真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

虫プロ外伝10

2006年12月31日 13時07分24秒 | 虫プロ
この頃、結婚する覚悟を決めた、内海ちゃんたちと日曜日には式場を探しに行っていた。あらかじめ笠井君が電話で聞いておいたが、場所などの確認に行くのであった。虫プロの人たちが良く使う、新宿ステーションビルや、椿山荘、ダイヤモンドホテル、教会、など訪ね歩いたが内海ちゃんたちが納得できる式場ではなかった。
やっと決めたのが、田町駅近くの芝田町 新日本会館であった。そこは前にやなせたかしさんの講演会を行なった近くであった。そして会費制で行うことに決めた。
場所が遠いが、みんなに来てもらいたいので、1,000円の会費にした。司会を受け持つことになり、おめでたい場所で使う言葉の練習をする羽目になってしまったが、心は楽しかった。
そんな会議は、お母さんの部屋で行われた。
案内状の制作を始めると言うので、皆で手分けして作ろうと申し出たが、心を込めた招待状にしたいので、2人だけで作りたいという。
そして見本ができたのでその招待状を見せてもらった。往復はがき大の色付き用紙を二つ折りにしたもので表に
「けっこんしきのおしらせ、
うちうみ たけお 
さかい しずこ」
と書いてありバイクに乗った2人の、絵が描いてあった。
中には、
「○ オフロの好きな女の子と」
「オートバイ野郎が」
「フトしたことでめぐりあって」
「結婚します。」
「それは神様のイタズラからかな・・・?」
次のページに 
「ごあんない 5月4日 PM1:30―4:00  
芝田町新・日本会館 
かいひ ¥1000 

そしてピエロの帽子をかぶった、男の子と女の子それにねこの絵が描かれ、着ている服にあとからピンクと水色が着色してあった。
それらは和紙で、カバーがしてあり、その文字と絵のところだけ、切り抜いてある。
と言う、大変手のこんだモノであった。

仕事を終わって帰宅したアパートで2人で幸せに包まれてその作業をしている姿をお思い浮かべると、微笑まずにはいられなかった。
 
4月19日の日曜には千葉へ潮干狩りに行くことにした。千葉は内海君のふるさとである。
牛越君と、彼のフィアンセやバンドの連中それに、フルートを演奏してくれた、吉村君。作画の万之助君、佐々門君、山守君、なべ子さんなどクレオパトラ班 の人たちなどを、安達君や中川君の進行3人が運転して富津海岸へ行った。
前もって調べてから行けばよかったのに、着いた時には満潮となっていて、潮干狩りが出来なかった。
おなじ車で移動した、リードギターの牛越君と、事前に調べなかったことを指摘され、一事は、「電車で帰る」とまで言い出すほどの険悪な空気になってしまった。
 簡単な海の家風の建物で地元の若者がバンドの練習をしていた。始めたばかりか、騒音のように聞こえた。近づいて見ていたが、そのうち、牛越君がリードギターを教え始めた。すると内田君もドラムを教え始めたので、わたしもベースギターを教えた。この頃ピックを使わないで指で引くのが流行っていたので、チョッパーをちょうど、練習していた。その引き方を教えていたが、「何か弾いてくれないか」と、ねだられた。
「俺ら、高いんだぜ」など冗談を言う頃には、一緒に行った連中も」取り囲んでいた。
演奏が始り、そのうちまわりで踊りだした、小さなパーティーとなる、アンコールにこたえて、調子に乗って、1時間半ぐらい、何曲も演奏してしまった。お決まりの「イエスタデー」で演奏を終わると、いつの間にか集まった、大勢の若者たちから、歓声と拍手が起こった。「快感」こんなときが一番幸せを感じる。帰りの車中は、ご機嫌だった、鼻歌まで出ている。
浮かれて運転していたものだから、信号待ちで、ほかの車とはぐれてしまった。
全員が一度会社まで戻るので、会社へ着けば、また合えるのだからと、車を走らせた。蔵前通りから国道17号にぶつかる、本郷通りを右折して神田明神さん前を通り、ガソリンスタンドの信号先で左によっておく、その先の信号を左折下り坂となる。「この左側あたりに、あの有名な漫画少年を発刊していた加藤謙一さんの会社があったんだって」と説明する。
実は、その説明をするためわざわざこの道を選んでいた。坂を下ってそのまま直進し地下鉄後楽園を左折、突き当たりを右折すると神田川沿いの狭い抜け道広い道に突き当たり右折してすぐ左の一方通行の坂を登る。この坂が目白坂で式場探しで来た椿山荘へ出る。
すると右に大きな教会が立っている。この時はまだ東京カテドラル聖マリア大聖堂の聖堂であることは知らなかった。山守君が「入れるのかな」と言った、その門は大きく開いていた。
駐車場に車を止めて、見せていただくことにした。岩場と池が目に入った、洞窟の中にマリアの像があった。入り口から建物の中に入った。四角い岩を彫刻したような、オブジェが目に入った。中に入ると広い空間がひろがったとても大きな部屋があった。パイプオルガンが目にはいった。背筋が正されると言うか、尊厳のある部屋であった、自然と頭をたれた。全員の目が清清しい目をしていた。
この時、人と出会わなかったのが不思議であった。

車に乗って門を出た。左に田中角栄さんの邸宅があったが、首相となられるのは、まだ先である。

ふと、おかしいことに気がついた。いつもは混雑する道路、それが、前にも後にも1台の車が走っていないのである。「この時間、動いているのは自分たちだけ、」のようなおかしな空間であった。そこから脱出するため、スピードを上げ、前方に見えた車に近づいていった。思わず、全員が、顔を見合わせた。前の2台は、はぐれた仲間の車だった。「奇跡だ」そう。叫んだ。
前の車の二人は「普段この道はあまり使わない、それを、たまたま使って帰ってきた」と言う。
それだけだったが、今も心に残る出来事であった。

5月1日金曜日虫プロもこの日メーデーに参加した。正確には虫プロの労働組合火曜会の参加であるが、火曜会は親睦会のようなものであったので、お祭りみたいなのものであった。だから飲み物にお菓子、お弁当まで持っての参加である。原宿の選手村跡地に集合。誰かがわめいている、スピーカーから流れている、演説を聞いているものはいない。やっとながい、わめきが終わり、前日作っておいたプラカードや垂れ幕を掲げ、行進がはじまる。
先導者の運転を任された。あまりにもゆっくり進むので、途中車は、オーバーヒート、こんなときあわてず、ボンネットを半開きにしてヒーターをかける、ヒーターの構造がラジエターとおなじことを知っていれば、疑問は無いはずが、「暑いのになぜ」という質問が多いのに驚いた。

途中国会議事堂前で、目の前の連中が、禁じられた、ジグザグ行進を始め、警備の機動隊と険悪な状態になったが、それでもなんとか無事日比谷公園に着き、プラカードやごみを車に積み込み一足先に会社へ戻った。
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虫プロ外伝9

2006年12月30日 08時10分33秒 | 虫プロ
吉村 豊さんのことはそれでも対岸の火事のことのように思われた、まだ21歳だったと言うことで衝撃は受けたが虫プロでは、前にも書いたように、おめでたい話ばかりであった。
 仲間がどんどん、やめて淋しかったが、それは、独立するためであるように見えたし、虫プロの経営が悪化して、昇給もボーナスも、期待できなかったが、虫プロには、「手塚治虫が控えている」と言うような、安心感みたいなものが漂っていた。

内海君の相手の女性、笠井くんをあまり知らないと思っていたら昨年6月の募集で入社してきたらしかった。
一目ぼれした内海君が猛烈にアタックしたのだろう。

そんな彼女が「K子さんと今晩アパートに来て」と言ってきた。アパートと言うからには、内海君のアパートだ、彼のアパートへは、何度か行っていた。
男やもめではないが、「一人男にゃウジが湧く」ほどではないが、あまりきれいではなかったことを思いうかでた。
少し残業となったが10時ごろK子とアパートに行った。
ビックリしたのは、部屋の様子が前見たときとまったく違っていた。ピンクのカーテン食器棚、など等、それにきちんと片付いたダイニング、畳には絨毯が敷かれ、虫プロが少し前に放出したのを買い取った、きれいにした動画机が置いてあった。
折りたたみのちゃぶ台にテーブルクロスが敷かれ、その上に彼女が作ったのだろう、手料理が並べてあった。
ジュースを注いでくれたが、なかなか要領を得ない、お茶を飲むばかりで話の内容がつながらない、やっとの思い出「俺たち結婚したいんだ」と話をした。そして「世話をやいてほしい」と2人が頭を下げて頼んできた。

