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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

牧野城 豊川市

2018年10月11日 23時20分12秒 | 豊川市
10月10日、豊川市の牧野城を訪れました。

牧野城は、吉田城を築いた牧野古白で有名な牧野氏のお城です。築城は、応永年間(1394~1428)のようです。築城者は、牧野古白の父牧野成富です。牧野成富は、四国からこちらに移り住んだそうです。室町時代からいろいろ移住があったようです。
牧野氏は、当地の守護一色氏の家来でした。しかし、一色氏は、同じく家臣の波多野全慶という人に討たれて亡くなってしまいます。その波多野全慶を牧野古白が討ち、牧野氏が一色城の城主となって、力をつけていったようです。
牧野城は、牧野古白が吉田城に移った後、廃城になったそうです。

牧野城の周りにはビニールハウスがたくさん並んでいました。中は、電照菊でした。以前幸田町に行ったときに夜に輝くビニールハウスを見て感動しましたが、こちらでも電照菊をやっているのかと思いました。


牧野城周辺のビニールハウス

牧野城は、ビニールハウスの中にありました。遺っていたのは土塁跡だけでした。しかも、草が生い茂り、中に踏み込んだところ足を取られて転んでしまいました。


牧野城案内板


土塁跡

この土塁は、結構高さがあり、りっぱなものでした。しかし、辺りはビニールハウスが林立し、牧野城跡も、それに合わせて長方形に仕切られていて、土塁も一部分があるだけです。なによりも「草ボーボー」なのが残念でした。

豊川市教育委員会さん、がんばってください。

茂松城跡 豊川市

2017年06月26日 06時20分27秒 | 豊川市
東三河の城が続きます。今回は茂松城跡です。

牧主計とは
茂松城は「三河国二葉松」に
茂松村古城 牧主計(かずえ)
とあるだけです。

牧主計とは、牧野古白の六男で茂松城は牧野氏ゆかりの城である可能性と長沢に本拠を置いた長沢松平氏の城である可能性との二つの可能性を「愛知の山城ベスト50」で指摘していました。

茂松城、長沢城、牧野城(Yahoo地図より作成)

さて茂松城跡は御津高校のすぐ隣にあります。高校の正門の右の山です。

茂松城跡から見た御津高校

蒲郡バイパスの工事中
しかしそこで、工事中の看板を見てしまいました。

工事を知らせる看板

蒲郡バイパスを造るということらしいです。茂松城跡が破壊されないか心配になりました。

茂松城跡はけっこう古い城のようです。本丸の掲示板に源範頼が三河守であった頃の居城とありました。源範頼といえば源平合戦の頃の武将です。

茂松城跡案内掲示板

本丸跡

本丸の土塁跡

本丸には東と南に虎口がありました。

本丸東虎口


本丸南虎口

井戸跡
本丸から一段下がったところに井戸跡がありました。

井戸跡

伊奈城址 豊川市

2017年03月25日 13時48分17秒 | 豊川市
忙しくてアップできなかったお城を掲載します。

はじめは伊奈城址です。伊奈城址は豊川市にあります。

伊奈城址の位置 Yahoo地図を元に作成しました。

伊奈城は、「三河国二葉松」に、次のように紹介されています。

宝飯郡 伊奈村上嶋古城 本多助大夫忠俊 子息隼人正忠次

伊奈城は本多氏のお城だったようです。本多氏といえば、本多正信、本多忠勝などが有名ですが、どんな関係なのでしょう。

本多正信(近藤正臣)NHK大河ドラマ「真田丸」より

本多忠勝(藤岡弘、)NHK大河ドラマ「真田丸」より

ウィキペディアによれば、下のような系図になるようです。

本多氏系図 ウィキペディアより

これを見ると、本多忠勝と本多正信はほとんど血の繋がりがありません。本多忠勝と本多忠俊(伊奈城城主)は少し関係が濃いようです。

伊奈城は、「諸国古城之図」にも紹介されています。

三河宝飯伊奈村(諸国古城之図より)
周りは「深田」とあり、堀の代わりをしていたようです。また、「本多隼人居ス」との注書きもあります。

さて、伊奈城は、現在は「伊奈城址公園」として整備されているようです。

公園石碑

公園ですぐ目につくのは物見台です。

物見台

堀も復元されていました。

復元された堀
諸国古城之図にある堀を再現したものと思われます。

さらに公園の北側には大きな土塁の跡がありました。

公園北の土塁跡
諸国古城之図では「土居高5間」とあるので、これが書かれた江戸時代には9mもの高さがあったことになります。

なお、本多家の紋「立葵」が徳川の「三つ葉葵」の紋の元になったとの看板がありました。

葵の紋の看板(部分)

伊奈城は平野部にある城ですが、大きな土塁に囲まれ周囲は深田(ぬかるみ)で、防御性に優れた城であることが分かりました。また、本多氏にもいろいろあることが分かりました。

瀬木城(2) 豊川市

2017年01月26日 14時52分33秒 | 豊川市
掘、土塁が
案内掲示板を左奥に進みますと神明社があり、そこが瀬木城址です。すぐ左に堀の一部が見えました、

堀の一部(②)

神社の中に入っていきますと常夜灯の後ろに土塁が見えました。

土塁跡(③)

その反対側には左側の土塁と対をなすように土塁がありました。

土塁跡(④)

さらに奥には神明社の社殿があり、その左に土塁がありました。

社殿左の土塁(⑤)

土橋と大きな堀
そこから左側の大きな堀に入り、奥へと進んで行きますと、「愛知の山城ベスト50」で「貴重な遺構である」と紹介されている土橋がありました。

主郭北西部の土橋(⑥)

確かに土橋でしたが、思っていたより低く昔はもう少し高かったのだろうと思いました。

この土橋から左に入り大きな堀を歩きました。浅めでしたが、とても大きな堀でした。雨が降ると水堀になるだろうということでした。

主郭西側の堀(⑦)

堀を出て再び曲輪の中に戻ると社殿の後ろに大きな土塁の跡がありました。

社殿の後ろの土塁(⑧)

瀬木城は、部分的に土塁や堀が残っていてそれ自身は素晴らしかったのですが、全体的な遺構は分かりにくかったです。特に東側半分は破壊されているということで大変残念でした。参考までに「諸国古城之図」の瀬木城を掲載します。


「諸国古城の図 三河宝飯 瀬木」ただし、この地図は上が南になっていますので、上下反対に見ると分かりやすいです。

以上瀬木城でした。

瀬木(せぎ)城(1) 豊川市

2017年01月24日 16時37分27秒 | 豊川市
さて、同じ日(2017年1月16日)もう一つの城を見学しました。瀬木城です。

牧野古白ゆかりの城
瀬木城は、牧野古白ゆかりの城です。牧野古白とは、東三河の国衆です。もともと牧野氏は、三河守護の一色氏の家臣でしたが、主である一色時家を討った波多野全慶を明応2年(1493)に倒し、一色城に入りました。そのときまで古白は瀬木城にいましたが、次男の成勝に譲ったそうです。

今は神明社
瀬木城へは豊川インターから、151号線を南の方に行きます。途中「馬場」の交差点を左折して、細い道を曲がりくねりながら行きました。もっといい道があったかもしれません。どちらにしても、瀬木城跡には「神明社」が立っているので、それを目標にするとたどり着きます。

瀬木城へのルート(Yahoo地図を元に作成しました) 


瀬木城の標識。南側から撮影。


瀬木城の案内掲示板(①)


瀬木城イメージ図(「愛知の山城ベスト50」をもとに作成しました。)