愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

豊川海軍工廠(1) 豊川市

2019年08月15日 14時44分32秒 | 豊川市
8月4日、豊川市の海軍工廠跡を訪れました。この企画は、「豊川冤罪事件、田邉さんを守る会」が企画しました。豊川冤罪事件というのは、2002年7月豊川市のゲームセンターの駐車場にいた幼児を連れ去り、海に捨てて殺害したという事件で、無実の田邉さんが自白だけを根拠に懲役17年の刑に処せられたという事件です。この事件で罪を着せられた田邉さんを守る会が、広報活動の一つとして企画しました。

豊川市海軍工廠は、有名な戦争遺跡で、一度行って見たいと思っていました。なぜ工場ではなく、工廠なのか、軍隊直属の軍需工場を特に工廠と言ったそうです。

海軍工廠全体図(ガイドブック豊川海軍工廠より)

工廠は図のように広大な敷地(186ヘクタール=ナゴヤドーム約18個分)を持つものでしたが、公園として整備されているのは、図の赤い四角の部分のみです。


平和公園全体図

はじめに1945年8月7日の空襲の時に着弾したという跡地を見ました。

着弾した跡地

旧第一火薬庫跡
その奥には旧第一火薬庫がありますが、その屋根部分に煙突があるのに注目しました。下は火薬庫ですから、下で何かを燃やしていたわけではありません。なんと、これは空気を逃がす煙突でした。

第一火薬庫の煙突

そして、下の方には空気の取り入れ口がありました。

空気取り入れ口


旧第一火薬庫全景

旧第一火薬庫に入りました。まず目に入ったのは、プラットホームです。ここにトラックが入り、荷物の受け渡しをしていたそうです。

第一火薬庫跡のプラットホーム


第一火薬庫の内部

黒いのは、コールタールで、断熱のために塗られています。壁は何層にもなっていて、周囲の温度に左右されず、室内が一定の温度で保たれるように工夫されていました。空気の取入れ口や排気のための煙突もその工夫の一つだそうです。
「自然のクーラーだ。」
と、見学者からつぶやきが聞こえました。

また、この工廠で使用されていた配電盤や水道管が展示されていました。

配電盤


水道管

また、第一火薬庫と本部をつなぐ電話が遺されていました。今は使えませんが、この場所にあったそうです。

電話機

次の旧第三信管置き場に向かいました。途中に、いろいろな物が遺されていました。


水槽跡


街路灯跡

豊川海軍工廠 つづく
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萩城 豊川市(3)

2019年04月18日 05時58分27秒 | 豊川市
主郭の西は堀切と土塁で守りを固めていましたが、北側は腰曲輪にいろいろな工夫を凝らしてありました。
まず、北西のあたりに小高いものがあり、そこに上がってみますと、けっこう下が見下ろせました。これはもしかしたら下の方を見張る見張り台なのかもしれないと思いました。

主郭北側腰曲輪上の高まり ここにあがり下(写真では左)の方を見下ろすと眼下に萩の村を見ることができます。

さらにその隣には井戸跡がありました。ということは、この井戸を守るために北側には様々な工夫がされているのかも知れないと思いました。

井戸跡

この井戸の東側の腰曲輪にはところどころに切れ目(竪堀)が入れられており、一直線には井戸にたどり着けないようになっていました。

最後、登城道の南側に階段状の4つのこぶがありました。これが何のためにあるのか、とても不思議でした。

階段状のこぶ うまく撮影できませんでした。写真の左側の奥に一つだけこぶが見えています。

城としては単郭で戦国時代の初期のものと思われました。ここに萩奥平家の武将たちが集まっていて、武田の侵攻や長篠の戦いの情報を聞いて、あれこれ議論していたのかと想像すると、タイムスリップした気持ちになりました。

萩城おしまい
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萩城 豊川市(2)

2019年04月17日 07時32分36秒 | 豊川市
城に入ると結構広かったので驚きました。城は、単郭でした。主郭の北の方に東西に走る溝のような痕跡がありました。その外側が少し盛り上がっていましたので、ここを掘って土塁を造ったのではないかと思いました。

主郭北側の溝

また、主郭の南側に一段高い四角形の高まりがありました。物見としてはあまり価値のないところにある気がしますので、小さな神社を祭っていたのかなと思いました。ここに何か建っていたのは間違いないと思いました。

主郭南の高まり

主郭を西の方に進んで行きますと、結構高い土塁がありました。

主郭西側の土塁(南側から撮影)

そして主郭の西には大きな堀切がありました。土塁とセットにして西側の守りをより堅固なものにしていました。

主郭西側の堀切
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萩城 豊川市(1)

2019年04月16日 06時44分39秒 | 豊川市
城の腰城から県道沿いに北東に進んで行きますと、左側に萩城があります。

萩城の位置(地理院地図から作成しました)

萩城は、「参河国二葉松」で「清家右馬允(うまのじょう)嘉吉二年(1442)棟札次内藤十郎市次奥平周防守是奥平七族七人内」と紹介されています。清家、内藤、奥平と受け継がれていったようです。ただし、清家、内藤については調べても分かりませんでした。奥平七族とは、和田奥平家(のちに雨山奥平家)、夏山奥平家、萩奥平家、田代奥平家、中金奥平家、日近奥平家、稲木奥平家の各奥平家です。ただし分割統治をしていたのではなく、五老と呼ばれるやはり親族の武士たちと共に奥平家の一つの武士団として存続していたようです。(ウィキペディア)萩奥平家が他の奥平氏と行動を共にしていたのもこのような事情があったからだと思いました。


萩城全景(東から撮影)


萩城の案内標識 ふもとの小道の脇にひっそりと佇んでいました。うっかりすると見落としそうでした。ここからはものの5分もかからずに城跡にたどり着きました。


萩城のイメージ図
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城の腰城 豊川市

2019年04月15日 05時13分57秒 | 豊川市
4月13日、豊川市の城の腰城に行きました。
城の腰城は、萩町というところにありますが、県道沿いに山陰川という小さいですが、きれいな川が流れています。その両脇に桜が満開で、とても気持ちのいい城めぐりになりました。

山陰川沿いの桜並木

城の腰城は、奥平一族のお城だったようです。奥平氏は、長篠の戦いで長篠城に立てこもり、武田勝頼の軍に屈しなかった奥平信昌の一族です。日本城郭体系では、「作手奥平氏の一族で萩奥平氏の居館」とあります。奥平氏の中でも萩の地に住み着いた一族がいたようです。長篠の戦いでは、作手奥平氏と同様に徳川についたようです。

さて、城の腰城は、県道にそって残っています。県道からすぐ入れます。

城の腰城の位置 現在は豊川市ですが、旧音羽町です。


城の腰城 航空写真(Yahoo地図から作成しました)

愛知県城館跡調査報告Ⅲ(東三河)では上記写真の黄色の線で囲んだ部分が城跡となっています。城跡の中を県道が通り、お城を分断しています。そして北の方は、写真では青い線で記しましたが、重機によってきれいに割られた「堀切」があり、ここまでとなっていました。しかし、堀切があったということはその先にも城の遺構があるのかもしれないと思い、今回写真で赤い線の部分も見てみました。すると石積みや土塁などが見つかりました。


城の腰城の標識


赤い線で囲われた部分にあった石積み(手前の白っぽいものは撮影者のメモ用紙です)


赤い線で囲われた部分にあった土塁

石積みは後世に造られたものと思いますが、土塁は当時のものかなと思いました。
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