手塚先生が深夜、若いスタッフを呼んで、会話をするのが好きだったのは、お母さんの血筋のためのようで、手塚先生のお母さんも、3時休みの休憩に遊びに来ないかと、社内電話をくれた。お茶にお菓子、お母さんのピアノ伴奏で歌をうたったりするのであった。
仲人を、手塚先生にお願いしようとしたが、内海君が、恐れ多いと、辞退した、そのお母さんの集まりで、「今度内海君が覚悟を決め、結婚する決心をした」と言う報告をした。隣が、お父さん北風さんの、部屋ですぐにお父さんを呼んで、「私たちで、仲人させてもらわない」と言った。お父さんはめがねの奥の目を喜びにかえ、2つ返事で仲人をしてくれることに決まった。

「やさしいライオン」の修正作業と次の「日本誕生」をかけもちで忙しい日を送っていた。内海君は「あしたのジョー」班へ移り、スタジオが豊島園スタジオになったので、簡単に合うことが出来なくなった、仕上班は、第二スタジオにあり、「やさしいライオン」からほかには金山さんが移っていった。

やさしいライオンのとき使用していた第二スタジオ1階の制作室が、そのまま「日本誕生」の製作室として使用していた。

そんなある日「今度虫プロのプロデューサーとなった永井昌嗣さん」と言う方を役員から紹介された。東京ムービーで制作していた「ムーミン」を、3クール目から虫プロで制作することになり、そのプロデューサーを担当する永井昌嗣さんだと言う、制作事務として、可愛い女性が2人ついていた。
(こちらは制作事務もつけてもらえなかったのでうらやましかった)
「永井昌嗣さん」この人が虫プロに居たということを知っているのはごくわずかの人だと思う、岩崎正美さんがアシスタントプロデューサーとしてムーミンに配属され、その後プロデューサーに昇格している。
そのご永井さんはタツノコのプロデューサーとして知られている。

1階の制作室手前4分の1程度をムーミンの制作室に使わせて欲しいと言うことで、スタッフは、外注でやるらしく、ムーミー班の部屋は、そこだけとなった。
その後ムーミー班が忙しくなると、部屋を半分取られ、仕舞いには、逆転して、すみに追いやられることになるが、女性がいると言うことで、ムーミー班の制作室に居るほうが多くなったり、サイホンの珈琲をご馳走したり、ムーミンのぬいぐるみが、何体か配られて、スタッフで貰っていたのを見て「ほしい」と指をくわえて見ていた、「ムーミン」のことはあらためて語ろう。
2月6日から8日スキー大会があり弟を誘って参加した。池袋から貸し切りバスで志賀高原の丸池であった。あらかじめ狭山スキー場の初心者コースに通って練習しておいたが、自信過剰か、なれたころリフトで登って上級者コースに挑戦、こぶに捕まって、数十メートル飛ばさせ気がついたら目の前に自分の足首があった、捻挫という言葉さえ知らなかった。悪気は無いのだろうが、いい加減なことを言うものがいて、「すぐ温泉につかって暖めてもんだほうが良い」と言ってくれた。真に受けてその通りしたが、夜腫上って痛んだ、次の日からは、スキーは出来ずホテル住まい、みんなが楽しんで滑るのを横目で見ていた、と言うのは表向きで、実際には横浜から来たと言う、スキーの出来ない女子高校生と、ロビーにおいてあったピアノで演奏し、歌をうたったりして、結構楽しんでいた。
その罰が当たったのか、その後しばらくビッコを引いていたし、足首をかばうため膝を痛めて、長いこと苦しむ原因だったとは、まだ気がつかなかった。
2月13日には虫プロのボーリング大会が有った。阿佐ヶ谷駅から青梅街道へ突き当たったところに、阿佐ヶ谷ボーリング場が出来ていて、会員になると時間借りができた。その成果で6位入賞、賞品をもらえた。2月17日良いニュースが飛び込んできた。
「やさしいライオン」が毎日映画コンクールで第8回大藤信朗賞を受賞したと言うものであった。
3月31日何か事件が起きていると呼ばれた。2階のテレビのそばには車座になってスタッフが見ている。 午前7時40分日航機351便 よど号がハイジャックされた事件で、延々と飛行機の操縦席あたりが映し出されている。この日は仕事にならなかった。
4月1日 (水) 「あしたのジョー」が放送開始された。不謹慎であるが、苦しいスケジュールであるので、前日の事件が長引いて、放送が中止になることを、皆が願わなかった。と言えば嘘になる。何か事件が起きその実況中継で、番組が放送されなければ、1週延びて放送される。そうすればスケジュールに少し余裕が出来るのであった。
4月5日には虫プロによる制作の「ムーミン」の放送が始まった。
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虫プロ外伝8

2006年12月29日 11時42分12秒 | 虫プロ
「やさしいライオン」の完成予定日が迫ってくると、もう遊んでいる余裕は無くなった。
内海君と「やさしいライオン」班の動画で仕事をしていた、おなじ動画の山守君とも親友となった。山守君は、近くのお菓子屋さんに間借りしていたが、階段下のその部屋の狭さに驚いた。本人は、まかないつきだからと、寝られればいい、と意に反していなかった。

遊びにいけないものだから、ストレス解消にいろいろなことをした。 学生時代から、詩、というより歌の歌詞のようなものをノートに書きためていた。それのよさそうな詩を選んで、動画用紙に書き写し短冊様の「Junの詩集」を作った。やなせたかし先生の影響を受け、下手な挿絵まで描いていた。その詩集もどきを内海君と、山守君に見せ、「いいだろう」と自慢した。

 あくる日2人がニコニコして近づいてくる「これ」と差し出したのが、きれいな挿絵まで入っている詩集。読んでみると、とても良い詩だ。挿絵の絵も良い、心の中で、負けたとさけんだ、そして2人だけで作ったことに嫉妬した。こんな素敵な詩集、仲間に入れてもらって一緒に作りたかったと、淋しい気持ちになった。

その中の内海君が作った、鏡という詩が大変気に入り、早速ギターで作曲した。

作画や動画が一段落するのは、夜となることが多かった。するとそれぞれが、お菓子やジュースを持ち寄り、テーブルの周りに椅子を持って集まりおしゃべりをしたり歌をうたったりした。仕上や背景の人も集まってくる。

このころは手塚先生みたいに眠気覚ましに珈琲を飲むというのは、まだ一般的ではなく、お茶を飲むほうが多かった。
飲み物もジュース類、サイダーとかバヤリスオレンジやポッカレモンなどのジュース類、まだコーラーは、風邪をひいた時貰う呑み薬みたいな味だ、とコーラーーを飲めるものが珍しい頃であった。現に私も、コーラーが飲めるようになったのは10年後の昭和55年ごろであった。

お酒類を隠し持っている人も居た、興が嵩じてくると、ギターの演奏も始まる、作画の上口さんは、演歌がうまく「湯の町エレジー」や「酒は涙かため息か」など上手に演奏した。

山本洋子さんという仕上の人がいた、俳優さんとは同姓同名の別人である、一度仕事中、風邪で高熱を出したことがあった。彼女の家は浅草にあったが、車で送っていった。寒いと震えているので、真夏であったが、ヒーターを、最高に入れて、汗だくで送っていった。その彼女も私を「良い人」と宣伝してくれた。
その彼女は泣き上戸であることを皆が知っていた、わざと悲しげな曲を選び、彼女の近くで、演奏する「また泣かせるぅ」と言ってすぐに泣き始める。それを、肴にまた盛り上がる。そんなことでストレスを回想していた。

 11月完成予定日がますます迫ってきた。頑張ろうと、大セル用の動画用紙に劇例文を、背景さんから借りてきた、大筆で書いて、天井から吊るした。次の朝その用紙の下に動画用紙で書いたいたずら書きが、セロテープで吊るしてあった。人がいないときに書くらしくその下にまたいたずら書きが吊るされている、その数が増えていく、明らかに人の名前を遣って書いたものもある。結果的には、ストレス解消と、頑張ろうと言う気持ちが込められている。それが50枚吊り下げられると爽快である、そのまま増えるに任せた。

