺんに冬に逆戻りでした。
しかし、せっかくの休みの日だったので、城めぐりを敢行しました。

柿本城に関するお話
柿本城は鈴木重勝が築城したそうです。鈴木重勝とは、足助鈴木氏の流れで、天文年間(1532~1555)に上吉田に白倉城を築き、のちにこの柿本城を築いたそうです。(「日本城郭体系」9)

鈴木重時
有名なのは鈴木重勝の子どもの鈴木重時です。柿本城を拠点とし、もともとは今川氏の味方でした。しかし、今川氏は、桶狭間の戦いで義元が討死した後、力が弱くなりました。そして、永禄11年(1568)、ついに徳川家康が今川氏の領地であった遠江(静岡県の西半分、浜松のあたり)に侵攻しました。このとき、菅沼忠久、近藤康用らと徳川氏について、遠江侵攻の先導役になりました。鈴木重時と、この二人を井伊谷三人衆というそうです。

井伊谷三人衆(左から鈴木重時、近藤康用、菅沼忠久)NHK大河ドラマ「女城主直虎」より)

ところが、今川氏勢力もただ侵攻されてばかりではありませんでした。堀江城(今は舘山寺温泉になっているそうです)攻めの時に今川側の武将大沢基胤(もとたね)らの反攻にあい、鈴木重時は、この戦いで討死をしてしまいました。家督は、息子の重好が受け継ぎました。

大沢基胤(NHK大河ドラマ「女城主直虎」より)

鈴木重好
鈴木重好の時には、武田信玄との戦いがありました。武田信玄は、部下の山県昌景に柿本城を攻めさせました。鈴木重好はやむなく遠江井伊谷の小屋山城に退きました。しかし、ここも山県勢に攻められると、徳川家康の本拠浜松城に退いたそうです。(「ウィキペディア」より)

鈴木重好(NHK大河ドラマ「女城主直虎」より)


さて、柿本城は新城市にあります。新東名で「新城」インターチェンジで降り、しばらく一般道を東の方に進むとあります。新城インターチェンジの次は、浜松いなさジャンクションがあり、すぐに井伊谷に行ける距離にあります。


柿本城の場所(「グーグルマップ」より

川尻城跡(2) 新城市

2017年11月08日 14時58分20秒 | 新城市
登場道を登っていきますと、主郭の隅に観音様が立っていました。この観音様は、不思議なことに左手に鳩を抱えていました。平和の象徴ということでしょうか。

鳩を抱えた観音様

その横には、戦争で亡くなった人の慰霊碑が立ち並んでいました。大きな観音様は、それらの人たちの鎮魂のために建てられたのだと思いました。

主郭の南側には低い土塁の跡が残っていました。 

主郭南側の土塁跡

主郭東側には結構高い土塁跡がありました。東側は山続きなので、こちらの守りが固いように思われました。


主郭東側の高い土塁

そしてその外側には堀切のようなくぼ地がありました。そのくぼ地のさらに外側には土塁がありました。厳重な守りになっていました。

主郭東の堀切

この堀切・土塁をこえてさらに東側に進みますと、細長い曲輪があり、曲輪の北側は土塁で守られていました。

東側の曲輪と土塁

そして先端は切り落とされていました。

東の曲輪の先端部分

ということで、この城は東側を意識した造りになっていることが分かりました。はじめに築城したのは、奥平貞俊で上野国から来たばかりです。その当時は東のほうに意識すべき敵がいたのかもしれないと思いました。

川尻城跡 終わり

川尻城跡(1) 新城市

2017年11月07日 21時07分23秒 | 新城市
11月3日、久しぶりにお城を訪ねました。季節は、もう秋です。紅葉のシーズンです。秋は、紅葉を見ながら山城を見学するというのが最高です。今日は新城の作手(つくで)に行きました。

城跡が多い作手地方(地理院地図より作成)

新城市の作手地方は、古宮城をはじめ亀山城、文珠山城、賽ノ神城が近くにあり、さながら山城銀座というところです。
古宮城跡
亀山城跡
文珠山城跡
塞ノ神城跡

その作手地方に、もう一つお城がありました。川尻城です。

川尻城は亀山城の奥平氏が、亀山城に移る前に居住していたお城だそうです。奥平貞俊です。
「参河国二葉松」では、以下のように記載されています。

川尻村古城
奥平八郎左衛門上野国奥平より爰(ここ)に来る。此処より
亀山城に移る。次は奥平但馬守が住す。今は畑となる。


奥平但馬守とは奥平久正のことで、奥平貞俊の孫、奥平貞久の二男に当たります。奥平久正は後に額田郡の夏山で城を構えるようです。参考 亀山城(1) 新城市

川尻城跡は、「創造の森城山公園」として整備されていました。

創造の森城山公園の案内板

また駐車場からは古宮城が見えました。近いことが分かりました。

川尻城から見る古宮城


川尻城の概要図( 「愛知県中世城館跡調査報告書Ⅲ(東三河地区)原図:佐分 清親 氏」より作成)

さて、駐車場から階段を登って城のほうに歩き始めますと、いたるところに石仏がありました。観音様のように見えました。どうしてかなと思いました。

登城道の傍らにたくさんあった観音様

2~3分ほど登ると冠木門が見えました。これを見ると東条城や桜井城を思い出してしまいますが、戦国期の城という雰囲気が出ます。

冠木門

冠木門の奥は、曲輪になっていて、周りに柵がめぐらされていました。なかなかいい感じでしたが、曲輪が草ぼうぼうでせっかくの演出が台無しになっていました。残念。

五葉城跡(4) 新城市

2017年06月23日 14時50分27秒 | 新城市
高城
1の曲輪からさらに道を進ん行きますと、「高城砦・平尾山」という標識が見えました。この標識の右手の細い山道を登っていくと高城に行きます。

この山道は五葉城の城域であるため、道の脇には堀・土塁を見ることができました。

山道の脇に見えた堀・土塁

この山道は高城に近くなると急に勾配がきつくなりました。そしてたどり着いたところが高城です。岩がごろごろしていましたが、土塁や堀などの後はありませんでした。

高城

五葉城は軽い登山コースになっていて、見学した日が休日ということもあり、他にも見学されている方が多く見えました。小1時間もかかる山に城を築いて、そこを往復するのは大変だなと思いました。昔の武士はえらい。

五葉城跡(3) 新城市

2017年06月22日 14時36分16秒 | 新城市
1の曲輪
さて、五葉城跡へは麓の五葉湖から歩いて登り約50分ぐらいで着きます。案内標識があり、左に折れると1の曲輪になります。

五葉城1の曲輪への道


五葉城1の曲輪からの眺望

五葉城からは素晴らしい眺望が開けていました。これを見ただけで50分かけて登った甲斐があったと思いました。


1の曲輪の土塁

1の曲輪には土塁の跡が残っていました。高さは数十センチでしたが、長年山の頂上で風雨にさらされて低くなったのでしょう。まだ痕跡が残っていることに感動しました。


堀跡(1の曲輪南西)

1の曲輪南西に横堀がありました。そして小さな標識で「堀」と表示されていました。見学者のための温かい配慮です。うれしかったです。