真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

創世記について

2006年10月31日 21時22分29秒 | 虫プロ
 展覧会の絵は 新宿ミラノ座 渋谷パンティオン 松竹セントラルの各映画館で、映画「天地創造」とともに封切りされた。
天地創造(The Bible  In The Beginning)は、1966年のアメリカとイタリアの合作映画でありました。
その内容は簡単に言うと?
神の6日間にわたる創造のいとなみは、最初の人間アダム(マイケル・パークス)とイヴ(ウラ・ベルグリッド)の誕生 エデンの園で暮らすうち、禁断の木の実を食べたイヴは、アダムにもそれを食べさせた。神の怒りにふれた2人は楽園を追われ、アダムは労働に従事しなければならなくなった。やがてカインとアベル、2人の息子が生まれ、カインは農場にアベルは羊飼いとなった。ある日2人の神への供え物のうち、神はカインの供物を認めなかった。怒りと嫉妬から、カインはアベルを殺してしまい、神の裁きを受けて放浪者となった。イヴに三男セトが生まれ、この子孫がノアである。彼は信仰あつく神が洪水で人類社会を滅ぼした時も、彼だけは救われた。はこ舟に、あらゆる生物と一緒に乗り、1年ののち、アララット山についた。やがて、ノアの子孫クシの息子ニムロデは王となり、民を使役して、天にもとどくバベルの塔を築いた。神はこれを喜ばず、彼らにさまざまな言葉をしゃべらせて、地球上の各地へ四散させた。アブラム(ジョージ・C・スコット)は妻サライ(エヴァ・ガードナー)、弟ロトを連れてカナンの地へ行き、そこで栄えたが、サライには子が生まれない。アブラムは妻の勧めで召使ハガルに子を生ませイシマエルと名づけた。やがて隣国との戦いが起こり、アブラムは神の手引きにより敵を破り捕虜となったロトを救けた。神は夫妻の名を、アブラハム、サラと改め、子孫は王になると予言しサラに子を授けると約束した。ソドムとゴモラの都が滅びた時、ロトの妻は神の命令にそむき、塩の桂と化した。約束通りサラに息子が生まれ、イサクと名づけた。彼が成長するとサラは、ハガルとイシマエルを追い出した。アブラハムは神の命に従いイサクをつれ旅立ち、神にいけにえを供える場所にたどり着いた。
その時イサクは、いけにえは自分であると気づいた。アブラハムはナイフでイサクを殺そうとすると、神が自分の子を犠牲にしてはならぬと告げた。そこでアブラハムは、近くにいた子羊をイサクの代わりにいけにえにするのだった。

なぜここまで書いたかと言うと「千夜一夜」でバベルの塔が出てきます。またのちに1997年「聖書物語」を作っております。
 まったくの影響を受けてないとは、いえないと思ったからです。
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メルモの武藤 礼子さんが逝く

2006年10月31日 09時12分47秒 | アニメーション
 武藤 礼子(むとう・れいこ)さんが29日、心不全でお亡くなりになっていた71歳だったという。お通夜は31日午後6時、告別式は11月1日午前11時から東京都世田谷区砧7の12の22の耕雲寺で、喪主は夫の明さん。アニメ「ふしぎなメルモ」のメルモの声など、主に声優として活躍していました。

武藤 礼子さんは佐武と市捕物控の みどりの役で知り合い「ふしぎなメルモ」でメルモの声をしていただきました。
メルモでは、すぐにスケジュールがなくなり、トレスの上がった状態でのアフレコ、そして絵コンテの絵を撮影したフィルムでのアフレコ、しまいには、まったくの映像がなく、白みのフィルムにしるしをつけての状態で、アフレコをしていただくことが多くなりました。テレビを見た人は、あれは何にもない状態でアフレコした作品だったとは、信じてもらえないと思います。そんな貴重な作品も今は、リニューアルされてしまい、見る機会がなくなってしまい寂しいです。
 最近お名前を見かけることがなくなっており、心配していましたが、まさかこんなにも早く、旅立ってしまわられると、思いもしおりませんでした。
 いつかは、またお会いして、「メルモ」のときの事を、お詫びしたいと思っておりましたが、それも叶わなくなってしまいました。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。
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創世記