そしてなんとか「やさしいライオン」は予定日近くに形になった。

あけて正月衝撃が走った。TCJ忍風 カムイ外伝やサザエさんで背景をしていた吉村 豊さんというかたが、お寺の境内で自殺してしまったというニュースであった。
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虫プロ外伝7

2006年12月28日 12時31分08秒 | 虫プロ
「やさしいライオン」の完成予定日が迫ってくると、もう遊んでいる余裕は無くなった。
内海君と「やさしいライオン」班の動画で仕事をしていた、おなじ動画の山守君とも親友となった。山守君は、近くのお菓子屋さんに間借りしていたが、階段下のその部屋の狭さに驚いた。本人は、まかないつきだからと、寝られればいい、と意に反していなかった。

遊びにいけないものだから、ストレス解消にいろいろなことをした。 学生時代から、詩、というより歌の歌詞のようなものをノートに書きためていた。それのよさそうな詩を選んで、動画用紙に書き写し短冊様の「Junの詩集」を作った。やなせたかし先生の影響を受け、下手な挿絵まで描いていた。その詩集もどきを内海君と、山守君に見せ、「いいだろう」と自慢した。

 あくる日2人がニコニコして近づいてくる「これ」と差し出したのが、きれいな挿絵まで入っている詩集。読んでみると、とても良い詩だ。挿絵の絵も良い、心の中で、負けたとさけんだ、そして2人だけで作ったことに嫉妬した。こんな素敵な詩集、仲間に入れてもらって一緒に作りたかったと、淋しい気持ちになった。

その中の内海君が作った、鏡という詩が大変気に入り、早速ギターで作曲した。

作画や動画が一段落するのは、夜となることが多かった。するとそれぞれが、お菓子やジュースを持ち寄り、テーブルの周りに椅子を持って集まりおしゃべりをしたり歌をうたったりした。仕上や背景の人も集まってくる。

このころは手塚先生みたいに眠気覚ましに珈琲を飲むというのは、まだ一般的ではなく、お茶を飲むほうが多かった。
飲み物もジュース類、サイダーとかバヤリスオレンジやポッカレモンなどのジュース類、まだコーラーは、風邪をひいた時貰う呑み薬みたいな味だ、とコーラーーを飲めるものが珍しい頃であった。現に私も、コーラーが飲めるようになったのは10年後の昭和55年ごろであった。

お酒類を隠し持っている人も居た、興が嵩じてくると、ギターの演奏も始まる、作画の上口さんは、演歌がうまく「湯の町エレジー」や「酒は涙かため息か」など上手に演奏した。

山本洋子さんという仕上の人がいた、俳優さんとは同姓同名の別人である、一度仕事中、風邪で高熱を出したことがあった。彼女の家は浅草にあったが、車で送っていった。寒いと震えているので、真夏であったが、ヒーターを、最高に入れて、汗だくで送っていった。その彼女も私を「良い人」と宣伝してくれた。
その彼女は泣き上戸であることを皆が知っていた、わざと悲しげな曲を選び、彼女の近くで、演奏する「また泣かせるぅ」と言ってすぐに泣き始める。それを、肴にまた盛り上がる。そんなことでストレスを回想していた。

 11月完成予定日がますます迫ってきた。頑張ろうと、大セル用の動画用紙に劇例文を、背景さんから借りてきた、大筆で書いて、天井から吊るした。次の朝その用紙の下に動画用紙で書いたいたずら書きが、セロテープで吊るしてあった。人がいないときに書くらしくその下にまたいたずら書きが吊るされている、その数が増えていく、明らかに人の名前を遣って書いたものもある。結果的には、ストレス解消と、頑張ろうと言う気持ちが込められている。それが50枚吊り下げられると爽快である、そのまま増えるに任せた。

そしてなんとか「やさしいライオン」は予定日近くに形になった。

あけて正月衝撃が走った。TCJ忍風 カムイ外伝やサザエさんで背景をしていた吉村 豊さんというかたが、お寺の境内で自殺してしまったというニュースであった。
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虫プロ外伝6

2006年12月27日 00時40分54秒 | 虫プロ
この話を、内海君に話して聞かせた。すると「今度2人で山へハイキングに行こうよ」といわれた。独身最後を記念して低い山でいいから、奥武蔵の山を登ってみたい」そんなことを言った。
早速計画を立てるためにガイドブックと国土地理院の5万分の一の地図を買ってきた。
武甲山(標高約1,300m)そこから子持山(標高1,273m)尾根伝いに大持山(標高1,294m)ついでだから武川岳(標高1,052m)までいこうと欲張った計画を立てていた。

目的とする武甲山は、ガイドブックによると、「武甲山は、崇神天皇の御代、知知夫国の祖神であった、知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)の霊を、この部甲山に奉祀して以来今日まで、神奈備山(神様のこもる山)として山麓の人々に崇められて参りました。信仰の山としての山塊であるばかりではなく、自然科学から見ても、地質、動物、植物など、秩父の山塊のうち、他にその類を見ない貴重な存在です。北面及び頂上は石灰岩採掘によって変貌しています。」
と書かれていた。あの醜いお姿は、セメントの材料となる、石灰岩採掘によるものだったのかと、わかった。

電車はまだ吾野までしか通じておらず、秩父までの線路を作っているところであった。
途中まで車で行って、バスで武甲山の登り口まで行き、下りてくる場所に車を置いておこうと考えた。
学校の夏休みが終わった頃であった、正丸峠へ、いつもの仲間と遊びがてら下見に行った。正丸峠をすぎて名栗方面へ少し戻った、山伏峠付近に車2台が置けるようなスペースがあったので、当日はそこに車を置いておけると考えた。そこからなら正丸のバス停まで10分もかからないだろう。
そこから武川岳までみんなで登ってみた、膝ぐらいの笹に覆われた狭い道で、ヘビでも出そうな道であったが、くだって下ってくるには、楽そうな道であった。それに、茶店があるものうれしい、みんなでジュースを飲んで、大福とみたらし団子を食べたのしんだ。ここで、最後の腹ごしらえができるとも思った。
山守君も誘ってみたが、なかなか3人の時間がそろわなかった。毎回日曜日になると、忙しくなってしまい、とうとう9月中の4回あったチャンスは消えた。
10月内海ちゃんと、スケジュールが合った。このチャンスを逃すと今年中は無理。山守君は次回と言うことで、決行することに決めた。

