6月1日 寝耳で水のリテークが暎一さんから出た。放送まであと10日、フィルムは完成していた。稲を刈るシーン、現代のように、鎌で根元を刈るのではなく、当時は石器なので、穂先を手に持った石器で刈り取って居たはずである、と言うのが、リテークの理由であった。稲作文明の伝来が、主なテーマなので、かなりのシーンが、リテークの対象となってしまう。2話3話も当然リテークになる事となる。
そこまで何も細かいことは、とか、漫画なのだから、とか、予算がかなりオーバーしてしまいます、とか、たかが進行に毛の生えた者が言っても、聞き入れられるはずも無かった。
この緊急事態に、対象となる、リテークカットの数を調べ、スケジュールを建て直し、予算を経理に提出しなおした。
予想に反して経理では、あっさりと認められた。暎一さんは、あくまで元役員、ここで、おりられたら元も子も無くなる、まして、クレオパトラも担当していたからで、泣くこと地頭には勝てなかった、虫プロの弱さがあった。
作画担当の瀬山さんと打ち合わせすぐに修正の作業に貫徹で望んだ、トレスマシン掛けや彩色までやった。背景美術の富田美穂さんも手伝ってくれた。翌2日2話のリテーク作業も始めたが、暎一さんが行方不明で作業できず、撮影出しの準備をしたまま深夜まで待機する。
それでも6月14日には水野英子さんの家でパーティーがあり、練習場を借りていた関係から虫プロバンドが呼ばれ、午後3時から11時過ぎまで楽しむという余裕もあった。
「日本誕生」は以下の日に放送された。
1 稲をもってきた河童 昭和45年 6月 1日
2 邪馬台国に住んだ河童 昭和45年 6月17日
3 大和の裏切り河童 昭和45年 6月24日
4 日出ずる国の河童 昭和45年10月17日
5 英雄になった河童 昭和45年10月24日
なお、昭和48年8月 瀬山 義文氏はお亡くなりになっております。
瀬山さんとは、演出家としての瀬山さんと、お付き合いが多かったと思うのですが、この作品では作画監督というお立場で、お付き合いいたしました。
今とは違い、キャラクターを、キャラクターどおりに描けるのが、上手なアニメーターと言われていた時代の、数少ないプロのアニメーターでした。
心から、お悔やみ申し上げます。
そこまで何も細かいことは、とか、漫画なのだから、とか、予算がかなりオーバーしてしまいます、とか、たかが進行に毛の生えた者が言っても、聞き入れられるはずも無かった。
この緊急事態に、対象となる、リテークカットの数を調べ、スケジュールを建て直し、予算を経理に提出しなおした。
予想に反して経理では、あっさりと認められた。暎一さんは、あくまで元役員、ここで、おりられたら元も子も無くなる、まして、クレオパトラも担当していたからで、泣くこと地頭には勝てなかった、虫プロの弱さがあった。
作画担当の瀬山さんと打ち合わせすぐに修正の作業に貫徹で望んだ、トレスマシン掛けや彩色までやった。背景美術の富田美穂さんも手伝ってくれた。翌2日2話のリテーク作業も始めたが、暎一さんが行方不明で作業できず、撮影出しの準備をしたまま深夜まで待機する。
それでも6月14日には水野英子さんの家でパーティーがあり、練習場を借りていた関係から虫プロバンドが呼ばれ、午後3時から11時過ぎまで楽しむという余裕もあった。
「日本誕生」は以下の日に放送された。
1 稲をもってきた河童 昭和45年 6月 1日
2 邪馬台国に住んだ河童 昭和45年 6月17日
3 大和の裏切り河童 昭和45年 6月24日
4 日出ずる国の河童 昭和45年10月17日
5 英雄になった河童 昭和45年10月24日
なお、昭和48年8月 瀬山 義文氏はお亡くなりになっております。
瀬山さんとは、演出家としての瀬山さんと、お付き合いが多かったと思うのですが、この作品では作画監督というお立場で、お付き合いいたしました。
今とは違い、キャラクターを、キャラクターどおりに描けるのが、上手なアニメーターと言われていた時代の、数少ないプロのアニメーターでした。
心から、お悔やみ申し上げます。