言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

事実上、終身雇用は 「終身」 雇用だった

2009-07-15 | 日記
久野治 『春闘の終焉』 ( p.45 )

 戦前そして戦後も、ある時期までの労働者の寿命は短かった、と思います。私が会社に入社した昭和十二年(一九三七)ころの男子の平均寿命は概ね四十七歳でありました。そこで会社の定年は五十歳であり、定年まで勤めることが出来ると、「満年退職」といい、おめだたいこと (引用者註: 原文ママ) としておりました。まさに、これを「終身雇用」と呼ぶのであります。定年は人生の満月で、そこまで働くことができれば人間の完全燃焼と言われました。(現在の平均寿命は男性が七十九歳、女性は八十六歳で、往時を思いますと隔世の感があります)


 昔は、会社の定年よりも、平均寿命のほうが短かった、と書かれています。



 「終身雇用」 は本来、( 男子の ) 平均寿命よりも長い雇用を意味していたことがわかります。

 当時は日本も ( 当事者として ) 戦争に参加していましたから、兵隊にとられ、若くして亡くなられるかたも多かったと思われます。したがって、統計上、平均寿命は短か目に計算されますから、労働者のほとんどすべてが、定年前に亡くなった、というわけではないと思います。定年後の生計をどうするのか、考えなければならない労働者も、かなりの数にのぼったと思われます。

 したがって、文字どおりの 「終身」 雇用だった、とはいえないのですが、

   事実上、終身雇用は 「終身」 雇用だった、

といってよいのではないかと思います。



 現在、労働者の保護をめぐって、終身雇用について論じられていると思いますが、なんらかの参考になるのではないかと思います。



 なお、現在、『資本主義は嫌いですか』 について書いている途中ですが、( 引用すべき部分が多く ) 時間がかかりそうです。そこで、( 見出しの順序は乱れますが ) 併行して他の本についても書き、「次々に話を進めたい」 と思います。

ワルラスの法則

2009-07-14 | 日記
竹森俊平 『資本主義は嫌いですか』 ( p.94 )

 経済学部に在籍する学生が、早い機会に学ぶ経済学の重要な原理に「ワルラス法則」というものがある。一九世紀のフランスの大経済学者レオン・ワルラスが明確にした、いくつかの市場の同時均衡についてのルールである。たとえば、二つの市場、A、Bだけが存在するという簡単な設定を考えよう。

(中略)

 一方の財の市場において「超過需要」が生じている時には、もう一方の財の市場において「超過供給」が必ず生じている。ワルラスは「超過需要」や「超過供給」が生じたままの状態で経済取引が実行されることはなく、経済取引はまず、相対価格の調整によって需給が二つの市場で同時に均衡してから行われるものと考えた。…(中略)…相対価格の調整がなされ、品不足、売れ余りが同時に解消した後に、初めて経済取引が実行されることになる。


 ワルラスの法則によれば、品不足や売れ残りは自動的に解消される、と書かれています。



 品不足や売れ残りが自動的に解消される根拠は、相対価格が自動的に調整される、というところにあります。すなわち、品不足の商品は価格が上昇し、売れ残っている商品は価格が下落するから、最終的には、品不足も売れ残りも解消する、超過供給も超過需要も解消される、というのです。



 これは本当でしょうか。

 「相対価格の調整によって需給が二つの市場で同時に均衡」 することによって、品不足も売れ残りも解消されるためには、AもBも、生産量の ( あるいは市場に存在する量の ) 全量が、需要される必要があります。

 しかし、たとえばコメについて考えれば、一人の人間が食べられる量には限度があります。いくら価格が下がっても、これ以上はいらない、という限界があるはずです ( 保存するにも限度があります ) 。食べ物には賞味期限がありますが、

 同様のことは、クルマについてもいえます。価格が 1 台 100 円 (!) になったところで、1 人で 100 台も 200 台もクルマを所有しようとするでしょうか。

 現実問題として、生産量全部が需要される状況は、つねに存在しているわけではない、と考えるべきではないかと思います。とすれば、



 ワルラスの法則は、一定の限られた条件下において、成り立つ法則にすぎない、と考えられます。もっとも、「お金も 『商品』 である」 と考えるなら、話は変わってくる可能性があります。

「合理的バブル=ねずみ講」 とは 「つけの先送り」

2009-07-14 | 日記
 前日の内容 ( 「動学的効率性の条件」 ) を、私なりに整理してみます。



 「合理的バブル」=「ねずみ講」 とは要するに、「つけの先送り」 です。「つけの先送り」 が永久に可能であれば、その分だけ消費を増やせます。だから生活水準が向上する。

 「合理的バブル」=「ねずみ講」 によって経済効率が 「改善」 する、というのも、消費を増やせるからではないか、と考えられます。

 このように考えれば、前日の話は、あたり前のことを述べていただけ、といえ、感覚的にも、腑に落ちるものがあります。



 ところで、

   「つけ払い」 によって消費を増やせるのは、「最初の一回かぎり」

です。最初の一回、とある年度の支出を国債発行によって増額すれば、「合理的バブル」 が起動される。あとは ( GDP成長率の割合で借金を増やしつつ ) 「つけの先送り」 を続ければよい。そうすれば経済効率が改善する、というのが、前日の話です。



