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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

城の会旅行(兵庫県)(7)興禅寺

2017年12月12日 04時46分43秒 | 兵庫県
黒井城を降りたら次は、興禅寺です。
興禅寺は、黒井城を落とした明智光秀の家臣斎藤利光が館を構えた場所です。
ここで春日局が生まれたとして、有名になりました。NHK大河ドラマ「春日局」(大原麗子主演)のときは、多くの観光客が訪れたと旅館の人もおっしゃっていました。

NHK大河ドラマ「春日局」の大原麗子さん


七間堀と高石垣

まず目に入るのは、立派な石垣と堀です。「七間堀」というそうです。
石垣としては、中央部石橋付近が野面積みでその他は切り込みはぎの工法で造られているそうです。いかにも元武士の館という感じがしました。

お福(春日局)関連の「史跡」がありました。

お福産湯の井戸


お福腰かけ石

黒井城関連では、寛永3年に黒井城の門材を使って建てたといわれる惣門がありました。

惣門

春日町と春日局について、春日の出だから春日局と言われたのか、春日局が出たからこの辺りを春日というのか、どちらが先だろうと話し合いながら見学しました。もしかしたら、ただの偶然かもしれませんが、どっちでしょうか。

城の会旅行(兵庫県)(6)黒井城(4)

2017年12月11日 07時28分36秒 | 兵庫県

黒井城縄張り図

本城で一番高い本丸に入りました。石垣で虎口が造られていました。

⑥本丸虎口
本丸には「保月城址」という石碑がありました。

⑦本丸

また、本丸には、ここに建物があった後として柱の礎石もありました。

⑦本丸の礎石跡(なお、礎石は数か所ありました)

本丸からの眺めは、最高でした。
「竹田城に人気があるが、ここは眺望という点では竹田城に引けを取らない。」
と、城の会の方が言って見えましたが、その通りでした。

黒井城本丸からの眺望

本丸の周りには腰曲輪がぐるっと回っていました。本丸の裏側(城下町から見えない部分)に回ると、石垣はなく、切岸になっていました。石垣の役割が「権威のシンボル」であるということが分かりました。

⑧本丸の裏側

黒井城 終わり

城の会旅行(兵庫県)(5)黒井城(3)

2017年12月10日 05時37分57秒 | 兵庫県
やっと本城(頂上)に着きました。

本城縄張り図(以下の写真の番号を付けました)

まず出迎えてくれたのは、東曲輪です。石垣がそびえていました。

①東曲輪

この石垣は付け足されているそうです。

②付け足されている石垣(画像の右側です)

また、東曲輪は内枡形の構造で本来は折れ曲がりながら侵入するようにできていたそうです。

東曲輪から三の丸を抜け、二の丸に入りました。ここは、虎口の跡が残っていました。

③二の丸虎口

二の丸虎口から石垣が見えました。若干そりが入っています。なかなか立派な石垣でした。

④石垣(この石垣は本丸と二の丸の間にありました)


⑤本丸と二の丸の間の空堀(会員の方が手に持っているのは瓦の破片で、この辺りでよく見つかるそうです。ただし、遺跡の中の物なので、持ち帰りは厳禁だそうです)

黒井城 続く

城の会旅行(兵庫県)(4)黒井城(2)

2017年12月09日 06時55分14秒 | 兵庫県

朝もやがかかる猪ノ口山(黒井城)

朝、黒井城のある山を見ると雲のようなものがかかっていました。その時頂上に居れば雲海として見えるかもしれないと思いました。また、山の頂が平らになっているのが見えて、おそらくそこに曲輪があるのだろうと予測できました。

登山道の入り口に「保月城」とありました。黒井城は、別名「保月(ほげつ・ほうづき)城」とも言うそうです。

保月(黒井)城登山口

半分以上登ると「石踏の段」と呼ばれる平坦地に出ました。

石踏の段

ここから見る景色は大変すばらしかったです。南東方向に貯水タンクが見えましたが、あの辺りも砦があったそうです。発掘した後タンクが造られ、今は、遺構の写真が博物館に展示されているそうです。

石踏の段より南東方面を望む

もうすぐ頂上、本城です。

黒井城 続く

城の会旅行(兵庫県)(3)黒井城(1)

2017年12月08日 06時08分26秒 | 兵庫県
いよいよ城めぐりの旅も3日目です。目指すは黒井城です。黒井城は、どんな城でしょう。

黒井城概要
場所 兵庫県丹波市春日町多田

黒井城の位置(地図上の赤いGのところです)yahoo地図より作成)

築城 
南北朝時代の建武2年(1335)春日部荘を領した赤松筑前守貞範が山頂に砦を築いたことが始まりと言われています。

城主・歴史
その後、赤松顕則、赤松満則、赤松貞村、赤松教貞と続き、天文23年(1554)、荻野(赤井)悪右衛門直正が城主となり、現在の黒井城跡のもとになったようです。天正3年(1575)、明智光秀が丹波平定を目指して攻めてきましたが、八上城主波多野秀治と黒井城主荻野直正は激しく抵抗しました。しかし天正7年明智軍の大軍の前に両城とも落城しました。その後黒井城には明智光秀の家臣斎藤内蔵助利光が入りました。その斎藤利光の子お福が後の春日局ということです。
斎藤利光は、本能寺の変で明智光秀とともに織田信長を倒しましたが、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れました。黒井城には堀尾吉晴が入りましたが、小牧長久手の戦いでは赤井直正の弟赤井時直が黒井城と余田城(市島町)で徳川家康に通じ立て篭もったそうです。
この戦いの後廃城になったそうです。

縄張り
黒井城がある猪ノ口山全体が城域ですが、特に本城と言われる頂上部分を紹介します。

黒井城本城写真

黒井城本城縄張り図

黒井城跡 続く