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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

大野田城(1) 新城市

2018年08月23日 14時09分22秒 | 新城市
忙中閑あり
夏休みもあとわずか。子どもたちは夏休みの宿題に追われ、大変な日々が続いているようです。新聞にも「宿題を手伝います」という学習塾のチラシが入っていて、びっくりしました。

さて、私も月末は違う用事があり忙しいのですが、今日は「忙中閑あり」で合間を縫って出かけました。それにしても今日(8月22日)は暑かったです。再び猛暑が舞い戻った感じがしました。

野田城と大野田城
大野田城は、野田城の近くにあります。

大野田城の位置(yahoo地図より作成)

これでは縮尺が大きすぎますので、もう少し縮尺が小さい地図で表します。

大野田城の位置2(yahoo地図より作成)

これを見ると野田城が豊川の河岸段丘の突端に作られていることや両端に川があり、天然の堀になっていることが分かります。また、大野田城は河岸段丘の続きで弓状に伸びた先にあることが分かります。

大野田城は、建武親政のころ富永氏の砦として造られ、応永年間(1394~1427)に城所藤五郎浄古斎という武将が砦としてつかったそうです。その後、今川氏真に野田城を攻撃された菅沼定盈が仮の城として大野田城に移ったそうです。(1561年)しかし、菅沼定盈は翌1962年夜襲で元の拠点である野田城をとりもどしています。1571年武田信玄が西上作戦で攻めてくると、菅沼定盈は大野田城に火を放ち、西郷に逃れたそうです。それ以降大野田城は廃城になっているとのことです。
(ネット「城郭写真記録」より)


大野田城のイメージ図(「愛知県中世城館調査報告」高田徹さんの図を参照しました)


中市場池より大野田城を臨む(と言ってもただの森ですが…)

続く

柿本城跡(4) 新城市

2018年04月11日 16時06分04秒 | 新城市
土塁・空堀か
この二の丸でおやっと思う看板がありました。

二の丸先端の看板

なんと、「土塁」という文字がありました。
下調べでは柿本城には土塁等はないということでしたので、どういうことだろうと思い、看板に従って降りてみました。

すると、山も終わりかけた頃に思わぬ光景が飛び込んできました。
見事な土塁があったのです。しかも石積を伴うものでした。

土塁・空堀か 概念図


土塁と石積(概念図①②)


土塁・空堀かの看板(概念図③)


土塁の下の腰曲輪、石積のある段差(概念図④)

どうして、ネット等でこの遺構が紹介されていないのか調べたところ、「この石積遺構の性格については不明である」とのことでした。(新城市HP「井伊谷・井伊家と新城地域」)

今日は、最後にいいものを見て終わることができました。

柿本城跡(3) 新城市

2018年04月10日 14時02分01秒 | 新城市
しばらく登っていきますと柿本城の本丸の虎口につきます。

柿本城縄張り図(道の駅の案内板より)

柿本城本丸

柿本城本丸虎口

柿本城の虎口には柵と冠木門が造ってありました。
以前訪れた川尻城にも同じような冠木門が造ってありました。雰囲気を作るにはいい演出だと思いました。というか、新城市が頑張っているなあと感じました。冠木門から左手にかけて柵がめぐらされ、その下には腰曲輪がありました。腰曲輪にも柵が造られており、この辺りが城の防御ラインとして重要だったんだということがよく分かりました。


本丸の柵と下の腰曲輪

出丸・二の丸・三の丸
登場道を挟んで本丸の向かい側に出丸がありました。出丸の先端に行って周りを見回しますと、木の間から眺望が開けていました。物見としての役割があったことが窺えました。

出丸

本丸に戻り奥のほうに行くと、石碑がありました。
「鈴木長門守重勝之城址」と書いてありました。重勝は、上記重時のお父さんです。

本丸にあった石碑

本丸からすぐ下に三の丸がありました。

三の丸

そして、本丸を虎口まで戻り、奥へ行くと二の丸がありました。

二の丸