2006年10月30日 21時18分06秒 | 虫プロ
この年の1月手塚治虫先生は漫画部を独立させ、手塚プロダクションを作っていました。社長には手塚先生はならずに、社長室長の島方道年部長を置いきました。ほかには運転手の須崎武穂さんとアシスタントの人たちだけでありました。経理部長はお父様の北風さん、事業部長に総務の高橋経理部長を置きました。そのご 7月には、雑誌 COM でアシスタントの募集を行っています。
手塚先生は、虫プロでのアニメ作りが難しくなっていました。実験映画など、とんでもないことでしたが、それでもアニメーションフェスティバル用のフィルムを出品しないわけには行かなかったのか、虫プロの協力は得られなかったので(くろちゃんと池ちゃん撮影が協力)
手塚先生はアシスタントに作画を手伝ってもらって、前に買った旧約聖書を参考にして実験映画「創世記」を作りました。
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やっとバンパイアが決まる。

2006年10月29日 21時10分35秒 | 虫プロ
虫プロ商亊では江古田スタジオに日本に2台しかないと言う合成用の撮影機を輸入、コマーシャルなど制作していたが。この撮影機と撮影台を利用してアニメと実写の合成映画を作ろうと企画しました。
さすがにこの企画を無視する事が出来ずフジテレビでは10月3日から「バンパイア」を放送することに決まりました。
10月3日から「バンパイア」が放送されました。

この年は、かなり無駄なパイロットフィルムでの制作費が消えました、普通放送されるめどがあるから、パイロットフィルムを作るのでありますが、今振り返ると、なんで、パイロットまで作ったのに放送できなかったのか、やはり営業の力不足としかいえないのではないのでしょうか。
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0マンとノーマン

2006年10月28日 21時04分58秒 | 虫プロ
6月には「0マン」がカラーで4分。 作画を手塚先生が一番頼りにしていた北野英明さんや村野守美さんが担当しました。ジャングル大帝の制作を終えていた、山本暎一さんが作っていましたが、これも営業に失敗しております。

7月に「ノーマン」12分20秒が作られました。「0マン」がダメなら「ノーマン」と言うわけではないのでしょうが、虫プロに迷惑かけないようにと、虫プロ商亊で、気兼ねして作りましたが、これもまた営業できませんでした。
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ガムガムパンチ

2006年10月27日 23時57分56秒 | 虫プロ
4月 虫プロでの 手塚治虫原作物、排除(言いすぎ)の動きでセールスがうまくいかないのか、フジテレビとの契約で問題なのか、との疑いのためか、虫プロ商亊で、セールス用に「ガムガムパンチ」を、これはカラー作品で約13分のパイロットを制作いたしました。明治製菓やロッテなど、ガム関係のスポンサーを当て込んだ節もあります、ほかのテレビ局に売り込める人がいなかったのか、今だったら、企画が通ると思うのに、これもダメでした。
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どろろのパイロット

2006年10月26日 20時49分39秒 | 虫プロ
手塚先生と虫プロは、昭和43年には 版権収入のために、原作でのアニメ化に、むけて営業用パイロットフィルムを多く作っています。
1月には「どろろ」をカラーで13分34秒。
 演出は杉井儀三郎さん、作画が北野英明さんなどで、
この時の音楽は冨田勲さんがつけていました。
 放送決定は難航しましたが、制作費などの問題でモロクロとなり、翌年4月からの放送が決まるまでには時間が、かかりすぎました。
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アニマル1

