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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

三方ヶ原古戦場 静岡県浜松市

2016年03月26日 20時43分18秒 | 静岡県
所在地(石碑) 浜松市根洗町(三方原霊園内)

徳川家康三大危機
徳川家康の三大危機の一つとして三方ヶ原の戦いが挙げられます。危機の一つは、三河一向一揆、二つ目がこの戦い、そして三つ目が本能寺の変の後の伊賀越えです。三方が原の戦いは、西上してくる武田信玄との戦いです。当時武田信玄は戦国最強の武将でした。信長でさえ、戦うことをためらったということです。しかし、家康は、迫りくる信玄に対して、何もせずに遠江、三河の地を素通りさせるわけにいかなかったようです。

三方ヶ原の戦いへ家康の意気込み
元亀3年(1572)、武田軍は家康側の守る二俣城を落城させると、籠城している浜松城の家康を無視するかのように北のほうを通り過ぎようとしました。それを知った家康は、作戦を変更し、籠城戦から野戦に切り替え12月23日三方が原で武田軍と戦いに及びました。
武田軍3万に対し、徳川軍は八千。「三河物語」によれば、次のようです。

「元亀三年壬申十二月廿二日、家康、浜松より三里に及んで打出させ給ひて、『御合戦を可被成』と仰ければ、各々年寄共の申上けるは、『今日の御合戦、如何に御座可有候う哉。敵之人数を見奉るに、三万余と見申候。其上、信玄は老武者と申、度々の合戦になれたる人なり。お味方はわづか八千之内外御座可有哉』と。申上ければ、『其儀は何共あれ、多勢にて我屋敷之背戸をふみきりて通らんに、内に有ながら、出てとがめざる者哉あらん。負くればとて、出てとがむべし。そのごとく、我国をふみきて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉。兎角、合戦をせずしてはおくまじき。陣は多勢・無勢にはよるべからず。天道次第。』と仰ければ、各々『是非に不及』とて、押寄けり」

匹夫の勇?
家康は、大勢で家の裏を通るものがいたら、それを咎めない者はいない、どうして合戦をしないでおかれようか。戦は兵の多い少ない出なく、時の運だ、というのです。
これは、家康の家臣大久保忠教の文なので、家康の勇気を褒めたものとも言えますが、明らかに匹夫の勇です。

結果は案の定大敗し、家康は、やっとのことで浜松城に逃げ帰りました。とちゅうで餅を食ったが代金を支払わずに逃げたとか(小豆餅)、それでも追いつかれ支払ったとか(銭取)の伝説が地名となって残っているようです。また、家康は、この敗戦を忘れないために「しかみ像」を描かせたともいわれます。


三方ヶ原の戦い関連地図

石碑が霊園内に
さて、その三方ヶ原ですが、場所そのものは広くて、ひろい平原でした。しかし、古戦場の石碑を探すのに苦労しました。根洗町という地名を頼りにナビで探索したところ、偶然「三方原霊園」内にその石碑を見つけることができました。


三方ヶ原古戦場の石碑


案内板のうち合戦の様子を図示したところ。よく分かる図でした。

掛川城(3)天守閣 静岡県掛川市

2015年12月29日 06時20分46秒 | 静岡県
天守閣内部
さて、木造復元の内部はどうでしょうか。

天守内部。柱、床、梁など大変リアルに再現されていました。しかし、内部の木造復元でどんな技術を用いたかなど木造復元でしか見せられないものがなく、ただ木造というだけだったように思います。

金沢城と比べる
単純に比べられないかもしれませんが、こちらは、金沢城内五十間長屋の内部です。


五十間長屋築城の際の工法を紹介したものです。

こうした展示があると、もう一度柱や梁を見てみようと思うし、木造でしか見れないものかなと思います。

掛川城天守閣内部

これは、掛川城の階段です。梯子と言ったほうがいいかもしれません。かなり急です。もちろん昔は、これくらいだったのだろうと思います。でも、中に入れることを前提にしてつくるのであれば、当然お年寄りの方や障がい者の方が入れる工夫がいると思います。

中に入ることに伴う考慮
「あくまでも当時の城を再現する」ということであれば耐震のこともあるし、もともとが敵に攻め込まれないことを目的にしたところがあり、簡単に中に入れないようになっているので、「中に入らせない」というふうにした方がすっきりすると思いました。

また、耐震、安全のためにこのような補強も必要です。

こういう金具は、当時はなかったと思います。色が白いのでけっこう目立ちます。

要するに木造で完全な復元は「中に入る」ことを前提にした場合、かなり無理があるということです。

天守最上階から東を見ましたら、遠くに富士山が見えました。頭をちょこんと出していました。


掛川城(3)本丸 静岡県掛川市

2015年12月28日 06時52分32秒 | 静岡県
石垣に孕み?
さて、城の入り口に石垣がありました。おそらく「四足門」の両脇を固める石垣だと思われます。よく見ると、写真の右側の石垣が、まっすぐではありません。右側の石垣の真ん中辺りが出っ張っているように見えました。「孕み」というそうですが、どこのお城でもあるそうです。でも修復しているので、私の気のせいかもしれません。

四足門石垣

太鼓櫓
チケット売り場の背後は「太鼓櫓」でした。

太鼓櫓

腰櫓台跡

写真の右側が台跡のようです。ここから敵に対して横矢をかけたようです。

天守下門跡
二層の櫓門があったそうです。調査で、基壇の石垣が見つかったそうです。


天守閣の石垣
これは、野面積みで築城当時の様式だと思います。

天守の石垣。上部には「忍び返し」もありました。

掛川城(2)木造復元の過程 静岡県掛川市

2015年12月27日 09時09分55秒 | 静岡県
掛川城再建のパネル
城に入りますと、色々なパネルが展示されていました。まずは掛川城公園整備のパネルです。

天守閣復元の様子を伝えるパネル

これによると、発掘調査も同時に行われているようです。発掘の様子を伝えるパネルもありました。

発掘によって堀や通路、柱穴、礎石さらに茶碗、陶磁器などが見つかったそうです。

名古屋城も発掘しなくていいか
名古屋城も天守閣の再建に当たって発掘の必要がないのでしょうか。もし、まだ掘り残してあれば、調査をする期間が当然必要になってくると思いました。