真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

探し物

2007年03月09日 10時58分17秒 | Weblog
 指の痺れ、なおらない。顔にも気になるものがあり、ついでに見てもらおうと、医者に行く決心をする。総合病院のほうが、一度に診てもらえるだろうと思い、昔の診療券を探すが、財布の中に無い。最近かかった病院の診療券は、あるのにどこにも無く、使わないから、引き出しにでも入れたんだろうと思い、引き出しを捜し、引き出しの整理を始めることになってしまう。

 次から次へと、無理無理入れた引き出し、埃もずいぶんと溜まっていて、敷きっぱなしの布団が邪魔、外に干しておく。

 結局は探し出すことが出来ず、出したものをもとの引き出しに仕舞いきることができず入れようと、苦労する。


 ちょっと気晴らしに花小金井のブックオフまで、行ってみる。

アニメ王国のしていたら、アニメの王国のDVDがブックオフに良く出ると言う記述があったので探しに行ってみた、店員に尋ねたが、小金井店では、今まで出ていないとの事。

 診療券探しの続き、バックの中や、心当たりを探すが、無い、無いはずはないので思い出そうとするが、いくつかの総合病院の診療券があったはず、どこかにまとめてあるはずまで思い出したが探すだけで見つからないまま一日が過ぎた。
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虫プロ商亊 倒産後に

2007年03月08日 10時11分18秒 | 虫プロ
虫プロ倒産後こんなエピソードがあった。ご存じない方もおられると思うので紹介する。

「鉄腕アトムが帰ってくる」   1,975年3月29 日毎日新聞  より
<鉄腕アトムがよみがえる>   
 手塚治虫のマンガでチビっ子の人気をさらった虫プロ商亊は四十八年夏、多額の負債を抱え倒産したが28日午後、東京地裁民事二十部で開かれた債務者会議で。「強制和議」が成立、再スタートすることになった。手塚さんのファンで、再見に努力した会社社長、大西年夫氏(59)が社長に就任、手塚さんは経営から身を引き、マンガ一筋に打ち込むことになった。
 新社名は「虫プロ企画」。債権者会議には債権者百五十人のうち八十一人が出席したが、債権者は債権額の28%だけを受け取り、残りの債権を放棄するという条件を認め、和議が成立した。
(略)
 手塚さんのファンで、産業廃棄物を処理する日本産業資源社長、大西氏は倒産直後、虫プロ商亊に乗り込み、私財を投じて債権の44%(約1億7千6百万円)を肩代わりするなどして再建に努力、和議成立に持ち込んだ。
 新たにスタートする虫プロ企画では、さしあたり手塚さんのマンガを単行本として出版するほか、早ければ年内にはマンガ雑誌を発行する。またレジャーランド「虫プロ王国」の開設や、宮城県・高千穂町で牧場を開放し、チビっ子たちの遊び場に提供する計画も立てている。

 「大西氏の話」  私は手塚さんと親しかったわけではない。しかし、私の三人の子供は“鉄腕アトム”を読んで成長した。“鉄腕アトム”によって正義の心を教育された。この美しい漫画をなくしてしまうのは惜しい。そんな気持ちから再見しようと思った。

 しかし虫プロ企画がその後どうなったか、虫プロ企画そのものの名前も聞こえてこなかった。

この事は毎日の「鉄腕アトムが帰ってくる」や朝日の「さすがアトム不死身の威力」 などの見出しで大々的にマスコミが取り上げた。この救世主により一件落着するかのように見えたがその後の経過については一切報道されていない。

 そのご、このひとは前科数犯の常習詐欺師であることが判明、突如行方をくらましてしまった。

 幸か不幸か和議が成立した後であったため、債権者たちからも、ほとんど騒ぎが起きなかった。手塚治虫も負債を返却、事無きに至るという妙な成り行きになった。

 当然、大西なる者が提供するとした不動産も他人名義のものであった。

    -日本アニメーション映画史-'77.8より
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虫プロ倒産

2007年03月07日 14時05分24秒 | 虫プロ

 「鉄腕アトム」などで有名な漫画家の手塚治虫さん(47)の作品を一手に映画制作してきた「株式会社虫プロダクション」=東京都練馬区富士見台2の30の5、川畑栄一社長(38)=が、このほど多額の不渡り手形を出し、事実上の倒産をした。
1973年11月6日 読売新聞 「鉄腕アトム、劇画に敗れる」
        -よりー