2006年10月25日 20時34分23秒 | 虫プロ
3月30日から1971年9月18日なで放送されたよみうりテレビ系の「巨人の星」が先行されて放送された
雑誌「週刊少年マガジン」は、梶原一騎原作、川崎のぼる画のこの「巨人の星」を目玉にして、「少年サンデー」は
アマチュアレスリングをテーマにした。この「アニマル1」が人気があり、マガジンとサンデーとで競い合っていた。
同じ時期に総集編をぶつけたりしていたが、読者はまったく違うタイプの作品として、受け取っていた。
「巨人の星」では、ギャグはなく、主人公星も3枚目にはえがかれなかった。
逆に「アニマル1」は主人公東一郎の家族がトタバタニなっていて、巨人の星の原作付きの息苦しさの憂さを晴らすようなはしゃぎぶりと言う人も居た
 原作のアメリカ遠征編では始めの30ページほとんどまともな顔が無かったし、アマレスはむちゃくちゃな、アニマル・ドロップなるものとなったりしていた。
 アニメのストーリーははじめは、原作通りに進むがメキシコ・オリンピックを目指す話なので、当時のメキシコオリンピックまでの時期に合わせた設定となり、後半はかなり切り詰めた話作りとなり、主人公東一郎がメキシコ行きの資格を得る話で終わった。
フジテレビが主導権を握っていることから版権収入は、テレビ局、代理店、原作者、製作会社、となって、虫プロに入る版権料は制作費の赤字を埋めるのには、程遠いものとなってしまい、危機の足音は一層大きくなっていた。
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アニマル1

2006年10月24日 12時32分25秒 | 虫プロ
4月1日から9月30日まで「アニマル1」原作 川崎のぼる 「少年サンデー」連載 が放送された。
プロデューサーが池内辰夫さんと別所孝治さん このことから、フジテレビの営業と言うことがわかる、別所さんはフジテレビのプロデューサーだからだ。
監督はW3の杉山 卓さん当時は独立して杉並に個人のスタジオを持っていた。制作担当代理が 岸本吉切さん制作が柴山達雄 さん
なぜきっちゃんが制作担当代理であったのかは事情があったはずで調べてみるつもりだ。制作のシバタツさんは当時火曜会の(組合)組合長になっていたと思う。
脚本が山崎忠昭さん雪室俊一さん辻真先さん川崎泰民さん、演出は杉山卓さん波多正美さん富野喜幸さん高橋良輔さん西牧秀雄さん小田良さん南川博さん赤城幹雄さん内田有紀彦さん
など作画監督は宮本貞雄 さん美術監督 影山 勇さん技術監督は撮影の土屋 旭さん撮影監督 大岩久剛さん編集 古川雅士さん 資料 三上康雄 さん音響 明田川 進さんと調べると虫プロのスタッフばかりであるが、虫プロ商亊制作であった。制作は江古田スタジオで行われ、虫プロのスタッフが多数移動した。
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わんぱく探偵団

2006年10月23日 10時24分54秒 | 虫プロわんぱく探偵団
原作の「少年探偵団」は、明智小五郎探偵と助手の小林芳雄少年探偵団団長が中心で、団員はその他大勢、人数も不特定であったが、「わんぱく探偵団」ではサブレギュラーとしてリーダー小林芳雄 動物好きの デブとん、 機械に強いまめタン、顔の長いステやん、紅一点 オトコ その弟の チビちんの6人をおきました。そして明智小五郎探偵 と中村警部 そこに悪役の怪人二十面相が登場して起こす、難問事件を解決するストーリーとしました。