 しかし、「動学的効率性の条件」 が満たされない経済では、

   一回かぎりの公共事業ですむはずはない、

と考えるべきだと思います。すくなくとも景気が回復するまで、場合によっては永久に、「あらたな」 公共事業が必要になるはずです。それを実施すれば、過去の元利払いのための国債発行に加えて、

   あらたな公共事業の費用を賄うためにも、新規の国債発行が必要

になります ( 「合理的バブル=ねずみ講」 の多重起動 ) 。これでは、公共事業をどんどん行ってよい、とはいえなくなります。



 この方法で乗り切れなくなりつつあるのが、いまの状況ではないかと思います。

動学的効率性の条件

2009-07-13 | 日記
竹森俊平 『資本主義は嫌いですか』 ( p.76 )

 とくに注目されるのは、ジャン・ティロールによる一九八五年の重要な研究である。

(中略)

 彼の「合理的バブル」についての研究 …(中略)… は、ある重要な条件が経済において満たされない時には、バブルが経済効率の改善につながりうることを明らかにしている。その鍵となる条件とは、経済学者が「動学的効率性の条件」と呼んでいるものだ。
 具体的にいうと、「動学的効率性の条件」とは、「その経済における投資収益率が成長率を上回る」という条件を指す。この条件が満たされない状態とは、したがって、「その経済における成長率が投資収益率を上回る」状態ということになる。ごく直感的に解説すると、「動学的効率性の条件」が満たされないような経済とは、投資がすでに過剰になっている経済である。そのために投資収益率は低くなり、経済成長率以下になっている。そのような投資過剰の状態では、富をさらに投資に向けるよりも、バブルに向けたほうが経済にとってプラスとなりえることを、彼の分析は示唆している。

(中略)

 「動学的効率性の条件」が満たされない状態にある経済では、なぜ、「バブル」によって経済効率が改善することがあるのだろうか。話を簡単にするために、具体的な数値を設けて考えてみることにしよう。
 そこでいま、ある国のGDP成長率は一〇%、投資収益率は六%だったとしてみよう。大雑把な数字だが、現在の中国はいくらかそれに近いかもしれない。ある時、この国の政府が、次のような一種の「ねずみ講」を始めたとする。つまり、まず政府は、この国のGDPの一定割合、たとえばGDPの五%に相当するカネを、国債を発行することによって手元に集める。手元に集めたカネは、話を簡単にするために、海に投げ捨てることにしよう(あるいは、日本の政府のように、経済的意味のない道路やダムをつくることに使うと考えるのでもよい)。これも単純化のために、国債は一年満期だとする。
 さて、一年が経った。政府は満期が来た国債の元利を支払わなければならない。といっても、昨年集めたカネは海に投げ捨てられているから、普通のやり方では返済できない。どうしたらよいのか。簡単だ。また国債を発行するのである。そこで、政府がもう一度、GDPの五%に相当する国債を発行して、それで集めたカネを、前年発行の国債の支払いに回す。なるほど、これなら国債の元本が償還できる、と納得するかもしれないが、それだけではないのだ。この時、政府は国債にGDP成長率に等しい一〇%の金利を付けて償還できるのである。
 理由は簡単だ。国債の発行額は毎年GDPの一定割合(五%)だから、GDPが一〇%で成長するなら、「GDPの一定割合」もまた一〇%で成長するのである。それゆえ、今年、国債を発行して集めたカネを、全部、昨年の国債の償還に回すなら、国債には一〇%の金利が付くわけである。もちろん、この方法を続ける限り、国債には毎年、経済成長率に等しい金利を支払い続けることができる。

(中略)

 カネを、海に投げ捨てる(もしくは、それに似た、無駄なダムや道路の建設に使う)というのは、あまりにも無駄である。それくらいなら、毎年GDPの五%にあたるカネを、生産設備拡大のための真正な投資に向けたほうが、経済にとって有益ではないか。そういう考えを誰もが抱くはずである。
 ところが、経済成長率が投資収益率を上回る「動学的効率性の条件」が満たされない状態においては、この考えは、実は正しくない。経済成長率が一〇%であるのに、投資収益率はわずかに六%という、この国の経済はまさに「動学的効率性の条件」が満たされない状態にある。「真正な投資」が「経済にとって有益とはならない」ことを確認するために、今度はこの国が、GDPの五%に相当するカネを、政府が集めた上で海に投げ捨てる代わりに、生産設備拡大のための真正な投資に向けたとしよう。これで経済状況は改善するだろうか。いや、そうはならない。
 投資収益率はわずか六%でしかないので、これまで政府の主催する「ねずみ講」に投資することで一〇%の投資収益を稼いできた一般国民は、これまでと同じ金額を真正な投資に回さなければならないことによって、わずか六%しか投資収益を稼げなくなる。真正な投資によって得をする者は誰もいないから、折角、「ねずみ講」に回っていたカネを、真正な投資に回すという考えそのものが誤りだったことになる。
 なぜ、こんな不思議なことが起こるかといえば、その理由はその経済における真正な投資がすでに過剰な状態にあったということだ。そのために、社会的に見て、投資収益率が過小になってしまったのである。そういう状態では、「ねずみ講」を始めてでもより多くの資源を消費に回した方が、生活水準が向上するわけである。