 虫プロダクションという会社にたいして、世間では「手塚治虫の作品を作っていた会社」と、勘違いされていたことがわかります。

 実際には、手塚作品でないものも制作していたし、原作であっても、手塚先生が、関わっていない作品も多くありました。

 手塚先生は、虫プロイコール手塚治虫、と社会では思われる、ということを、いつも心配しており、そのため、自分が、関わらない手塚原作作品には、「自分の名前を入れないで」とまで言わせてしまったのでした。

 それに天下の読売新聞でさえ当時の手塚治虫の年齢の確認をせず、一般的に言われていた年齢を鵜呑みにして、全く調べをせず書いていることに驚かされます。
11月1日倒産なら44歳、誕生日が、3日なので記事の日時なら45歳と書くべきですよね。
(私たちの年代のものは、新聞など活字は絶対で、「間違いは無いもの」と信じていたものです。ですから、人の言うことより、活字になったものを読むことで、信じていたのですよ)このころからマスコミのいい加減さが、暴露されておりますね。

つづきます

 手塚作品の出版部門である「虫プロ商亊」も、去る8月初め に約四千万円の不渡り手形を出してひと足早く倒産しており、帝国興信所では「虫プロダクション」の負債総額は約四億円にのぼるものと推定している。一時は“戦後っ子”の少年の胸をときめかさせた手塚ブームは、最近の劇画ブームに王座を奪われ、こんどの相次ぐ倒産劇で手塚時代に終止符を打ったと言えそうだ。

 単に劇画ブームで乗り遅れた虫プロが、倒産に追い込まれたと分析しているのが悲しい、もっと、内部事情を調べれば、いろいろと面白かったのにと思うし、今伝わっている虫プロの歴史が、違って語られたのではないかと残念に思う。

つづき

 手塚さん所在不明

 二年前に社長を交代したとはいえ、虫プロの事実上の主宰者である手塚さんは五日朝、手塚邸となりの同プロ事務所にちょっと顔を見せただけで、その後は所在不明になっている。

 この記事になると、当時手塚治虫の行動の予定は、手塚プロが管理していた。いかに記者が手抜きの取材をしているかがわかって面白かった。

のちに手塚先生も、「週刊読売」11月24日「鉄腕アトム奮戦むなしの記」のなかで。

 その留守中に記者たちが、虫プロの臨終の記事の取材に飛び回っているのを知らなかった。翌日朝刊を見て、自分がビックリした。手塚治虫が行方不明だという。こいつはまんがになるわいと思った。

 と書いております。

ではその留守中とはなにをしていたのか。

週刊大衆 11月22日 「負債四億円“鉄腕虫プロ”劇画ジャングルに沈没」   の中の記事から

 この日、「漫画集団」四十周年の記念サイン会があって、手塚氏や馬場氏が顔を出していたとき、“虫プロが不渡りを出した”というニュースが流れ、某新聞社が虫プロに電話した。
 もちろん手塚氏は不在だったが、それを“行方不明”に仕立てあげられてしまったわけだ。

 思わぬ記事で、取材した記者は電話だけの取材、自分の思惑と、売れる記事にするため、行方不明でもない手塚治虫を行方不明にして、面白くかこうとしていたのであった。

 そんな暇があったのなら、Nさんの事でも調べておいてくれれば、社員の不払い分を含め、もっと被害が少なくなったはず、とは、私のつぶやき。
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虫プロ商亊の倒産 週刊文春

2007年03月06日 08時59分47秒 | 虫プロ
 虫プロ商亊倒産ー週刊文春ー
「神通力を失った鉄腕アトム」より 1973年8月27日抜粋
「鉄腕アトム」でおなじみの手塚治虫氏の虫プロ商亊が、4000万円の不渡り手形を出して、本家虫プロへの影響が心配されている。(略)