二十面相は変装の名人で、常に変装しているので、実際の人物が誰なのか、映像化するに当たって擬人化する必要があったので、「わんぱく探偵団」の映像として、見破られ最後に現れる「怪人二十面相」のキャラクターが必要となりました「怪人二十面相」は決まった、派手な服装で登場させることとして、試行錯誤の結果、左半分が白、右半分が黒という、はっきりしたコントラストのマスクをかぶらせました。はしがぴんと立った口ひげ、大きな襟付きマントと黒コート。最後に敗北する怪人二十面相は変装をといて、このコスチュームで現れ、逃げ去っていくというパターンにしました。
白黒の漫画映画ではこの怪人二十面相はかなりのインパクトを与える事となり、若山弦蔵の低音の魅力の声とあいまって,今までの「二十面相」の表現とは違う、最高の「二十面相」となりました。のちに描かれる「少年探偵団」(日本現代企画)や「怪人二十面相」(大映テレビ室)では、マスクに口ひげ、そしてマントの二十面相として描かれているのでよろこびました。
また、少年探偵団では、団員は「BDバッジ」(BD=ボーイズ・デテクテヴ)をつけていたが、飛礫(つぶて)に使ったり、道しるべとしていくつも道に落として目印などしました「わんぱく探偵団」では「Vバッチ」にした。V はヴィクトリーのVで、Vサインが団員の挨拶で、勝利のポーズでもあったのです。そのほか毎回常にいろいろのアイディアーが考えられ、秘密兵器として登場させました。
 放送当時、軽自動車の運転免許は16歳で取れたので、運転免許を持っているものがおり、移動など、軽バンを使用したが、
いくら漫画とはいえ、室内が、だだっ広く見えてしまった失敗もありました。いろいろな面で斬新なアイディアーで制作していったがそのことが、原作の不気味さを消してしまい、「少年探偵団」ファンからあまり歓迎されなかったのではという声もありました。
しかし、なんといっても、本作品で目立つのは二十面相だろう。殺人を嫌い、犯行は明智小五郎を出し抜くためのもの。という原作通りのキャラクターと正体を現すときに変身としかいいようがないマスクと衣装をはぎ取る姿はのちのアニメに多大な影響を与えており、適役の声優とともに歴代二十面相の中でも屈指のできとなっている。  
 本作品は、二十面相の魅力ばかりが語られることが多いが、少年達が二十面相との戦いをとおして、知恵と勇気と団結でどんな困難も乗り越えていく。明智と二十面相は脇役に過ぎない。という原作の主旨を見事に表現していることが一番評価できるところだろう。
 ストーリーにあわせて雑誌COMにも連載された、大野ゆたかさんの漫画であった。

9月26日最終回第35話二十面相の最後(後編)が放送されたが、
傷を負った二十面相は、大爆発と共に炎の中に消えたが死体は発見されなかった。二十面相はいつかまたあらわれるかもしれない。わんぱく探偵団は悪と戦い続けることを誓う。
7月末には、一番初に担当が終わったので、火曜会(虫プロ組合)が借りた海の家に行ったまま、8月一杯、泊まり通しで居た。という今までとは違ったスケジュール管理ができた作品でした。
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わんぱく探偵団

2006年10月22日 20時23分00秒 | 虫プロわんぱく探偵団
そして演出家との打ち合わせも進行を立ち会わせた。 りんたろう(林重行)さん、瀬川よしふみさん 出崎 統さん 平田 敏夫さん 波多 正美さん 勝井 千賀夫さん 北野 英明さん 上梨 満夫さん 林ちゃんの弟さんの 林 政行さん 村野 守美さん  正廷 宏三さん、などが演出家として選ばれた。
作画班の人選も決まった 沼本 清海さん、金山 明博さん、 岡崎 邦彦さん、  神宮 慧さん、新田 雅利さん、 猿山 二郎さん、牛越 和夫さん、小川 隆雄さん、朝戸 澄子さん、  杉野 昭夫さん、八幡 正、荒井 則与、
内海 武雄さん、森田 浩光さん、三浦 晃志さん、 鈴木 正俊さん、谷沢 豊さん、若林 常夫さん、などで、出崎 統さんのジャガードが作画協力 2スタに勉強部屋を立て、外注作画で村野 守美さん、はてなプロの波多 正美さん   アートフレッシュの協力してもらえることになった。
背景は阿土 延子 鈴木 森繁 明石 貞一 田島 和加子 渡辺 毅 渡井 和昭 山本 義也藤井 勝江 渡部 孝 宮本 清司 協力 セツ・アドセンター 協力 ジャック

