言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

ワルラスの法則

2009-07-14 | 日記
竹森俊平 『資本主義は嫌いですか』 ( p.94 )

 経済学部に在籍する学生が、早い機会に学ぶ経済学の重要な原理に「ワルラス法則」というものがある。一九世紀のフランスの大経済学者レオン・ワルラスが明確にした、いくつかの市場の同時均衡についてのルールである。たとえば、二つの市場、A、Bだけが存在するという簡単な設定を考えよう。

(中略)

 一方の財の市場において「超過需要」が生じている時には、もう一方の財の市場において「超過供給」が必ず生じている。ワルラスは「超過需要」や「超過供給」が生じたままの状態で経済取引が実行されることはなく、経済取引はまず、相対価格の調整によって需給が二つの市場で同時に均衡してから行われるものと考えた。…(中略)…相対価格の調整がなされ、品不足、売れ余りが同時に解消した後に、初めて経済取引が実行されることになる。


 ワルラスの法則によれば、品不足や売れ残りは自動的に解消される、と書かれています。



 品不足や売れ残りが自動的に解消される根拠は、相対価格が自動的に調整される、というところにあります。すなわち、品不足の商品は価格が上昇し、売れ残っている商品は価格が下落するから、最終的には、品不足も売れ残りも解消する、超過供給も超過需要も解消される、というのです。



 これは本当でしょうか。

 「相対価格の調整によって需給が二つの市場で同時に均衡」 することによって、品不足も売れ残りも解消されるためには、AもBも、生産量の ( あるいは市場に存在する量の ) 全量が、需要される必要があります。

 しかし、たとえばコメについて考えれば、一人の人間が食べられる量には限度があります。いくら価格が下がっても、これ以上はいらない、という限界があるはずです ( 保存するにも限度があります ) 。食べ物には賞味期限がありますが、

 同様のことは、クルマについてもいえます。価格が 1 台 100 円 (!) になったところで、1 人で 100 台も 200 台もクルマを所有しようとするでしょうか。

 現実問題として、生産量全部が需要される状況は、つねに存在しているわけではない、と考えるべきではないかと思います。とすれば、



 ワルラスの法則は、一定の限られた条件下において、成り立つ法則にすぎない、と考えられます。もっとも、「お金も 『商品』 である」 と考えるなら、話は変わってくる可能性があります。

「合理的バブル=ねずみ講」 とは 「つけの先送り」

2009-07-14 | 日記
 前日の内容 ( 「動学的効率性の条件」 ) を、私なりに整理してみます。



 「合理的バブル」=「ねずみ講」 とは要するに、「つけの先送り」 です。「つけの先送り」 が永久に可能であれば、その分だけ消費を増やせます。だから生活水準が向上する。

 「合理的バブル」=「ねずみ講」 によって経済効率が 「改善」 する、というのも、消費を増やせるからではないか、と考えられます。

 このように考えれば、前日の話は、あたり前のことを述べていただけ、といえ、感覚的にも、腑に落ちるものがあります。



 ところで、

   「つけ払い」 によって消費を増やせるのは、「最初の一回かぎり」

です。最初の一回、とある年度の支出を国債発行によって増額すれば、「合理的バブル」 が起動される。あとは ( GDP成長率の割合で借金を増やしつつ ) 「つけの先送り」 を続ければよい。そうすれば経済効率が改善する、というのが、前日の話です。



 しかし、「動学的効率性の条件」 が満たされない経済では、

   一回かぎりの公共事業ですむはずはない、

と考えるべきだと思います。すくなくとも景気が回復するまで、場合によっては永久に、「あらたな」 公共事業が必要になるはずです。それを実施すれば、過去の元利払いのための国債発行に加えて、

   あらたな公共事業の費用を賄うためにも、新規の国債発行が必要

になります ( 「合理的バブル=ねずみ講」 の多重起動 ) 。これでは、公共事業をどんどん行ってよい、とはいえなくなります。



 この方法で乗り切れなくなりつつあるのが、いまの状況ではないかと思います。