 不渡りを出した原因は、「アトム・ブームが昨年あたりに下火になり、赤字が3億円以上累積したため」(虫プロ商亊・清野正信氏)という。だが、たかが4000万円くらいでと、手塚氏を知る人々は不思議がる。(略)

 だが、いまのはやりは怪獣にグロ劇画。
「鉄腕アトム」といっても知らない子供が大部分になっている。
「一昔前にくらべると、神通力が落ちました。ある漫画雑誌などは、手塚氏のものをのせながら、それへのかなりな批判を読者にいわせたりしてましたから」(漫画雑誌記者) (略)

 今度の事件をぬきにしても、このところもう一つパッとしない手塚氏だが、「マンネリだと読者から手紙をもらうと、不眠症になるほど考えて、精神鑑定をうけるほど」(手塚氏の友人)の熱心さがあるだけに、アトムにかわる神通力を持った”新人”を登場させて、このピンチを切り抜けることを期待しよう。
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虫プロ商亊倒産

2007年03月05日 09時17分58秒 | 虫プロ
 「いやあ、困ちゃったなあ。ぼく、なにもわからないんですよ。いま、その新聞を買いにやらせたところなんですけどね」

と、漫画家の手塚治虫さんはいう。手塚さんが社長をしている虫プロ商事が、4千万円の不渡り手形を出したことが報じられた9日夜。
 「1年ぐらい前から、苦しい、苦しいという報告は受けてましたけれど..........。ぼくが社長というのは名前だけで、経営はまかせっきりなんですよ。虫プロ商亊で出している「COM」の復刊2号に載せる「火の鳥」の原稿も、つい、おとといまで描いていたんです。あれ、出る見通しつかないのかな」
 (略)
 昭和41年7月に、虫プロの版権部門が分離して出来た会社、鉄腕アトムなどの版権販売などが仕事の中心だった。アトムブームが去ってから、安易に手を出した出版事業で失敗してしまったわけだ。印刷、製本、紙屋などの債権者と、近く会議を開いて、今後どうするかを相談するというが、原稿料をもらっていない当の手塚さんと手塚プロも大口の債権者である。

1973年8月24日 週刊朝日
「鉄腕アトムの救援きかぬ手塚治虫氏の悩みー虫プロ商亊ピンチー」  より
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虫プロ商亊倒産

2007年03月04日 07時36分42秒 | 虫プロ
 虫プロ商亊は版権管理や出版をおこなっていた。
出版で「COM」の運営は苦しくなって休刊してしまったりしたが、版権というロイヤリティは、作品が出来上がり、キャラクター商品が売れれば、黙っていても入ってくるので楽な運営であるはずであった。

しかし、美味しいところには多くの心無い人たちが群がった。

昭和46年9月虫プロ商亊から、組合争議の火の手が上がった。結果手塚治虫が虫プロ商亊の責任を引き継ぎ、社長となった。

 手塚先生は当然多忙、実務は社長代行が牛耳った。その彼が企画した幼児向け新雑誌「れお」が惨憺たる赤字を生んでいった。

 経営状態は急激に悪化していった。人員整理など梃入れしたが,窮状を打開できず、昭和48年には虫プロ商亊の運営は、債権者委員会によって行なわれていた。

手塚社長とは名ばかりになってしまっていた。委員会でも内紛が起こり、経営状態は上昇してきたにもかかわらず、8月22日不渡りを出し、倒産したのであった。

累積赤字1億2千万円弱といわれている。

虫プロ商亊の倒産は、虫プロダクションとは全く関係ないのであったが、マスコミが虫プロ商亊と、虫プロが、影響あるような、過大に報道したり、そのため一般の人たちも虫プロ商亊と虫プロを、混同し、虫プロダクションのイメージが、落日のように落ちていった。
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ドラえもん