その日は6時過ぎ起きて支度をし、西原の自宅アパートから車で東久留米の内海ちゃんのアパートへ行った。彼はまだ起きていなかった。彼女がいれば、起こしてくれたのだが、今日ハイキングに行くと言うことで、実家に帰ってしまっていた。
日曜の朝である、近所に気兼ねして、彼を起こさなければならなかった。
所沢街道から、産業道路へ、入間基地のそばを通り16号国道にぶつかる、右折して、ガードをくぐり、左へ入って入間川の豊水橋を渡る、交差点を左折すれは、飯能駅方面へ行けるが、今日は直進する。つぎの二股を左へ行き、やがて八高線のガードをくぐり、突き当りを右に行く、すぐに県道の川越日高線に出るので左折、この道は、高校のときに、毎年蕨高校から姉妹校、飯能高校まで、競歩大会で走った(歩いた)懐かしい道。そんなことを説明しながら、巾着田の近くを走り、国道299号線に出て正丸峠へと向かう。
吾野駅から先はまだ開通していない線路に沿って登っていく、時々大型の工事車両とすれ違うため、待避所が作られている。線路が高架になるあたりから、道も険しくなり、正丸の駅が出来る広場あたりから、七曲の峠道となる。峠の上に茶店と駐車場があるが,そこをすぎ、下りが始まり警笛ならせの標識がやたら並んで立っているヘアーピンカーブを大きく曲がりなどして、名栗方面の看板の先をもどる感じで左折する。
前もって見ておいた、広場に車を止めた。暖かいので、着替えに持ってきたリックの中身を車に少し置いていく。
10時になっていた。調べていたバスの時間はとっくにすぎていて、10時のバスの時間がわからないので急いでバス停に行く。
20分待たされバスに乗って、登山道の入り口まで行く。浦山登山口へついたときには11時過ぎになってしまった。朝から何も食べていないが、お金を持ってきているので山頂の売店で何か飲み食いしようと、すぐに武甲山へ登りだす。「お先に」とか「こんにちは」など挨拶しながら元気に走るようにして、何人も追い越して12時半山頂へ付く。朝から飲まず食わずで、さすがに腹がへり過ぎ、すぐに売店を探すがどこにも売店は無かった。地図によると稜線の向こう近くに煮えるのが小持山らしい、登山者に「子持山には茶店がありますか」と尋ねたら、「多分あるんじゃねえ」との答えが返ってきた。このまま下山するにはあまりにも敗北感がありすぎる、小持山まで、我慢すれば、何か食える。「多少高くても、腹いっぱい食ってやる」と1時すぎ、小持山まで行くことにする。
疲れが出たのか、すきっ腹のせいか、近くに見えた小持山へは2時すぎに着いた。そのうえそこにも売店は無かった。すでに稜線を経由してハイキングして行く時間ではないらしく、もう人影はまったく無かった。大持山にはお店があるかもという、かすかな期待を持って、そのまま大持山へ行く。大持山には3時過ぎ着いたがここにもお店は無く、あたりはすでに暗くなってきていた。
計画を立てたのは夏の頃で6時まで十分明るかったが、この自分は山の日没は早い、その事を忘れて居た。あっという間に太陽が山陰に沈むと暗闇がどんどん押し寄せてくる。内海ちゃんはタバコを吸うので、使い捨てライターを持っていた、その明かりでかろうじて道がわかる、かすかな明かりで道標を確かめながら歩いていく。
下の谷のほうに人家らしい明かりが見える、大声で叫んでみるが、何の変化も動きも無い、近くに見えても遠いのだ、明かりに誘われて沢を下りたら、崖から落ちるのが関の山、最低のハイキングの心得は知っているつもりが、食料を持たず、軽微な服装で来た事を、後悔する。だがもう手遅れ、この先は武川岳へ行かなくてはならない、分かれ道を注意して左へ行く、かろうじてライターの光で武川岳方面が確認できた。
しかしこのライターにも限度が着た、ガスが無くなり、つかなくなってしまった。石をこすってその火花で道を確認しながら歩いた。しかしそれもすぐになくなった。
なんにも見えない。二人はそこに仰向けに倒れこんだ。「遭難するってこういうことなのかな」「でもこんなところでカッコ悪いよな」笑ったが余計に腹がすいた。こんなときに限って何にも無い。服も登山用に着替えているので、ポケットの中になんにも入っていない。
「金ならあるのに」 「俺も」、何か買って食べればよいと、財布しか持ってきていなかった。「彼女たち、連れて繰ればよかったな」 「そうすれば、あの、おいしいお弁当を、いっぱい作って持ってきてくれたのに」 下見のとき、お弁当を作って持ってきてくれたのを思い出す。「何も見えないので動くと危険だから、ここで夜明けを待とう」 「それにしてもはらがへったな」倒れたまま上空を見ると、星がいっぱい光り輝いていた、「山で見る星ってきれいだね」 「やはり詩人だ」 「それにしても腹減った」 「のども渇いて死にそう」すでに腹が減ったとのどが渇いたとしかいえなかった。
「雨合羽持っていたよね、それでも着ようか」そういって起き上がった、すると不思議な光景を目にした。月が出たせいで、道が白くはっきり見えていた。「助かった」。「はらへったぞ」 「腹減ったぞ」などと行進曲調に歌いながら気を取り直して歩き始め、どうにか武川岳へ着いた。
とうぜん茶店は閉まっているし片付いて何も残っていない。周りを見回すと、バケツが置いてあった。多分雨水か、ぼーふらが、わいているかも知れない。うがいするだけなら、口の渇きが止まるかも。
とうとう誘惑に負け、口に含んだ、うがいするつもりが、一滴のどを通過した。もうとまらない、そのままとうとう飲んでしまった。何が入っているのか、雑巾がけした水の残りか、そんな想像をしても吐き気は起こらなかった。
内海ちゃんも、ほかのバケツを見つけていた、彼も飲んでしまった。「大丈夫かな」「わからない」「あとでおなか壊すかな」「車の中に薬箱が入っているから飲んでおこう」水を飲んだせいか、少し元気が取り戻せた。
この先は二股の道があるはず間違えると名栗へ行ってしまう。そこには車が無いので、もっと最悪になる。でもこの道は、前に下調べしてきている、名栗へ行かないよう注意して左の道をおり、くたくたになって山伏峠へでた、やっと車に戻った。車の時計を見ると何のことはないまだ7時であった。一晩中歩き、すっかり真夜中だと思っていた。
それほど疲れきっていた。
正丸峠からは、食堂を探しながら降っていったが、この頃のお店は6時をすぎるとしまっていた。お店が1軒も開いていない、とうとう入間まで来てしまった。米軍相手のスナックでも入ろうか、その度胸もない。そうこう言っている内に、所沢市まで来ていた、龍子さんを送ってくるとき、本陣ってレストランがあるからそこへいこうと、車を走らせた、しかし、9時では終わってしまっていた。やっと開いていたお店へ飛び込んだが、そこはママさん一人の飲み屋さん、内海ちゃんが飲めたので、ビールを注文して、お結びが出来ないか尋ねると、「あいにくご飯がなくなって、3つならできそう」との答え、早速作ってもらい、一つずつ食べ残りの一つを半分に分けて「小さいのを4つ作ればいいのにね」など言ってたべた。
お金を払ってビックリ、お結び3個が3,000円「これじゃ4つにしたら気の毒すぎるわけだ」と言う落ちまでついて、無事帰宅、薬を飲んだせいか、腹もこわさずにすんだ。
そのすぐあとの1969年(昭和44年)の私の誕生日10月14日に吾野駅から西武秩父駅間19.0kmが開業した。
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虫プロ外伝5

2006年12月26日 13時01分59秒 | 虫プロ
そんな時、制作事務の龍子さんと雅子さんから、秩父の三峰神社へ連れて行ってと誘われた。
日曜日池袋駅へ出て赤羽線で赤羽から高崎線で熊谷駅 秩父鉄道を使い三峰口駅へと行く。バスで大輪駅という三峰ロープウェイの乗り場から三峰山頂間までロープウェイに乗って「このロープウェイは三峰山頂間までの1.9kを結んでいます。「三峰山」と言う山は埼玉県にはなく、雲取山・白岩山・妙法が岳を総称して三峰山と言っています。」などというアナウンスを聞いているうち、ケーブルカーは山頂に到着、そこから15分ぐらいのんびり歩き三峯神社へお参りした。
このケーブルカーは2006年5月に「安全面の問題で1年間休止」となっています。

作ってきてくれた、お弁当を広場で食べ、「三峰山(みつみねさん)は、奥秩父山塊にある妙法ガ岳(1332m)、白岩山(1921m)、雲取山(2017m)の総称をいうんだよ。一般的には、三峯神社が在るその頂を三峰山というとしているが、例えば神社を呼ぶとき、浅間神社なら浅間さん、氷川神社なら氷川さん、と呼ぶよね。三峰神社も地元では、三峰さんと呼んでたんじゃないかな、それを漢字にすれば三峰山、そうなったんじゃないかなと思う」などと、また一夜漬けで調べたことを、講釈している。「今日は晴たけれど、ここは霧が多くて、野口雨情が「朝にゃ朝霧、夕にゃ狭霧、秩父三峰霧の中」と歌っ手いる、そういえば深夜劇場の映画で、森繁久弥さんの「雨情」と言う映画やっていたけど、野口雨情の歌詞っていいよね」など男の癖におしゃべりであった。
写真を撮ったりし景色を眺めていると、眼下に秩父湖が見えた。表参道なる道からそこに行く道の看板があった。帰りは歩いてダムを見て帰ろう、と言う話になった。歌を歌いながらくだって行く、映画を見たばかりだから、『七つの子』『赤い靴』『青い目の人形』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など、枚挙にいとまがない。森重久弥の物まねで『船頭小唄』など名で歌った。『あの町この町』を歌った頃に二瀬ダムに着いた、歌のとおりに日が暮れの予感はあった。
看板の説明によると「二瀬ダム」 堤の長さ290m、高さ95mのアーチ式ダム。荒川と大洞川と二つの川の合わさるところを堰き止めたダムの為、二瀬ダムと命名された。と書いてあった。昔女性の名前が着いていた頃の台風で大きな被害が出たのでとのもきいていた。「秩父往還」へ出た頃には、まったく人通りがなくなっていた。その上、バスがすでになくなっていたのであった。駅まではかなり遠いことが、なんとなくわかり、疲れもピークとなっていた。そんな時1台の軽トラックがやってきた。手を上げると、運転していた女性が車を止めてくれた。事情を話すと、気の毒がって、わざわざ駅まで送ってくれることになった。「捨てる神あれば拾う神あり」「地獄に仏」すっかり元気になり。荷台と運転席とで、おおきな声で、会話が始まった。お礼をいい、「虫プロのものですが、今度是非虫プロへ、遊びに来てください」といって、名詞を渡し分かれた。
この親切な人のことは、いつまでも忘れませんでした。
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虫プロ外伝4