 余談
りんちゃんには弟さんがいた林 政行さんがそうであるが、もう一方にグループサウンドにいた弟さんが居た。レコードも出していて人気もあったが、グループ名と、お名前を、度忘れしてしまった。
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わんぱく探偵団

2006年10月21日 20時17分57秒 | 虫プロわんぱく探偵団
 わんぱく探偵団
昭和43年 前年9月から「わんぱく探偵団」の制作準備が始まっていた、虫プロでセールスした作品ではなく、フジテレビからの、ものであった。
式根島事件のもと「リボンの騎士」の進行もいた、 森 柾プロデューサーと林 重行チーフディレクターから連日第三スタジオ1階の制作室に集合して体制作りの指導を受けていた。進行はのちにアシスタントプロデューサーを任される岩崎 正美さん 神田 武幸さん  下崎 闊さん  渋江 靖夫さん  綱田 靖夫さん  国井 洋一さんなどで  森 柾プロデューサーの事務をサポートする事務の藤井 慈子さん 岡部 江利子さんも、この昼間の打ち合わせに参加した。
林 重行チーフディレクターと森柾プロデューサーとは「ジャングル大帝」ですでに気心も知れ、お互いの相性が非常に良いことに気がついていた。「わんぱく探偵団」は2人で事前に話し合って、すでに方向性を決めており、それを知ってもらって、進行が手足となって動くことで、作品の質と効率、それに手塚作品ではないので、スタッフの作業をする意欲を上げようとした。
いつも二人の話は丁寧であった、このわんぱく探偵団は「江戸川乱歩」の「少年探偵団」をもとに、ストーリーを作っていくという。今まで何度もラジオや実写で取り上げられているそれとは、違うアニメにしたいと、細かく説明してくれた。主題歌はすでにおなじみの、作詞壇上文雄 作曲 白木治信「少年探偵団の歌」で歌詞をぼ、ぼ、ぼくらはわんぱく探偵団と換えただけで、使うことに主題歌が決まった。
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虫プロ42年危機

2006年10月20日 16時36分46秒 | 虫プロ
昭和42年、テレビアニメの放送数は15本以上をこえていた。にもかかわらず、老舗の虫プロでは、社員数は増えているのに、放送本数は減っていた、そのため虫プロ経営危機説が流れ始めていた。
3月29日水曜日「新ジャングル大帝 進めレオ!」の最終回 「ムーン山よ永遠に」 が放送された。次の月曜日が変わって4月2日 日曜日から「リボンの騎士」が放送された。「新ジャングル」も「リボン」も手塚先生は、関わっていた、いわゆる、「社長校閲」といわれるものであった。
 当時手塚社長をお呼びするのに社員は気を使わなければならなかった。まず「先生」とお呼びする、手塚家では、お母様、お父様、奥様が、社員の前では「先生」とお呼びしていた。ただしお母様は、親しい社員には「治」と呼んでいたが、社員にそんな呼び方は出来るはずがなかった。
ほんらい虫プロの社長であるから、社長と呼ぶのが普通であり、一般的であるように思われた、虫プロの社員としては、当然で手塚社長と呼ぶべきであろう。手塚社長本人は、どちらも、そう呼ばれることに、抵抗があったように見受けられた、よく「手塚さんで結構です」といってはいたが、そんな呼び方できるわけがなかった。

山本暎一さんは第一スタジオで、0マンのパイロットフィルムの制作に取り掛かかっていた。
そして 9月30日には「悟空の大冒険」も当初の1年間を待たず、9月30日 最終回 「あれが天竺の灯だ」が放送され終了し、残りの予定はタツノコプロの3作目「おらあグズラだど」が引き継いで放送され、虫プロのプライドが傷ついた。

昭和42年2月から43年10月まで集英社の「少年ブック」に連載した「フライングベン」のパイロットフィルム21分11秒が月岡貞夫の演出、原動画で作られ9月に完成したしかしセールスに成功させられるものがいなかったのであった。
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トイレの窓侵入事件 2