2007年03月03日 10時19分48秒 | ドラえもん

昭和48年4月1日から26週、日本テレビで「ドラえもん」が放送された。

 ぼくのドラえもんが町を歩けば、みんな、みんなが、ふりかえるよ!。という藤子先生作詞の余り知られていない、ドラえもんである。

モンシェリCoCoで知り合った、佐々木一雄君から、制作を担当してくれと依頼を受けて、日本テレビ動画に入った。スタッフなどは

原作は藤子不二雄(藤本 弘)さんである。

制作が、日本テレビ動画

プロデューサー 佐々木 一雄

制作担当主任 下崎 闊

チーフディレクター    上梨 満雄

文芸担当     徳丸 正夫

脚本 井上 知士 鈴木 良武 園屁 蔵士 山崎 晴哉 など        
担当演出 岡迫和之 腰 繁男

制作進行 木沢富士夫 増田 厚美 小野 忠 山下 一郎 

作画監督 宇田川 一彦 白川 忠志 鈴木 満 生頼 昭憲 村田 四郎 など

原画 上條 修 熊野 基雄 佐藤 徹 竹市 正勝 田中 保 永樹 たつひろ 山下 征二 など

動画 秋山 博雅 荒井 政良志 岡山 陽子 加藤 輿治 楠田 悟 滝波 いつ子 八武崎 好郎 など

仕上 江口 マキ子 大橋 啓子 黒田 英里子 小林 一幸 島崎 あつ子 長村 葉子 など

仕上外注 スタジオ古留美 石田 康美 狩野 節子 石田 国松 石田 ヤゴ 川上 直子 中野 則子 若井 喜治 三宅 敏博 など

美術監督 (有)スタジオジャック 鈴木 森繁 アトリエ69 川本 征平

背景  (有)スタジオジャック 高野 正道 阿部 行夫 西巻 晶子 亀川 尚子

    アトリエ69  平川 やすし 細谷 秋男 など

撮影監督 スタジオ珊瑚礁 菅谷 信行 

撮影 スタジオ珊瑚礁 菅谷 正昭 など

編集 西出 映子
スタジオは西新宿の十二社(じゅうにそう)のスタジオゼロ2階

音響演出 近森 啓祐

音響制作 E&Mプランニングセンター

選曲 宮下 滋

効果 片岡 陽三 小川 勝男(E&M)

調整 田中 英行

録音 番町スタジオ

現像 東洋現像所

(略敬称)

声の出演

ドラえもん 富田耕生 のちに  野沢 雅子
のび太   太田 淑子
ジャイアン 肝付 兼太
スネ夫  八代 駿
静  香 恵比寿 まさこ
パ  パ 村越 伊知郎
マ  マ 小原 乃梨子
ガチャコ  堀 絢子
我成先生 雨森 雅司 時には 加藤 修
セワシ 山本 圭子
スネ夫の母 高橋 和枝
ボタコ 野沢 雅子
ジャマ子 吉田 理保子
デブ子 つかせ のりこ

大竹 宏 岡本 敏明 神谷 明 加茂 嘉久 兼本 新吾 槐 柳二 北川 国彦 田村 錦人 田中 良一 辻村 真人  中西 妙子 永井 一郎 野村 道子 はせさん治 松金 よね子 丸山 裕子 水鳥 鉄夫 峰 恵研 八奈見 乗児 矢田 耕司 山下 啓介 山田 俊司 山丘 陽人 渡辺 典子
青二プロダクション など

(略敬称)

音楽 越部 信義

主題歌 ドラえもん ドラえもんルンバ
作詞 藤子 不二雄 横山 陽一
作編曲 越部 信義 越部 信義
唄 内藤 はるみと 劇団NLT(コロムビアレコード) 内藤 はるみ

(略敬称)

 声優さんなどメルモや国松とかぶっていて、もしも、ドラえもんの声を、国松の大山さんの声を使っていたら。
 でもそれでよかったのかも、原作も少なく、すぐに使い終わってしまった。そのまま続けていても1年が限度だったかもしれない。
 5年後、シンエイ動画で、10分という、不安定な作品で再登場したが、大山さんというドラえもんの声が、大ヒットを生み、現在、わさびドラという、声優さんに受け継がれ、放送し続けているのは、元祖、ドラえもんに、携われたということに、喜びを感じる。