2006年12月25日 11時31分23秒 | 虫プロ
正丸峠へも虫プロに入った当時から、仲間とよく行った。
正丸峠にはじめて行ったのは高校の時の遠足であった。貸し切りバスで芦ヶ久保まで行き、丸山へ登り刈場坂峠へ降り旧正丸峠から正丸峠へ降りて、待っていたバスで帰ってくるというコースであった。丸山へつきそのあとの最後の降りる道が急坂で、先生が、「絶対に走るな」と叫んでいるうち、女子生徒がその崖を止まれなくなり、ものすごい勢いで、駆け下りて、さいごにはころげ落ちていくのを目の当たりに見ていたのを覚えている。

高校を卒業して免許を取った。デーラーの車置き場に、野ざらしになっていた、古いスズキの125ccバイクを欲しいならあげる、と言われ家に持ち帰った。燃料を入れても、まったくエンジンがかからず、あきらめかけていたとき、家の前の修理屋の長男が、ポイントを磨いてみればと言ってくれ、カバーを取って、ポイントが開く位置を合わせ、紙やすりを乗ってきて磨く方法と、ポイントをあわせる方法を教えてくれた。
調整が終わり、カバーを、元のように取り付け、エンジンキーを回し、アクセルを、2,3回ひねっておいて、キックをすると、一発でエンジンがかかった。
運転技術が追いつかず、コンクリー製のゴミ箱に突っ込んで、粉々に吹っ飛ばしたりしたが、なんとか、操れるようになった。そうすると欲が出て、遠乗りがしたくなる。そこで初めて行ったのが、正丸峠であった。

この時は峠へ上った喜びより、下りにエンジンブレーキを使うことが出来ず、その上、燃料の節約とエンジンを切ってブレーキだけ使っておりた。いまなら、こんなことをしてはいけないことぐらい、常識として知っているのであろうが、まだ、情報の乏しい時代、何事も体験してから覚えた。当然ブレーキが焼けまったく制動がきかなくなる。これは恐かった。死ぬような目にあって、なんとか無事バイクを避難道路に突っ込みとめることが出来たが、それを見ていた人から、くだりはエンジンブレーキを使って、おりないと、ブレーキが焼きつき、きかなくなるということを教えてもらった。

虫プロに入ってからは、正丸峠には手軽に来ていた。当時何件かの茶店があり、駐車場もあった、休みの日などは仲間を誘って駐車場に車を置いて伊豆が岳(851m)へ行った。男どもは鎖場で岩場を一気に登り女性人は、女坂を和気あいあいで上ってくる。頂上の見晴らしは良くて、武川岳、大持山、二子山 そして武甲山が、間近に見えた。山頂の茶店で女性人が作ってくれたお弁当をおいしく食べた。

正丸峠へ何回も行くうちに、てまえ坂元から刈場坂峠へ出る林道があることに気がついた。右の、ぶな峠はまだ途中までしか車がいけなく。左、大野峠方面に行くと景色の良いところが、たくさんあることを見つけた。白石峠からも右へ行くと天文台堂平山の国立天文台堂平観測所には、駐車スペースがあった。
ワンダースリーの頃、真っ暗な闇の中で恐い話をしあったのは、ここ国立天文台堂平観測所の駐車であった。
天文台から堂平山に行き小川町へおりれたし、天文台を少し戻ると眼下に牧場が見て玉川のほうへおりることもできた。

西武池袋線はまだ吾野駅までしかなく、吾野の手前から顔振峠へも行けた。手軽にいけたのでこの顔振峠なども何度も行った。ここへ行くと連れて行かれたものは「源義経と武蔵坊弁慶が京落ちで奥州へ逃れる際、あまりの絶景に何度も振り返ったことが名前の由来、」など受け売りの講釈を聞かされるのが決まりであった。顔振峠はかあふりとうげと読むと言う、埼玉県奥武蔵にある峠で標高約500mのところにある地元周辺では、こおぶりやこうぶり、かあぶりなどと言われることも多いと言われているが、埼玉県人の私はやはり耳から、こうぶり峠と聞いていた。振り返るとき頭(こうべ)を振るのでこうべを振るからこうべふる、こうぶりそして頭を顔と言う文字に換え、顔振峠とした、と言う地元老人の説が好きであった。

そうした私は、奥武蔵の山のことが詳しいと、思われていた。
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虫プロ外伝3

2006年12月24日 11時45分14秒 | 虫プロ
もう少し足を伸ばすと、物見山から日和田山へ登った300mぐらいの山であったが、早春、そこから眺める“巾着田(きんちゃくだ)”が、すばらしかった。いちめん田んぼの中に蓮華の花が咲く風景が、渡来した高麗の人たちの思いを偲び言葉の響きと仏教の匂いが同化して、眺めていて飽きない景色であった。
巾着とは、昔の財布のことで、布でできた袋の入り口を、紐で縛った簡単なものであった。この巾着田を上から眺めた景色が、その巾着ににているので、巾着田と呼ばれたるようになったらしい。今ならヘアーピン・カーブ、ならぬ、ヘアーピンフィールド田とでも、呼んだかもしれない。
ここを学生のころからきんちゃくでんと呼んでいた。地元ではそうよんでいたからで、私も地名は本で覚えるのではなくて、見聞できんちゃくでんと覚えていた、また埼玉の人の多くはきんちゃくでんと言っていた。
わたしが始めてここへ来たのは、高校生の時。一人で近くの山へでも行きたい気分になり、あまりお金を持たずに、大宮で乗り換え、高麗川駅でおり、物見山から日和田山へと登った。
初めの予定では物見山まで行き、折り返して帰るつもりであったが、山登りに来ていたほかの人たちから、「日和田山から見る巾着田の眺めがすばらしいので行ってみな」と言われたからであった。そう、この時も確かにその人たちは、きんちゃくでんと呼んでいた。
そこで足を伸ばし行くことにしたが、道標にやたらと高麗方面と言う文字を目にしていた。「巾着田」からの眺めは、確かにすばらしかった。
下山のとき、来る道々に高麗方面という文字を、やたら目にしていたので、どうも近道があるらしいな、と思い登って来る人たちに、「大宮へ帰りたいのですが、駅に行く近道があるのですか」と、たずねた。山登りの経験が豊富で頼りがいが、ありそうな人たちであった。駅までの道をていねいに教えてくれた。その通り行くと、わかりやすくて、すぐに駅に行くことができた。
 しかしその駅は来たとの駅とどこか違う、どこを見ても見覚えが、ないのである、駅員さんにたずねて、そこは西武線の西武池袋線高麗駅であることがわかった。
私が物見山へ登るため降りたのは高麗川駅であった、「あなたが行きたかった駅は、国鉄大宮川越線の、高麗川駅であり、この高麗駅とは、かなり離れています」と勘違いする人が、多いらしく、駅員さんは、手際よく説明してくれた。
「高麗駅から高麗川駅へ行くには飯能駅まで行き、そこで八高線に乗り換えて高麗川駅まで行く必要があります」とも教えてくれた。
飯能駅に着くと、乗換えの八高線は列車の数が少なないので、かなりの時間、待たなければならなかった。やっとの思いで、高麗川駅へたどり着き、大宮までの切符を買おうとすると、持っている金額が足りなかった。
この駅は当時無人駅で、改札を乗り越えれば駅に出入りができた。
隙を見て切符を買わないで電車に乗った、川越駅を過ぎたところで、改札をするために車内に車掌が回ってきた。最前列まで逃げたが次の駅までは長かった。とっさに行きに降りたとき改札が無いので、切符を置かず、ポケットに入っていることを思い出した。
「川越まで来て用事を思い出したので、急いで引き返すところです」のようなことを言ったのだと思う。浦和までの新たな切符を買わなければならなかったが、それがなんと、持ち金とぴったりで、1円も足りも不足もしなかった。「神も仏もあった」とは、あまりにも、罰当たりなことを思いながら神様に感謝した。
どうも「薩摩の守」を決め込んだようで気分が晴れない日が続いた。
 薩摩の守とは平家物語にも登場する平薩摩守忠度(たいらのさつまのかみただのり)の事をいいます。1144年から1184年まで活躍した人と歴史や古典の時間に習いました。
 薩摩守と言うのは、天皇から頂く官名で、その当時の人は官名で呼んでいたのです。だから薩摩の守とは平忠度の事を指し、たいらのただのりから、ただのり。つまり無銭乗車のことを「さつまのかみ」と言ったのであります。
ちなみに、平家物語にとは、巻第七の「忠度の都落ちの」話ですよ。
気がとがめたままではいたたまれなくなって、大宮駅まで行って駅員に事情を話し謝りに行こうと、決心しました。「お金がたりなくなって、ずるいことをしたので、清算してください」と謝りに行ったのでした。
当時の大宮駅は、京浜東北線、や東北本線や高崎線、東武の東武野田線などのホームがあり、川越線のホームは、操作場があったので、長い連絡橋を渡った西の側にプラットホームがあった。 ホームがいくつもあったので、大宮駅には駅長の帽子をかぶった人が何人も居たように覚えている。
謝りに行ったのは、そのホーム川越線の駅長さんであった。
その人が「正直に来てくれてありがとう、」と言ってくれた「とてもうれしいので、その正直さに免じて、今回は、払わなくていいよ」とも、そして怒られるどころか、褒めてくれたのであった。
なにを言われるかと、どきどきした日をすごし、心に刺さったとげの痛さに耐え切れなくて、謝りに行こうと決心した。怒られ下手をすれば罰金を取られるかもしれない、正直に言えば、罰金は、勘弁してもらえるかもしれないと思い、恐々謝りに行った。それが、まさか喜ばれて、褒めてもらえるなんて、夢にも思いもよらなかったのであった。
だから今でも、その時のことをはっきり覚えている。
わたしにとってとても美しい思い出である。

