
「自粛」は、日本の場合、同調性で支えられた行動規範です。
学校教育の観点でみると、子どもの世界は、おとなの世界の縮図といえますので、同調性は際立っています。
いまの児童生徒は驚くほど周りの友だちがどうしているかを見て、周りに合わせようとします。
自分だけが突出すると、周りから浮き目立つので、まわりの言動に合わせようとします。
実際、集団づくりが停滞しているクラスでは、周りから浮くと、「何、あの子」と言われて、いじめで叩かれる相手にされかねません。
そのことをよく知っているので、同調性を知らず知らずのうちに、身につけていくのです。
もっとも、お互いを認め合い、高めあう集団づくりが進んだクラスでは、ありのままの自分を出してもいい仲間関係ができあがっているので、みんなが居心地がよく、同調性は後退します。
その点で、お互いがつながり合い、認め合い、自己を出せる集団づくりを目指すのが学級担任の醍醐味であり、多くの教師が学級づくりに傾注するのです。
しかしながら、おとなの世界や社会は、なかなかそうはいきません。
自粛や自主規制で成り立つ日本のような社会では、いつごろ、どこで、どのようにして同調する行動をやめるかという基準がありません。
外国の国の多くは、個人が自分の意思を表し、自己主張するのが当然という考えなので、コロナ対策にしてもそうですが、法律で禁止します。
しかし、周りを見て、そんたくがはたらき、自主規制をする日本の場合は、これが功を奏して、一貫して法律でなく同調性により、コロナ対策がかなりうまくいってきたのです。
このあと、他者の行動を伺い、自粛することをいつやめるかは、誰もがきめられないのです。
大勢の人がマスクをしなくなると、マスクをやめてもいいということになりますが、その段階に到達するのはまだまだ先になるように思います。
周囲の状況を観察して、自分がどうするかを判断するという習慣は、コロナに限らず、意思決定を遅らせ、変化にすばやく対応することを困難にするように思います。