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モンシェリCoCo

2007年03月02日 21時31分13秒 | アニメーション
モンシェリCoCo

手塚プロを去った私は、スタジオテークの正延宏三さんに乞われ、日本テレビ動画の、「モンシェリココ」を手伝っていた。

9月放送開始
プロデューサー 高橋  貞夫 佐々木 一雄
原作   大和  和紀
演出 正延  宏三
脚本   吉原  幸栄
美術協力  川村   都
音楽  大柿  隆
主題歌 
  作詞   有馬  美恵子
  作曲   川口  真
  歌   中島 まゆこ

製作協力 スタディオ テイク
製作    日本テレビ動画
      TBS

第 1話 かわいいあの子

パリ ノートルダム セーヌのほとり

 「やっときたんだわ
マロニエの花咲く ロマンの夢香る
 憧れのパリ   夢の都パリ
  ウフフ
うれしくなちゃって  ぞくぞくしちゃう
でも内緒      あたしには秘密があるのよ
 だからパパには ないしょ ナイショ
だって せっかく夢を探しに パリに来たんですもの
わたしはただ ちょっと気まぐれで ちょっと冒険好きで
そして夢を追いすぎるだけなの
ほら あなたの お友達の あのこのこと
思い出してくださらない
 ウフフ
うれしくなっちゃって つい おしゃべり」

ココのこんなおしゃべりから 第1話 かわいいあの子は始まります。

ハンカチを落としておまわりさんに追われるココは カメラマンのジェロームと出会う



これからの行き先をコインで占うココとジェロームは 食べ放題のケーキ屋さんと出会う
そして売れないケーキのデザインをココは説得して任せて貰うことになる。

ココ 気まぐれなへんなこだけど 君の中には はっとするような キラキラするやさしさがある
ココって名乗っている君は いったい だれなんだい

と言うジェロームのナレーションで1話は終わり2話へと続く。

---------------------------------------------------
ココ 広川  あけみ
ナタリー つかせ のりこ
ジェローム 森   功至
シェリル 北浜  晴子
クロード 富田  耕生
父 ラサレフ 勝田  久
アンジェリカ少年 松島  みのり
女の子  A 菊池  絋子
     B 吉田  理保子
手下 男 A 中曽根 雅夫
     B 山田  俊司
--------------------------------
スタッフ
作画監督 大坂 竹志,鈴木 満
美術監督 井岡 雅宏
撮影監督 菅谷 正昭
音響監督 山崎 宏
効果 片岡 陽三
作曲 宮下 滋
音響制作 E&Mプランニングセンター
録音 東京テレビセンター
現像 東洋現像所
----------------------
原画 曽木 豊海, 金子 當行
動画 秋山 恵美子,江部 敏春
背景 アトリエ 69
仕上 小出 カオル
編集 鶴淵 允寿

絵コンテ 小室 富士夫
演出助手 伊藤 幸松
進行 小西 正夫
----------------------
第 2話 ココのケーキやさん
第 3話 わたしはデザイナー
第 4話 わすれられないひと
第 5話 泣きたい時は泣こう
第 6話 チャンス到来
第 7話 いじわるなファッションショー
第 8話 もう一度さようなら
第 9話 ピンチだアタック!
第10話 もう子どもじゃない
第11話 じゃまをするなら 変身作戦
第12話 母をたずねて 日本へ
第13話 しあわせは京都からパリへ プロデューサー    
スタッフにメルモの時の人がかぶっているのはわかる。
作画はスタジオテークの人の名前が、演出助手の伊藤 幸松さんは、あしたのジョーで進行をなされていた方、スタジオテークに移って、作画の勉強をしていた。

小さなプロダクションでも作品を作ることが、出来ることを証明したかったのだが、思わぬところに落とし穴があり、8月末、私が途中で降りたので、当初の予定2クールのところ、1クールで、打ち切りざるを得なくなった。
 そして11月私の結婚式の日に放送が終わった。
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ワンサーくん

2007年03月01日 11時20分53秒 | Weblog
ワンサーくんは、虫プロダクション最後のテレビシリーズ。

ワンサーくん の原作は1971~72年に「てづかマガジン レオ」に連載された。

 ワンサーくんは、はじめからサンワ銀行のマスコットキャラクターとして作られたワンサを主人公にした漫画だが、テレビシリーズはほぼオリジナル作品で、手自身は全く製作には関わっていない。
 とかかれているが、 

