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真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

昭和38年 他社でもアニメを

2006年06月30日 18時43分38秒 | 虫プロ
アトムが始まって、テレビで漫画映画を放送することができることがわかると、虫プロ以外の会社でも製作を企画した、15分番組であったが「TCJ」が「仙人 」を9月 4日水曜午後11時40分から15分間フジテレビで放送開始した。 アトムのヒットでスポンサーに成り損ねたスポンサーたちのアニメをもっととの要請が多く、墓にも漫画映画を製作したいフジテレビは、虫プロにほかにもアニメを制作するよう、交渉したが「鉄腕アトム」でさえ、青息吐息、とても余裕などあるわけが無い事は、虫プロの現状を見れば、誰の目にも明らかだった。そこでCMなどでアニメ制作に実績のあるTCJに白羽の矢が立った。当時「鉄人28号」は雑誌「少年」で「鉄腕アトム」と人気を二分していた。「鉄腕アトムから」遅れることたったの十ヶ月、昭和38年10月20日、同じフジテレビ、提供もお菓子メーカーの、グリコで「鉄人28号」が放送された。
 TBSも漫画映画を指をくわえて見ている訳には行かなかった。少年マガジンに5月から連載されていた、「8マン」に白羽の矢が立った。このことを書くと大変長くなるので、興味のある方は調べて欲しく思うが、この「8マン」は、「週刊少年マガジン」が手塚治虫の「鉄腕アトム」の人気を超えるような作品を、と言うことで全力を投入した作品であった。オーディションで原作はSF作家の平井和正さん、作画もオーディションで桑田次郎さんとなったのだ、そんな、「8マン」であったので 漫画連載2ヶ月後に交渉を開始したTBSの三輪俊道プロデューサーは、なかなかテレビアニメ化に理解を得ることができなかったという、マガジン編集部には苦労して人気連載に仕立てた企画を横取りされるという意識がありTBSの要請を断っていたというのであった。その「8マン」を放送するに当たっては、フジテレビの8チャンネルの イメージがあるので「エイトマン」とカタカナの題名にしたというのは、有名な話である。  TBS社内に漫画制作室を置き「TCJ」に作画から撮影までを任せて制作した作品で11月8日放送開始をして、提供は丸美屋食品工業であった。
 なを、私の主観であるが、週刊マガジン編集部は手塚治虫先生に対して遺恨とまでは行かないけれど何か一方的に、何かあったような感じを受けた。それは、編集者の態度にも表れ、「間に合わないならやめさせろ」的な雰囲気を持っていて、他の社の編集者とは違った感じを受けていた。現にワンダースリーの連載は読者になんの断りもなく、突然連載を終わらせているではないか。
 日本の漫画映画の大御所東映動画も黙っていなかった。
昭和33年初台の頃師のアシスタントとして上京してから師の信頼を得、手塚先生のの代理として東映動画へ出向していた月岡貞夫が漫画映画の虜になってそのまま東映動画の一員になってしまっていた。その月岡さんは「狼少年ケン」を原作、キャラクターを作った。その「狼少年ケン」は東映動画制作で11月25日からNETで毎週月曜日の午後6時15分から45分までの間、放送されたのでありました。
なお、手塚先生は月さんに対しては、アニメの永遠のライバルとして、一目も二目も置いていました。
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鉄腕アトム ミドロヶ沼の巻のなぞ

