真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

津波注意報

2007年01月13日 14時01分37秒 | Weblog
 テレビを見ていたら突然津波警報が出て、番組は中断された。
その前から地震情報などの字幕が出ていたが、深度ということで別にこれといった興味も持っていなかったが、突然の騒ぎとなってしまった。
釧路、根室などで震度3 M8.3の地震 津波警報も(朝日新聞) - goo ニュース13日午後1時24分ごろ、北海道から東北地方にかけての広範囲で地震があり、北海道釧路市、根室市や青森県などで震度3を観測した。

 気象庁によると、震源地は北西太平洋で、震源の深さは約30キロ。地震の規模はマグニチュード(M)8.3と推定される。地震による津波警報が北海道太平洋沿岸東部、オホーツク海沿岸に、また津波注意報が北海道から和歌山県にかけての太平洋側に広く発令されている。
 2時をすぎたが、これといった被害は今のところ報告されていない、このまま、何事も無く終わってくれることを祈っている。
 ハワイに「太平洋津波警報センター」と言うのがあることを知る。そこでもろロシヤやアメリカなど太平洋沿岸に、津波警報を出したと言う。
 マグニチュード8.3とはかなり大きな地震なのであろう。

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ムーミン

2007年01月13日 11時41分22秒 | 虫プロ
昭和44年10月に「ムーミン」の放映が始まった。
当時原作者の名前すら知らなかった。カバなのか、ピーナツに手足を付けたものなのか、そんなことはどうでも良かった。岸田今日子さんの声と相まって可愛いのであった。どんな経緯(いきさつ)で、3クール目から虫プロで制作するようになったのかは、定かでない。東京ムービーで制作していたが、ディレクターのりんちゃんあたりが、仕事のない虫プロの窮極を救おうと、回してくれたと、感謝をしていた。「日本誕生」の制作室の隣へいきなり、ムーミンの制作室ができた。そしてプロデューサーは永井安昌嗣さんであった。事務の女性も、一緒に来ていた。その後虫プロのAP岩崎 正美さんがプロデューサーとなったが、永井さんが、どうしてその後タツノコのプロデューサーとして、活躍されるようになったのかは、定かでない。
岩崎 正美さんは「わんぱく探偵団」の頃から、頭角を表し、りんちゃんや森ちゃんに高く買われていた。このムーミンでは、しっかりとした、スケジュールと経理管理で、次の「アンデルセン物語」と引き継いでいった。
「千夜一夜」以降虫プロをやめて、独立した人が多かった。また手塚作品ではないと言うこともあったのか、仮名で参加する演出家も居た。虫プロでのムーミンの主な演出家は、村野 守美、上梨 満夫さん、林 政行さん、水沢 わたるさん、奥田 誠治さん、高橋 良補さん、山本 功さん、石黒 昇さん、出崎 哲さん、館輝 正さん、などであったが、火野 車(りんたろう) 富士見崇さん、輔 逸平さんがどなたであったか、思い出せない。
その後ムーミンのような路線は、動物モノとして、名作路線というひとつの流れに位置づけられたと思うのであるが、それはこの「ムーミン」があったからだと思う。  登場するさまざまなキャラクターの豊かな個性付け、異郷の地、全体に漂う、不思議な親近感、ムーミンはそれほどしっかりした子でもなく、悩んだり、そして考え込んだりする、ムーミンは子供たちそして親たちからも暖かく迎えられた。
ムーミンのパパの文化人たる思想。
スナフキンの独特な精神。
スノークのハイソサエティー意識、
間に立って考えるムーミンとともに、子供たちにも与えるものが多かったと思う。
スナフキンの「おさびし山のブルース」にジーンと来た親も多かったと思う。
これだけ子供に受け入れられたムーミン。
 だからこそ、「おやすみムーミン」と言う形で冬眠して、お別れした。
そして再度「新・ムーミン」として登場したのであるが、ムーミンと、ムーミンの仲間たちは、それほど子供たちにとって、仲間となってしまったのだろう。
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