正丸峠へも虫プロに入った当時から仲間とよく行った。

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虫プロ外伝2

2006年12月23日 12時32分19秒 | 虫プロ
この頃は彼女と会うのが楽しくて、映画や、ドライブばかりしていた。良く、今までどおりに仕事が出来たのか、不思議であるが、なせばなる、であった。海にも行き、ボーリングのやり、楽しい日々が続いた。なぜもっと早く青春を楽しまなかったのだろう、もっと早く気が付けばよかった。など、うそぶいていた。

デート先は、近くは石神井公園、奥の三宝寺池など早朝の静けさは、中国の墨画の世界にいるようで心が洗われた。

少し足を伸ばすと狭山湖である、狭山湖は学生時代に何度も行っていた。初めは所沢から行く道しか知らなかった。事務の龍子の家が元町を左折した新所沢のほうにあったのでいろんな道を覚えていった。所沢街道から西所沢駅の踏切を渡っていったが今の西部狭山線のガードをくぐったあたりから、道はまだ舗装されていなかった。もうもうと砂煙を上げて車を走らせた。六斎堂を左折して登って行くと狭山湖の駐車場に出た、茶店があっておみやげ物などを売っていた、そこの駐車場に車を止めて、堤防を北に向かって歩いていく。
「この狭山湖、本当は山口貯水池というのだよ、ここ所沢市、入間市などにまたがる狭山丘陵の谷間に、昭和3年3月、長さ約700m、高さが約36mもある土堰堤の工事を始めたのだよ。水は多摩川の小作取水堰というところから地下導水管により多摩川の水を導き工事をして、昭和7年10月に通水式を行っている、そして昭和9年4月に完成したのです。」など知ったかぶりして、学校の遠足のときに聞いた薀蓄を疲労する。
突き当りには公園もあったが、左の狭山湖の遥か向こうに、晴れた日に見える富士山がとてもきれいだった。右の石積みの土手堤を降りると芝の広場がありグループがフォークダンスや、バレーをしていた。輪になって歌を歌っているグループもあり、一緒に歌おうと誘われる。土手堤端の芝生で、持ってきていたゴザで、滑り降りる遊びをしている子供たちも見かけた。もちろん板切れを拾ってきて、スキーのように滑り降りた。

狭山湖の外周を車で行くと、滑りやすくて、かなり危険であった、落ちそうになるし、ぬかるみにはまると抜け出すのか大変だ。それでもなんとか、六道山の展望台まで出ると、あとは楽な道となった。
この六道山の展望も好きで、東京の景色がそこから見えた。夜景がきれいだった。当時そう思っていたが、今考えるとどうもその方角は、横田基地方面だったようである。そこか山口観音のほうへ戻るのであるが、途中料亭があった、いつかはこんな店に入れる身分になりたいなど思ったが。そんな機会は無かった。
東村山から多摩湖の外周道路でユネスコ村方面へ行く道も覚えた。西武多摩湖線のガードをくぐった突き当りが西武遊園地で夜といえば西武園遊園地などであった。
右折して、競輪場のある駐車場から、西武園の塀の近くに車を止め車の屋根に乗って、塀を乗り越えて、入っていた。閉園時間まで間が無い時間帯なので,言えばただで入れてくれたが、ことわるのが面倒であった。
中央の池にウォーターバレーがあった。噴水のバルブを機会が自動的に開け閉めしたりしてまるで、噴水が踊っているように見えた。そこに七色の照明があたり、その色も変化する。幻想の世界であった。
 エルビス・プレスリーの映画の影響を受け、実写でこの噴水をバックにミュージカル映画が作れれば、などという妄想を描いたりしていた。

 また近くにはユネスコ村がありいろいろな国の建物を見ることができた。昼間なら蒸気機関車で狭山湖そばの駅まで、行き来できた。
そのおもちゃのような鉄道途中のすれ違い駅の付近に、バイクでヒルクライミングするに、ちょうど良い崖が存在していた。虫プロでは、ホンダのN360を使用していたので、その車でバイクと同じような崖を走ったりもした。そんな時彼女たちは、崖の上でその危険な走りを見ていた。
ベトナムへ行くわかい兵士が、バイクで来て、ずいぶん無茶なことをしていた。
とうとう一人の男がクラッシュして数十メートル吹っ飛んだ、仲間が駆けつけたが、意識が無い。軽とはいえ四輪は私だけ、助手席に彼を押し込んだが、ずい分でかくて彼らは押し込むのに苦労していた、近くの診療所へ連れて行き、治療のあいた彼らと会話した。
あしたベトナムへ行く、兵士たちであることをそこではじめて知った。「絶対帰ってきてください、」と、名も知らぬ兵士たちに言っては見たが、幸せボケした自分たちとかさね合わせると、言いようの無いものが胸にこみ上げた。
数年前から反戦歌が流行り、「花はどこへ行った」の花シリーズや、PPMなどが歌われていた。

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虫プロ外伝

2006年12月22日 11時26分29秒 | 虫プロ
おことわり
文章を書くのが下手なので、もう少し文を書くということを、勉強したいと、欲した。そこで、昔のことを書いてみようと思ったが、昔のことで、思い出して書くのは不可能であることに気が付く、するともう、文章がかけなくなる、そこで一計を案じ、すべてフィクションで書くことで、筆を進めようと欲した。
 であるから以下の文はすべてフィクションである。
登場する人物、その名前、場所、等、実際の名称と出来事とは、関係ないことを、記しておく。

内海武雄君 彼と初めて話したのは、彼がジャングル大帝の作画をしていたころ、2スタの駐車場、休憩時間いつものように遊んでいると、珍しいバイクにまたがっている男が居た。顔は、強面でどちらかというと、取っ付き難いタイプであるが、向こうから話しかけてきた。「陸王というバイクだ」など、話してみると、案外やさしい。そのことが、きっかけとなり、話すようになった。虫プロでの殺人的な「千夜一夜ものがたりが」が終わり、少しの時間のゆとりが出来ていた。
 忙しかった、そのしわ寄せか、虫プロには結婚ブームが起こっていた。進行仲間でも、幼馴染と結婚した神田武幸君以外は本橋 誠にしろ、牧元 悟にしろ、網田靖夫や、渋江靖夫と皆、結婚していた。まだなのは、安達 登君や片山秀男君伊藤幸松君近井 勉君ぐらいで、うかうかしてると先を越されそうな雰囲気であった。遅すぎた青春を取り戻そうと、できるだけ女性に声をかけるようにしていた。幸せなことに虫プロは昔から美人が多いことで、有名であった。