 「動学的効率性の条件」 ( =「その経済における投資収益率が成長率を上回る」 という条件 ) が満たされない状態にある経済では、「バブル」 によって経済効率が改善する ( 生活水準が向上する ) ことがある、と書かれています。



 ここでいう 「バブル」 は、「ねずみ講」 を指しており、世間一般にいう ( 価格が異常に高騰する意味での ) バブルとは、すこし意味合いが違っています。



 さて、この「バブル」=「ねずみ講」 によって、「真正な投資 ( 普通の意味での投資 ) 」 よりも経済効率が改善し、生活水準が向上する、というのは、かなり驚天動地の結論ではないかと思います。しかし、論理の筋を追っていけば、この結論は、認めざるをえない。とすれば、

 一見ムダに見える公共事業も、バンバンやって構わない、むしろ、バンバン行うべきである、

といえます。


 さらに、上記 「合理的バブル」 の考えかたは、「満期が来た国債の元利」 を支払うために、「また国債を発行する」 ことが前提となっているのですから、「GDP成長率に等しい」 割合で、国債発行残高も増え続けることになります。それでも構わない、というのは、( 感覚的には ) いささか、受け容れがたいのですが、理論に従えば、

 ( GDP成長率に等しい割合であれば ) 国債発行残高が増え続けても構わない

と考えるほかありません。



 日本経済はまず間違いなく、「動学的効率性の条件」 を満たしていないと思います。日本においては、( すくなくともプライマリー・バランスが均衡しているかぎりは ) 「一見ムダに見えても、じつはムダではない」 のだから、公共事業を行うべきである、と考えられます。

 したがって、たとえば 「雇用対策としての道路建設」 は、日本経済の 「経済効率 『改善』 のためにも、行うべきである」 と結論されます。

年金制度は 「ねずみ講」

2009-07-12 | 日記
竹森俊平 『資本主義は嫌いですか』 ( p.74 )

 ここでサミュエルソンが提案するような「貨幣経済」が成立したとしよう。各期のヤングは、オールドから「ただの紙切れ」を受け取って、それと交換に自分の「所得」五〇を渡し、次期にオールドになったときには、その受け取った「ただの紙切れ」を使ってその期のヤングから「所得」五〇を受け取るというわけである。この「貨幣経済」の構造は、まさに「ねずみ講」に等しい。
 「ねずみ講」というのは、「親」の会員が「子」の会員から利益をもらい、「子」の会員は「孫」の会員から利益をもらい、といった連鎖を繰り返していくことにより、会員全員が利益を享受することをねらったものである。何のことはない、この仕組みは、より先の世代の会員たちが受け取る利益の「つけ」全部を、連鎖の最後の世代に回しているに過ぎない。しかし、もし「ねずみ講」の連鎖が永遠に続くならば、「つけ」を回される連鎖の最後の世代の存在は無限時点のかなたに消滅する。それゆえ、この場合には「ねずみ講」に参加する会員全員が利益を受けるという奇跡が起こるのである。


 貨幣経済は 「ねずみ講」 である、と書かれています。



 貨幣経済が 「ねずみ講」 だという根拠は、「紙幣そのもの」 の価値はゼロに等しい、というところにあります。いわば、「ただ同然の紙切れ」 を、価値のあるもの ( 商品 ) と交換する過程が無限に続いてゆく、その連鎖 ( 状態 ) を、「ねずみ講」 と評しているわけです。

 現在の 「状態」 を所与の前提として考察すれば、たしかにその通りだとは思いますが、この説明には、すこし、違和感があります。歴史上、貨幣の役割を担ってきたのは、金貨など、価値を有するものであり、紙幣もその当初は、「金との交換」 を保証する兌換紙幣だったのですから、すこし、現実からは遠いのではないか、という気がします。

 もっとも、現在の状態を 「静態的に」 観察すれば、「ねずみ講」 である、といった説明も可能でしょうから、「貨幣経済は次第に 『ねずみ講』 的性格を有するようになった」 と理解しておけばよいのではないか、と思います。



 なお、上記引用文は、「オールド」 と 「ヤング」 で説明されており、公的年金などの社会保障が念頭に置かれています。( 著者の ) 説明の力点が、すこしズレているのではないでしょうか。( 貨幣経済そのものとは異なり ) 年金制度が 「ねずみ講」 であることには、まったく違和感がありません。