真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

虫プロ外伝17

2007年01月07日 10時57分58秒 | 虫プロ
K子さんの傷跡は思いのほか深く、2人で合うことはなくなっていた、仕上の仲間たちと遊びに行くことが多くなり、送っていくことすらことわられていた。

そんな遊びに行く彼女らの後姿をしょんぼり見ている私に、笠井君が二三子さんを誘って食事にでも行けば、と二三子さんを紹介してくれた。そこから間違いが始まってしまった。多分天が与えた罰であったのであろう。気がつくと彼女はアパートに住み着いていた。自宅に帰るように言って仕事に出かけるのだが、帰宅すると居る。困り果ててアパートへは帰らなくなった、実家へ帰るか、会社へ泊り込んでいだ。

9月13日の土曜日笠井君に二三子さんから電話が入った、「私、睡眠薬を飲んじゃった」という内容であった、すぐに笠井君が私のアパートへ駆けつけ救急車を呼んで田無病院へ入院させた。連絡を受けた私も病院へ駆けつける、警察から事情を聞かれる。
少しでも休養をとるためすぐに寝られるように、病院の診断を受け、精神安定剤を貰っていた。何週間分を一度に貰っておいたので、7~80錠合った。最近はすぐ寝れるので飲んでいなかった。それを全部飲んでしまっていた。

 二三子さんのご両親と話し合った。気持ちの無いことを説明したが1年間でいいから同棲してみてくれないかと頭を下げられた。アパートへ帰らない日が続いた。

笠井君は合うたび「ごめんね」とあやまった。「気にするなよ」と答えた。K子とは、完全に終わってしまった。
1年罰を受けていた。ご両親とお話して、別れることになった。

笠井君は虫プロの仕事を続けていた、何かあると手紙をくれていたが、文面しか読んでおらず、中身を理解することができなかった。
また酔ったときに「別れても、合おうと思えば会うことができるけど、たけおとはもう会うことができないのだから」といわれたとき、胸を締め付けられた。

ベットから落ちて入院した、ということを聞き会いに行ったが、本人は「寝相が悪くて」と、ばつ悪そうに言っていた、あとで「あれじさつよ」という噂が耳に入ってきた、だまされていた。

海外旅行などにも行っていたらしく、メールを貰った。
笠井君からは、励ましの手紙ばかり貰っていた。

「ふしぎなメルモ」で手塚プロに移ってしまってからは、今までみたいに親身に面倒を見ることが出来なくなっていた。それでも虫プロ2階の笠井君のいる仕事場には顔を出すようにしていたが、K子も二三子さんもいて、居心地は前のようにはいかなかった。

独立すると忙しさに負け手紙をもらうだけになっていた。笠井君は虫プロが倒産しても、組合で頑張っていた。

アニメの世界から引退した。

友人から連絡が来た「笠井静子さんが亡くなった」と
葬儀に行った片山のよく知っている場所であったが、行ったのは初めてで、彼女の実家へ送って行った事が無いことを知った。

立ち木の陰にK子さんが立っていた、お互い気がついて軽く会釈した。
 それだけで、会話は無かった。

 ご両親にお会いした「おうわさは、かねがね聞いておりました、大変お世話になっていたそうで」
 自分に腹が立って、情けなかった。何がお世話だ、中途半端な世話焼きなら、逆に迷惑だっただろうに

2階の静子の部屋に通された。スリッパを出された、「チー子から掃除をしないよう言われていたので、ほこりだらけなので」と、事実ほこりの中に、内海君が使っていた、動画机が置かれていた。
本当にほこりまみれ、この部屋に持ってきてから、掃除をしていないことがわかった。彼が亡くなってから、時間が止まっているはやであった。

 その隣に、着物掛けに掛けて広げてある、花嫁衣裳が飾ってあった。

ご両親が飾ったのであろう、着る事の無くなってしまった花嫁衣裳。

 ご両親の無念が胸に突き刺さった。
  「親より先に、行ってしまうなんて」
 内海君の時にも聞かされた言葉

病名も聞かされたがそんなものはどうでもいい、笠井静子は内海武夫のあとを追いかけたのだ。
やっと迎えに来てもらって、笑顔で一緒に旅立ったのだ。

 部屋の隅でうずくまって涙を抑えようとしたが、あふれでる涙を止めることができず、いつまでも嗚咽を漏らしていた。

 その部屋の時間は、確かに止まっていた。

            おわり
コメント
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