電話交換室に居た、龍子さん、(匿名)彼女は一度聞いた電話番号を覚えてしまうという、ものすごい特技を持っていた。龍子さんにとって、まさに天が与えた仕事といってよかったのだか、龍子さんもアニメ制作という魔物に取り付かれ、制作事務に移動してきた。
遅くなった時など、所沢の実家まで、送ってあげていたりしていた。そのことで、私に対して、龍子さんが「あの人、とてもいい人」という、良い評判を立ててくれた。そのおかげか意中の人K子(匿名)さんにめぐり合い、親しくお付き合いできるようになっていた。

 7月7日の七夕には、第二スタジオの一階の部屋でゴーゴパーティーを、開こうという話が出て、虫プロエレキーバンドの演奏会で開かれる事になった。飾りつけは、新田 雅利らが、ミラーボールだの3色のスポットライトなど借りてきた、飾り付けを、女性スタッフが色紙などで作り、内海 武雄たちも積極的に手伝ってくれた。東映動画や、タツコプロなど、近隣のプロダクションにもパーティー券を売ることが出来た。その日、リードギターの牛越 和夫はのりに乗っていた、初めの約束では、ギターアンプのボルームは4までと決めておいたが、いつの間にかフルボリュームになっている、これは、練習のときから、で、興に乗ってくるとボリュームを上げてしまうのが、彼の癖であった。だからリードボーカルの木口 準のボリュームを上げる、それでもギターに負けるものだから、声をからして絶唱する。1時間もすると疲れてくる、それに、飲み物もの飲みたい、曲はクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイバルの「スージーQ」ギターの牛越が木口に目で合図する、間奏の部分でメンバーの紹介、最後にドラムの内田 有紀彦が紹介され、ドラムのアドリブソロとなる、そこでメンバーが舞台から降りて、ジュースを飲んだり、駐車上へ出て休憩する、その間ドラムの内ちゃんは、ドラムソロだけで、みんなを躍らせている。30分そのまま、今ならいじめと言われてしまう。新田Aさんが駐車場で休憩しているメンバーのところへ来て「もう限界みたいよ、泣いているから、戻ってあげろよ」と言ってくる。舞台へ戻って、リードギターから曲に戻って歌に入り、演奏が終わる。なんと延々50分の演奏、その間みんなは、日ごろの鬱憤を晴らすかのように、踊りに踊っていた。みどりさんが、静かなカーペンターの曲を歌い、ゲストでこの日のために練習したフルートの吉村 昌輝君がHerbie Mann(ハービー・マン)のメンフィス・アンダーグラウンドや「ジェスロタル」のブーレをレコードどおり声を出しながら演奏した。
仕事中の手塚先生が「我慢の限度を超え」そのお使いに先生のお母さんが来て、やわらかくストップをかけてくれた、夜遅くまで行われた。
 K子と彼女のお友達を送ることになった。笠井 志都子といった、昨年6月の募集で仕上に入ってきたらしい。家は新座の片山、だという「ついでだから、内海君も一緒に送ってくよ」といい、東久留米の内海のアパートへ行った。
内海のアパートで会話をした、女性二人が、茶箪笥から湯飲みや急須を出してお茶を入れてくれた。「こんな女性って良いよね」など言っているうちに、11時近くとなり、K子の門限時間が迫ったので、お開きにすることにした。
先に靴をはいてドアのところで、笠井君が出てくるのを待った。「あれ?笠井君は」という私にK子がひじで、小突いて、「ばかね」といった。
 すでに彼らは、同棲生活していたのであった。K子を送りながら、「知ってた」とたずねると「どうも、おかしいと思った」とK子は答えた。
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あしたのジョー 初めのワンクール

2006年12月21日 13時41分59秒 | 虫プロあしたのジョー
あしたのジョー 放送開始


昭和45年4月1日 「あしたのジョー」が放映された。

はじめの1クールは、誰が見てもスタッフ不足であった。
まずそのことを証明しよう。以下が、脚本、演出、作画監督,原動画,担当した進行である。
4月 1日 第1話 「あれが野獣の眼だ!」
脚本 雪室俊一 演出 出崎 統 作画監督 杉野昭夫
原動画 森田浩光 小川隆雄 若林常夫 鈴木正俊 内海武雄 上梨壹也 新田敏夫 菊田武勝
進行 伊藤幸松

4月 8日 第2話 「四角いジャングルに生きろ」
脚本 山崎忠昭 演出 西牧秀雄 作画監督 金山明博
原動画 正延宏三 白畠豊彦 大坂竹志 渡辺幸雄 この人たちはスタジオTAKEである。
進行 片山秀男

4月15日 第3話 「けものよ牙をむけ!」
脚本 山崎忠昭 演出 奥田誠治 作画監督 杉野昭夫
原動画 森田浩光 小川隆雄 若林常夫 鈴木正俊 内海武雄 上梨壹也 新田敏夫 菊田武勝 進行 伊藤幸松

 この第3話は作画監督以下原動画そして進行もおなじ。普通進行は4週で1本受け持つのが普通である、これでは、月2本持つことになり、大変だったと思う。

4月22日 第4話 「熱きこぶしに涙をながせ!」
脚本 雪室俊一 演出 斎藤 博   作画監督 荒木伸吾
原動画 林 政行 川端 宏 神宮 慧 安部正己 この人たちはジャガードである。
進行 片山秀男
荒木さんはじめジャガードでの作業と思われる。

4月29日 第5話 「あしたのために!-その1-」
脚本 雪室俊一 演出 波多正美  作画監督 金山明博
原動画 中村一夫 森 安夫 鈴木正俊 三輪孝輝
進行 片山秀男 続けて2話担当していたことになる。

5月 6日 第6話 「燃えろ!左ジャブ!」
脚本 山崎忠昭 演出 斎藤 博   作画監督 荒木伸吾
原動画 林 政行 川端 宏 神宮 慧 安部正己  この人たちはジャガードである。
進行 池田陽一

5月13日
第7話 「狼を裁くな!」
脚本 雪室俊一 演出 西牧秀雄   作画監督 杉野昭夫
原動画 正延宏三 白畠豊彦 大坂竹志 渡辺幸雄 (スタジオTAKE)
進行 伊藤幸松

5月20日 第8話 「東光特等少年院」
脚本 山崎忠昭 演出 石黒 昇    作画監督 金山明博
原動画 藤原万秀 中村一夫 森 安夫
進行 池田陽一

作画に三重野さんの名前がある、しかし氏名だけで、明らかにお名前を書き損じたのだと思う、お名前を調べてみたが、今の所、判明しない。誰かわかったら、教えて欲しい。

5月27日
第9話 「奴の名は力石徹!」
脚本 雪室俊一 演出 瀬山義文   作画監督 荒木伸吾
原動画 林 政行 川端 宏 神宮 慧 安部正己    (ジャガード)
進行 片山秀男

6月3日 第10話 「赤い夕陽に吠えろ! 」
脚本 山崎忠昭 演出 吉川惣司   作画監督 金山明博
原動画 藤原万秀 中村一夫 森 安夫 鈴木正俊
進行 片山秀男

6月10日 第11話 「地獄の底で燃えろ!」
脚本 雪室俊一 演出 西牧秀雄   作画監督 杉野昭夫
原動画 正延宏三 菊田武勝 大坂竹志 渡辺幸雄(スタジオTAKE)
進行 伊藤幸松

6月17日 第12話 「燃える太陽に叫べ 」
脚本 雪室俊一 演出 出崎 哲 作画監督 金山明博
原動画 藤原万秀 中村一夫  鈴木正俊 玉沢 武
進行 池田陽一

演出の出崎 哲(さとし)さんは、言わずと知れた出崎 統(おさむ)さんの兄貴である。
ちばあきおさんの漫画をアニメにしている総監督である株式会社マジックバス代表取締役でもある。

6月24日 第13話 「宿命のリングに立て」
脚本 雪室俊一 演出 斎藤 博 作画監督 荒木伸吾
林 政行 川端 宏 神宮 慧 安部正己 杉本祐作
進行 片山秀男

これで1クールが終わった。
とうとうスケジュールが無くなったという、そこで出崎さんたちは、今まで以上に、出来るだけ思いでシーンを取り入れ、今まで使用したカットも有効に使用できるよう脚本家や演出家に指示をした。