2006年06月13日 18時17分32秒 | 虫プロ
「鉄腕アトムは」手塚先生の校閲やチェックで各パートの、作業が中断され それでも無いスケジュールがますます遅れることになっていた。 あるときトキワ荘のときの鈴木伸一さんが挨拶に来た。 5月に鈴木伸一さん石森章太郎さんつのだじろうさん角田喜代一さん(つのだじろうの兄)藤子不二雄の藤子不二雄Aさん藤子・F・不二雄さんでアニメを作るためのスタジオ、スタジオゼロを中野のもとボクシングジムのあとをに作ったという挨拶であった。
 すでにアニメ制作にたずさわっていた鈴木伸一さんがいる、また初台の頃石森章太郎さんは月岡貞夫さんと手塚先生の代理で 東映動画の「西遊記」に関わっていた経験がある。
 鉄腕アトムの作画をまるまる1本、おねがいできれば、虫プロのスケジュールが楽になると手塚社長のすすめもあったので、スタジオゼロに任せることとなった。
(手塚先生は日ごろから、好きなアニメ作りを、他人にもさせてあげたいと言う気持ちを常々持っていた)
そして原作の「美土路沼事件」を任せることになり、鈴木伸一さんに演出を任せることになった、初めの前半を石森章太郎さん後半を鈴木さんが絵コンテをかいて、手塚先生の校閲を受けた。何度か修正を出されたなどで、はじめの予定よりスケジュールが遅れてしまった。それにまんが家ばかりの集団、動画の人がまだいなかった。 この頃まだ作画監督と言う考えも無かった。おのおのが特徴のある漫画家で既に名の売れた漫画家ばかりである。それぞれ特徴のあるアトムが描かれてしまった。
こうして鉄腕アトム『ミドロヶ沼の巻』は、「多忙な虫プロの社員の為に夏休みでも取れるように」と考えた手塚社長のもくろみは見事に外れてしまう、あまりにもアトムのキャラクターの違いに。虫プロのスタッフは修正するため、尚忙しい思いをさせられてしまったという、伝説が残った。その後スタジオゼロに仕事を依頼した記録は残っていないと伝えられている。

エピソード 
そのあまりの作品の出来の悪さのため手塚治虫が処分、燃やしてしまった、といいつたえられている、まことしやかな噂も流れているが当時の虫プロは、局へ収めるフィルム、と保管しておくフィルム、があったはず。それにネガフィルムがある。
それらをすべて取り寄せ燃やす、そんな面倒なことをする、手間や時間の余裕もなく、その噂はでたらめと言い切ることができるであろう。
エピソード
 ネガがなくなるのは、ライブの(バンクシステム)セルや動画を使って撮影からすればよいのだが、そのスケジュールもなくなったときには 師の頭の中には「あの時のあのカット」言う資料が整理されいた。指示して保管してあるネガ缶を取り寄せ、ネガをばらして必要なところを切って使ってしまった。すぐにネガネガ(ネガフイルムからネガフィルム)を起こして差し替えておけばよいのだが次の仕事に追われ、あとでしようとしているうちに整理が悪く行方不明となってしまったのであろう。
 なんにせよ先ごろ、発売されたDVDにはこの『ミドロヶ沼の巻』が入っている、アメリカでのフィルムが見つかったような噂であるが、サウンドは日本語、サウンドネガが有ったという事なのだろうか。
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鉄腕アトム アメリカからの指摘

2006年06月09日 22時26分35秒 | Weblog
NBCからクレームがきた、アメリカの子供向け番組では性的描写はまかりならん
「子供番組なので性的描写はダメ」壁に掛かっていた額縁の絵が女性ヌードであったのだ 背景さんの。いたずらであったが。 それに「暴力描写に対するもの」など厳しいことを言われたのだと説明した。
手塚先生は、すぐに悟る人であった、1つを聞いて十を知る。子供にためになるものを作るのだ、それは世界でもおなじこと、すぐ自らの戒めとした。
脇役でスタッフの名前をもじったキャラクターが出てくる。例えばりんたろうさん、林ちゃんの事であるが、当時まだ制作進行の林さんは手塚先生の信頼も得ていたし、またスタッフもそうであった。

手塚先生は誰にでもそうであったが、すぐに人を信頼する、そして、あの人は仕事ができるとか、任せて安心とか云うことを。本人ではなく、他の人に言う。他の人からそのことを聞かされた本人は、非常に感激する。手塚先生が人を上手に使うとか、思惑があるとかではなく、本当に心から信頼して言うのである。それが、世間知らずかも知れないが、大人の醜い世界を、知らないまま成長してきた、手塚先生の良さでもあり、弱点でもあった。人は、弱いもので、心から信頼されていることがわかると、私は手塚先生から信頼されていたのだ、と思い込む。自慢するわけではないが、他人が聞くと、自慢話になってしまう。こんにち、思い出話を語るとき、だれもが、いかに自分が手塚先生に信頼されていたかを、書いてしまう。読むほうは、この人もかと、うんざりすることもわからず。(ごめんなさい)