2006年10月18日 16時19分05秒 | 虫プロ
 事件が起きた
アシスタントの下村風介さんや林君は『カッパコミックス』の遠山氏、『少年サンデー』の岩淵氏と気が合いよく飲みに行きました。
この日は明け方になってしまい、「フースケの所に泊めてもらおう」と三人は、フースケのアパートへ泊まりましたが、岩淵氏は疲れていつも泊まっている手塚邸の編集部屋で寝貸せてもらおうと、母屋へ帰ってしまいました。
この日に限って母屋には誰もいません、ですから奥様はすべてに鍵をかけておりました。
岩淵氏は トイレの窓から侵入し手しまったわけです、外は雨が降っていました。
朝 奥様と通ってきたお手伝いさんたちが廊下の足跡を見つけました、そして泥棒が入ったと大騒ぎになってしまいました。
 その頃、一緒に飲んでいた三人は、フースケのアパートで寝ていました。
これが トイレ進入事件です。

この日先生はパレスホテルにおりました。社長室では着替えなどをおお届けしております。アシスタントは漫画サンデーの遠山さんと一ツ橋寮へ集合して先生の原稿を待ちました。少年サンデーの岩淵さんはパレスホテルへ行っております。先生からアシスタントへ夕食を買ってくるよう依頼があり。一ツ橋寮で寿司を取り、お茶をつけて、パレスホテルへお持ちしています。
少年サンデーの作業は1時過ぎから始めて、2時半には終わりました、先生は3時自宅へ戻りました。
先生がいつこのことをお知りになったかは、確認できておりませんが休み明け 3月13日月曜日に島方室長は先生からそのようなことがあったことを聞かされ、仕事帰りに岩淵さんの家に寄って事情を聞いております。そして、よく3月14日火曜日の午後 6時前 小学館の責任者たちが手塚先生のお宅に来て、先生に謝罪しておりました。
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トイレの窓侵入事件 1

2006年10月17日 16時17分07秒 | 虫プロ
 編集者がトイレの窓から侵入事件
この事件の経緯は次のようであった、日を追って説明しよう。
3月6日月曜日
手塚先生は朝8時まで原稿を描きあげていたので、昼まで寝かせて欲しいと奥さんにこと付けていた。17時 原稿の順番で手塚番の編集者たちがもめていた。
3月7日火曜日
母屋の控え室で、起きた手塚番の編集者たちは、手塚先生が、明け方いなくなっていたことを知った。手を尽くして調べると、池袋の虫プロ商亊に 缶詰になっているらしいことが判明した。    虫プロ商亊といっても7階に特別室があり、そこは社員ですら知らない部屋であった。島方室長が虫プロ商亊にいたので、そう思われたのであった。
3月8日水曜日
虫プロ商亊の校條さんから社長室に迎えの車を虫プロ商亊によこすようにと、連絡が入り、また髭剃りを届けてくれとのことであったので、虫プロ商亊で手塚先生は貫徹したことが、はっきりした。
秘密の部屋には、アシスタントの大野豊さんだけが手伝っているということで、誰も近づけなかった。2時になって朝日新聞の原稿が上がり、その原稿を朝日新聞社まで車で届けにいった。
3月9日木曜日
島方室長は朝、直接虫プロ商亊へ出勤していた。漫画の用紙が不足して虫プロ商亊まで至急届けるようにと要請するが、社長室にはアシスタントが誰もおらず島方さんもいないので、用紙のありかがわからず、奥様に探してもらい、10時過ぎに届けている。昼に手塚先生は今井虫プロ社長と外出して会議をしている。島方室長は先生と打ち合わせをし、先生は続けて缶詰になることとなり、その日は社長室全員が母屋の社長室へ戻り、今日は社長室には誰もいなくなることを奥様に報告して、定時になると島方さんに池袋へ連れて行ってもらい皆で食事をして全員が帰宅してしまった。
3月10日金曜日
 事件が起きた
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