そのような目であらためて14話を見る。
7月1日 第14話 「KOゴングはまだか! 」
脚本 山崎忠昭  波多正美  作画監督  杉野昭夫  
原動画 出崎 統
進行 伊藤幸松
以上敬称略
エンディングのフィルムが無く詳しいスタッフは、不明との事であるが、この話では、意識して、回想シーンなど多用している。兼用カットを手前にローブを入れたり、背景を変化させたりして、見劣りしないようにしている、今まで使われたカットもやはり多用している、それが気にならないほど、ストーリーで見せている。

虫プロではあらためてスタッフ替えがあったため、パイロットの関係で「あしたのジョー」班にいた、作画の小川隆雄さん、 上梨壹也さん 新田敏夫さんなどが「クレオパトラ」班へ戻った。

これを見ていただければお分かりになって頂けるのではないでしょうか、とても制作が大変であったことがわかります。これでは現場を動かしている、網田靖夫製作担当の手足となる人手があまりにも少ない。彼は3人の進行さんと、死ぬ思いをしたのに違いない。 

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岸田今日子さん青島幸男さんが死去

2006年12月20日 18時36分13秒 | Weblog
岸田今日子さんが死去
「ムーミン」の、ムーミンの声「千夜一夜物語」のミリアムとジャリスの声の岸田今日子さんが17日午後3時33分、脳腫瘍(しゅよう)による呼吸不全のためお亡くなりになりました。76歳でした。
心からお悔やみ申し上げます。

青島幸男さんが死去
「千夜一夜物語」で主役アルディの声のン青島幸男氏が20日午前9時30分、骨髄異形成症候群でお亡くなりになりました。74歳でした。
心からお悔やみ申し上げます。
「千夜一夜物語」でのお二人のお姿を思い浮かべ、悲しみにくれております。
 お二人のご冥福をお祈りいたします。
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あしたのジョー

2006年12月20日 00時41分55秒 | 虫プロあしたのジョー
まずは「青山編」と称しこの年10月25日、パイロットフィルム「青山編」が原画イン、11月6日に動画アップというスケジュールで作られている。キャストは、矢吹丈 富山敬さん、レフリー 立壁 和也さんナレーション 名古屋 章さんなどであった。

まえに紹介した、昭和44年11月8日の虫プロ社内報「企画室ニュース」完成予定11月14日と書いてあるのがこれである。

パイロットフィルム「力石編」

昭和44年12月ジャガードへ杉野 昭夫さん金山明博さんがジャガードへ出向して
ジャガードの荒木伸吾さんなどとパイロットフィルム「力石編」の制作を開始していた、こちらは12月22日に動画アップしている。
主なスタッフ

制作 富岡 厚司さん シナリオ 丸山 正雄さん 演出 出崎 統さん 絵コンテ 斉藤 博さん 原画 杉野 昭夫さん金山 明博さん荒木 伸吾さん 動画 菊田 武勝 さんなど アシスタントプロデューサー網田 靖夫さん 美術監督 明石 貞一さん 美術 渡辺 毅さん タイトル文字 特殊効果 橋爪 朋二さん 撮影監督 熊谷 幌史さん 編集 松浦 典良さん 制作協力、ジャガード であった。

声優陣は、矢吹丈にあおい輝彦さん丹下段平は藤岡 重慶さんサチに白石 冬美さん平田 が渡部 猛さん鬼姫会 立壁 和也さんなどで、ナレーションは名古屋 章さんであったという。
そしてこの力石編はTVシリーズのスタート直前に番組宣伝スポットとして利用され、深夜枠で盛んに放送されていました。
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あしたのジョー

2006年12月19日 16時40分52秒 | 虫プロあしたのジョー
「あしたのジョー」 は、高森朝雄(梶原一騎)の原作で、ちばてつやが漫画を描き、講談社の週刊少年マガジンに、昭和42年12月15日発売の昭和43年1月1日号から昭和48年5月13日号にかけて連載された、ボクシング漫画であった。
虫プロダクションでテレビアニメ化され
昭和45年4月1日から昭和46年9月29日までの間、毎週水曜の午後7時から30分間79話が、フジテレビ系で放映された。
 テレビ化は、フジテレビの指導で行われた。
昭和41年から昭和46年まで、おなじ『週刊少年マガジン』に連載され「あしたのジョー」と、人気を二分した梶原一騎原作、川崎のぼる漫画の「巨人の星」がアニメ化され昭和43年3月30日から、昭和46年9月18日まで全182話が東京ムービー制作により、よみうりテレビ系で放送され、高視聴率を、取り続けていた。

テレビアニメの先駆け、老舗のフジテレビとしては、指をくわえてみているわけに行かず、フジテレビ局プロデューサーの別所 孝治さんは、人気を二分していた、「あしたのジョー」
を、虫プロで企画するよう、指導した。昭和44年秋、富岡厚司プロデューサーのもと、大忙しで、絵コンテ、出崎 統さん、当時雑誌の漫画で、売れっ子になっていて忙しかった北野 英明さんを苦しい時の北野頼みで、作画監督に、原画を川尻 善昭さんや上梨 壹也さんなど中心にして、スタジオも、新たに豊島園近くの、電気やさんのビル2階全フロアーを借りて豊島園スタジオとして、あしたのジョー班として、辞令を受けたスタッフによって、「あしたのジョー」のパイロットが作られていた。
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日本誕生

2006年12月18日 09時23分25秒 | 虫プロ
それからずいぶんと日にちが経過した。山本暎一さんは、主人公を、千年の寿命を持つといわれているカッパ、河童の家族を主人公にすることに決めた。その河童の目で千年という単位の、歴史を語らせることができ、その家族が稲作の歴史をたどることで、稲作の夜明けを表現しようとした。タイトルは「日本誕生」となり、放送は3話の話とすることになった。
キャラクターは、手塚先生の親友、馬場のぼる先生にお願いした。以下確認できているスタッフである。
演出 脚本 山本 暎一
構成 野崎 欣宏
担当制作 下崎 闊
音楽 富田 勲
作画監督 瀬山 義文
声の出演 鈴木 瑞穂
山本暎一さんが出した本には、この時暎一さんは会社を興して、「有限会社理想社プロダクション」を作ったと書いてある。場所も秋津で2階建ての家を借りた。社長には友人がなり、瀬山義文さんも社員となったとも。
 しかし、この理想社のことは、知られていない、「日本誕生」のことを書こうと調べたのだが、わからない。友人たちに、聞いても、誰も理想社のことは覚えていないというのだ。

 当時山本暎一さんを送っていったのは、新目白通りで下落合方向中落合陸橋をくぐった、すぐ右側のマンションであった、そこで仕事もしていた。

 作画はそれこそ、社内外注を使った。何せ、あしたのジョーも、クレオパトラも、書くべきものが、出来ていないので、比較的、定時には帰宅できていた。他社の外注も使って書いてもらっていた。
本来ならすべて外注だから、一人で進行をやるのは無理な話である。
「「やさしいライオン」で出来たのだから、」「君でなければ頼めないのだから、」など、すっかり人の性格を知り尽くしている、プロデューサーの口車に乗せられて、寝る間を惜しみ、デートを重ねながら、せっせと働いていた。
仕上は、民話社なる会社が積極的に売り込みに来て、そこへも出していたが、今までは比較的田舎(失礼郊外)の西にある外注さんに出していたが、民話社は青山通りのど真ん中にあった。まぁ走行距離の伸びること、それまで、持っていた軽自動車のキャロルを、疲れるので、ブルーバードに買え変えたほどであった 。

また、背景に(美術)富田美穂さんという方が居たと思う。山本暎一さんが、その絵を気に入り、千夜一夜の頃連れてきたらしい。
 2スタの2階で、その女性が近づいてきて「わたしを、覚えていませんか」ときた。いくら異性を気にし始めた頃とはいえ、手当たり次第に、声をかけているわけもないし、人に言えない悪い事をしてもいない。胸に手を当てても、思い当たる事もない。けげんな顔をしていると「富田美穂です」といった。頭の中のファイルを全速力で、検索する、どこかで聴いたことのある名前、過去にさかのぼる、ず~と、むかし、近所で、お父さんが、NHKで司会をしていた富田さんのお嬢さん、同級生だ、クラスは違っていたが2クラスしかない時代、みんな顔見知りであった。その美穂さんと、卒業以来まったく会っていないのに、虫プロで再開した。それは驚き出会であったが、騒動の幕開けでも会った。
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