 当時手塚プロは練馬のサンワ銀行が、メインバンクで、サービスで給料など袋詰めをしてくれた、それを、取りに行った記憶がある。虫プロや、マッドハウスなども使用していた銀行でした。

 まんが連載も手塚プロ3階で目撃している。ワンサはもちろん三和の逆さ読みである。

 連載と同じくして、パイロットフィルムを制作した、ハズ、残っていないらしく発表はされていない。 しかし、その作業には、手塚先生が指示をしていたのである。
 だから、全く制作に関わっていないというのは、誤りである。

ワンサくんの版権も奪ったNさんは、山本暎一さんに、総監督をお願いした。

 これが後の「宇宙戦艦ヤマト」の複線となり、山本暎一さんが、すでに「ヤマト」の企画をしていたのは、目撃している。
 だから、ヤマトを企画したのは、山本暎一さんで、Nさんは「ヤマト」でも美味しい取りをしたわけだ。

 Nさんの居た虫プロ商亊が8月22日倒産した。
Nさんがドサクサ紛れに眉をひそめるようなことがあったという、噂が耳に入ったが、それ以上の事件にはならなかった。この時虫プロ商亊の社長は、手塚治虫であった。

 9月24日 「ワンサくん」の放送が、始まったが、Nさんが、虫プロの役員(取締)になったという、嫌な噂も耳に入った。

 だから「虫プロも倒産するだろう」という不吉な想いが頭をよぎった。

ワンサーくん   公表されているスタッフ
企画             西崎 義展    瑞鷹エンタープライズ
脚本             藤川 桂介
音楽             宮川 泰
監督             山本 暎一
プロデューサー       西崎義展
制作             虫プロダクション     関西テレビ
原作             手塚 治虫
キャラクター         永嶋 慎二
制作担当          柴山 達雄   (虫プロダクション)
                道広 秀次郎  (関西テレビ)
               
設定制作          佐藤 洋     (1~8話)
設定制作          原田 益次    (9話~)
作画             森田 浩光
美術             半藤 克美
音響             明田川 進
効果             柏原 満
録音             東京スタジオセンター
現像             東京現像所
主題歌
オープニング   「ワンサカワンサくん」
エンディング   「ピンコラ音頭」
            (14話のみ「ミドリちゃん」ホーン・ユキ)

  ロイヤルナイツ、シンガーズ・スリー(日本コロムビア・レコード)

 最終回が9月24日に放送された。

 ワンサーくんが終わり次の虫プロの企画は何も無かった。2スタに行くと組合長となっていた、編集の伊藤さん(現在の社長)を中心として、弱者である彩色などの人たちが、ほかの会社の仕事を貰って、外注仕事をして頑張っていた。

 撮影の友人は、やはり外注の仕事をしようと仕事探しをしていたという。
 倒産の噂も出ていた。撮影班では、もしも虫プロが、解散するなら、撮影機を買い取って、外注で、頑張ろうという相談までしていたという。

 はたして11月1日虫プロは、倒産した。管財人が入り、資産が凍結された。

 撮影班のスタッフたちは、自分たちの目を疑った。いつの間にか撮影機と撮影台が、役員を辞めていたNさん名義に2足3文の値段で売り渡されていたのであった。

 Nさんは 役員として何の責任も取らなかった、どころか、額にまた膨大な利益を得ていたのであった。

 虫プロを追われたスタッフたちには、何も残されていなかったという。

 貧乏くじというには余りにもひどい悲劇、最後の虫プロダクション社長の川畑栄一さんは、三億という負債を背負った。そのため、家族を犠牲にし、別れた。どん底の生活を強いられてしまったが、やっと今は一人練馬で福祉関係のボランティアをしている、という噂が届いた。

 伊藤さんも虫プロという名前を守るため、組合という形で、血のにじむ努力をされた。何も出来なかった私たちは、頭を下げるしかない。そして現在虫プロダクション株式会社、取締役社長として、頑張っておられる。
 その苦労がたたってか、最近隊長を崩されているという噂が耳に入ったが、いつまでも元気で、虫プロを発展させてもらえるよう、祈っている。


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