 完成試写は1スタ3階屋根裏部屋で開いた(もう時効だからバラすが、泊まり部屋としても使っていた、3階屋根裏部屋、押入れには、貸布団が入っていて泊まりの人にとって机や椅子で寝るのに比べれば最高に上等の寝室であった。
だが、ここは消防法違反であった。だから消防署の査察があることを、あらかじめ知るように手配していた。査察の時には布団を隠し、畳も上げてしまっておいたのだ。(総務課が苦労していた) そういえば虫プロでは掃除をしたことが無い、普通トイレ掃除や部屋の掃除をするものだか、朝パートのおばちゃんたちが来て掃除をしてくれていた。だから自分の身の回りと、暮れの大掃除ぐらいしか掃除をしたことを覚えていない。

 うわ~ずいぶん横道にずれてしまった。私の悪い癖ですが、林ちゃんが出てくる話に戻そう。林ちゃんだけではなく、よく、スタッフも出てくる、本人に似ているだけで、試写を見ている者に大うけした。その回の話が面白くて、みんなに受けたと思っていたのである。しかし、手塚先生が契約でアメリカへ行ったときの試写でフィルムを見せた時に、その場面では誰も笑っていないことに気がついた。
そのことを手塚先生が、演出家のための講演を開いた時に、身内だけでわかる笑いを楽屋落ちというが、「楽屋落ちは絶対にしない事」と自分の反省から演出家の卵たちに戒めていた。
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鉄腕アトムがアメリカで

2006年06月08日 22時02分33秒 | Weblog
昭和38年5月 穴見常務の尽力で「鉄腕アトム」はアメリカNBCと契約できる運びとなった。52本で2億円の売り上げとなる。1ドルが円周率の円と引っ掛けて360円もしていた時代である。(1949年4月23日、GHQは日本円とアメリカドルの交換レートを1ドル=360円と定めた。1971年に「スミソニアンレート」が採用された22年間維持された。)
その契約に、手塚先生が出かけられるのである。海外旅行自体大変なことで、洋行帰りということで、ハクがつく時代であったのだ。 バスを借りて社員一同で見送りに行った。
帰国した手塚先生は、朝礼の時に全員の前でおっしゃった。 「アトム」は隠語でおならの意味になるだから「アストロ・ボーイ」と言う題名になりましたと。

(今流行っている、韓国のテレビ番組 大長今(チャングム)のエンディングが「オナラ」である。時代は変わるのだと痛感する。)(苦笑)
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鉄腕アトムパイロットから

2006年06月07日 21時56分23秒 | Weblog
鉄腕アトムのパイロットフィルムを作った。しかし作曲がまだできない。そこで、手塚先生は、リカルド・サントスのホリデーインニューヨークをBGMに使用した 、その曲は、出来上がった、鉄腕アトム、パイロットのBGMにぴったりであった。見たものは、それがレコードからとった物だとは思わなかった。
よく、手塚治虫先生はクラシック音楽しか、聞かないと思われがちであるが、レパートリーは広く多方面の音楽を聴いていた。これもそんなエピソードのひとつ。

手塚先生は作曲の高井達雄先生に曲のイメージを伝えた。高井達雄先生は帰りの電車の中、曲を明日までにと言われどんな曲にしようかと、考えていた。電車の音が、ガターンゴトーンとシンコペーションを奏でていた。ふと、頭の中にメロディーが浮かんだ、タンタンたタータたーン 、膝のうえの五線紙に書き写した、てつわんあとーむのメロディーも浮かんだ。翌日他にも3曲作曲したが、手塚先生も気に入ったのは、この曲であった。子どもにはシンコペーションが難しく、覚えにくいと、反対もあったが、手塚先生は、これ以外にはないといって、主題歌は決まった。
広告代理店は萬年社 提供社は明治製菓 フジテレビのプロデューサー別所孝治氏は後の虫プロを支えるフジテレビのプロデューサーとなった。
アトムの声は清水マリさん。昭和11年生まれ俳優の「清水 元」氏の長女 俳優座第7期生。旦那さんは演出家だったと聞いていた。 鉄腕アトムの2年目長女が生まれた時に2ヶ月 田上和枝さんが代役したが。「アトムの声が違う」と苦情が殺到してしまった。
スケジュールの遅れからアフレコは徹夜となった 、そのことから「徹夜アトム」と陰口を言われてしまった。アトムは子供たちの心を捉え、大ヒットとなった。低い制作費のため赤字であったが思わぬ褒賞が入ってきた。 それが、キャラクターの使用料であった。 手塚先生はそれを自分の利益とはせず、社員に昇給や、臨時賞与と言う形で分け与えた、手元には何も残らなかったが、それでもうれしかったのだ。
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鉄腕アトムが始まる

2006年06月04日 21時31分12秒 | Weblog
手塚先生は自宅庭の西側に漫画映画制作のためスタジオを立てた。 手塚治虫プロダクションを虫プロダクションという名前にした。 それまで師の秘書として尽くした今井師を専務として迎え、 アトムの放送に尽力した萬年社の穴見薫氏を専務として迎えた。 「鉄腕アトム」の編集者の桑田氏がアトムを版権登録する時勘違いから、ご自分の名前で登記してしまった。むしぷろでは桑田さんに編集者をやめ虫プロの常務になってもらった。
鉄腕アトムは昭和38年の元日午後6時15分 フジテレビで「第1話アトム誕生の巻」が放送された。 何でも自分ひとりで、やってしまいたい手塚先生は、鉄腕アトムに、情熱を傾けた、そのため、絵コンテも描かず、スタッフは手塚先生の指示を待つだけで何も見えない何もわからない、つんぼ桟敷の状態に 不安を募らせた、「このままではアトムの放送は続けられない」 将来を思い煩ったのであった。
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手塚治虫とアニメ

2006年06月01日 21時15分10秒 | 虫プロ
手塚治虫先生はウォルトデズニーに崇拝していた。昭和二十五年初秋「漫画少年」の加藤謙一先生と劇的な出会いで、「ジャングル大帝」を描く事になるが、翌年
デズニーの「バンビ」が公開されると、加藤先生の長女、美紗子さんを連れ立って、朝から最終の夜まで何日も何日も、「バンビ」を見に通ったという。挙句は、美紗子さんに懐中電灯で照らしてもらい、スケッチまでしていたという。そして昭和26年には 鶴書房から「バンビ」を出版している。既に、アニメに興味を持っていたことは、うかがい知ることができる。 師の父、粲(ゆたか)通称北風さんは、かなりのハイカラな人であったと聞くその影響か、「蜘蛛とチューリップ」や 中国のフィルムの「西遊記 大魔王の巻」 など持っていたという。例えば昭和23年あたり発表の「ぴいこちゃん」など、そんな影響を受けているように見えてしまう。 そんな手塚先生が初台に居を移した頃、戦後初めて劇場用、漫画映画を作るためのスタジオを作った東映映画。その東映動画から「西遊記」の話が来た。「ぼくの孫悟空」それが手塚先生を、アニメ地獄の世界へ引きずり込む 事になったのでは。「西遊記」のときは、漫画原稿締め切りとの葛藤、思い通りにならない作業、など挫折感を味わったはず。しまいには、月岡貞夫先生や、石森章太郎先生に 代理を頼むはめにもなってしまったのだ。
手塚先生は原作などで、東映とは3作品関わることになったが、自分のイメージ通りにアニメを作りたいという、欲望は、媚薬のように師の体を包んで行き、生涯その束縛から解き放たれることはなかったのであった。
当時、長者番付の作家部門でトップとなった、納税者の手塚先生は、病が嵩じて、スタジオを持つことを夢見ることになり、練馬に居屋敷を構え、その仕事場にアニメの同志を6人を集め、屋敷の庭にアニメのスタジオを立ててしまった。そして昭和37年「ある街角の物語」を発表 あえてアニメと言う困難の道を進むのであった。
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