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真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

虫プロ外伝17

2007年01月07日 10時57分58秒 | 虫プロ
K子さんの傷跡は思いのほか深く、2人で合うことはなくなっていた、仕上の仲間たちと遊びに行くことが多くなり、送っていくことすらことわられていた。

そんな遊びに行く彼女らの後姿をしょんぼり見ている私に、笠井君が二三子さんを誘って食事にでも行けば、と二三子さんを紹介してくれた。そこから間違いが始まってしまった。多分天が与えた罰であったのであろう。気がつくと彼女はアパートに住み着いていた。自宅に帰るように言って仕事に出かけるのだが、帰宅すると居る。困り果ててアパートへは帰らなくなった、実家へ帰るか、会社へ泊り込んでいだ。

9月13日の土曜日笠井君に二三子さんから電話が入った、「私、睡眠薬を飲んじゃった」という内容であった、すぐに笠井君が私のアパートへ駆けつけ救急車を呼んで田無病院へ入院させた。連絡を受けた私も病院へ駆けつける、警察から事情を聞かれる。
少しでも休養をとるためすぐに寝られるように、病院の診断を受け、精神安定剤を貰っていた。何週間分を一度に貰っておいたので、7~80錠合った。最近はすぐ寝れるので飲んでいなかった。それを全部飲んでしまっていた。

 二三子さんのご両親と話し合った。気持ちの無いことを説明したが1年間でいいから同棲してみてくれないかと頭を下げられた。アパートへ帰らない日が続いた。

笠井君は合うたび「ごめんね」とあやまった。「気にするなよ」と答えた。K子とは、完全に終わってしまった。
1年罰を受けていた。ご両親とお話して、別れることになった。

笠井君は虫プロの仕事を続けていた、何かあると手紙をくれていたが、文面しか読んでおらず、中身を理解することができなかった。
また酔ったときに「別れても、合おうと思えば会うことができるけど、たけおとはもう会うことができないのだから」といわれたとき、胸を締め付けられた。

ベットから落ちて入院した、ということを聞き会いに行ったが、本人は「寝相が悪くて」と、ばつ悪そうに言っていた、あとで「あれじさつよ」という噂が耳に入ってきた、だまされていた。

海外旅行などにも行っていたらしく、メールを貰った。
笠井君からは、励ましの手紙ばかり貰っていた。

「ふしぎなメルモ」で手塚プロに移ってしまってからは、今までみたいに親身に面倒を見ることが出来なくなっていた。それでも虫プロ2階の笠井君のいる仕事場には顔を出すようにしていたが、K子も二三子さんもいて、居心地は前のようにはいかなかった。

独立すると忙しさに負け手紙をもらうだけになっていた。笠井君は虫プロが倒産しても、組合で頑張っていた。

アニメの世界から引退した。

友人から連絡が来た「笠井静子さんが亡くなった」と
葬儀に行った片山のよく知っている場所であったが、行ったのは初めてで、彼女の実家へ送って行った事が無いことを知った。

立ち木の陰にK子さんが立っていた、お互い気がついて軽く会釈した。
 それだけで、会話は無かった。

 ご両親にお会いした「おうわさは、かねがね聞いておりました、大変お世話になっていたそうで」
 自分に腹が立って、情けなかった。何がお世話だ、中途半端な世話焼きなら、逆に迷惑だっただろうに

2階の静子の部屋に通された。スリッパを出された、「チー子から掃除をしないよう言われていたので、ほこりだらけなので」と、事実ほこりの中に、内海君が使っていた、動画机が置かれていた。
本当にほこりまみれ、この部屋に持ってきてから、掃除をしていないことがわかった。彼が亡くなってから、時間が止まっているはやであった。

 その隣に、着物掛けに掛けて広げてある、花嫁衣裳が飾ってあった。

ご両親が飾ったのであろう、着る事の無くなってしまった花嫁衣裳。

 ご両親の無念が胸に突き刺さった。
  「親より先に、行ってしまうなんて」
 内海君の時にも聞かされた言葉

病名も聞かされたがそんなものはどうでもいい、笠井静子は内海武夫のあとを追いかけたのだ。
やっと迎えに来てもらって、笑顔で一緒に旅立ったのだ。

 部屋の隅でうずくまって涙を抑えようとしたが、あふれでる涙を止めることができず、いつまでも嗚咽を漏らしていた。

 その部屋の時間は、確かに止まっていた。

            おわり
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虫プロ外伝16

2007年01月06日 14時48分24秒 | 虫プロ
気丈夫だった笠井静子であったが、アパートで一人生活しながら会社にも出ていた。しかし、生活態度が荒れてきた。深夜までお酒を飲み内海君の幻影を追って、泣き、叫び、狂舞して「私も連れてって」とさけぶ、そんな日が続いていった。アパートにも帰らず、朝まで飲む日が続く、心配して多くの仲間たちが彼女に着いていることとなっていた。

前後して、アパートを借りていた。睡眠だけは贅沢しようと、セミダブルの高級ベットと、部屋には、当時としてはかなり贅沢なエアコンも取り付けた。おおきな本棚と冷蔵庫、ソニーのトリニトロンカラーテレビも買った。

 ある日、たぶん夢であったのであろうが、はっきりと見た、今でも鮮明に覚えている。
 おばけや幽霊に関しては、弱いほうであった。あれが、夢枕に立つと言うのであろうか。左横をむいた、内海君が何も言わず立っている、後ろから光が当たっているので、シルエットしか見えないが、青白い光の中に浮かんだその影は、紛れもなく、内海君であった。
不思議と、まったく、恐くなかった。声をかけたかったが、あれが、金縛りに合うと言うのであろう、声も出ず、体も動かせなかった。

ベットの上で上半身を起こした私は暫し呆然となっていた。今見たものが、現実なのか夢なのか、その、さかいがわからない、時間が動き出しているのがわかったことだけは確か。
内海君から何も語られなかったが、「許された」と感じた。「ゆるして」といってもいた、頼まれたようにも感じた。いつまでも悔やむことを、終わりにしなければ。

真夜中ドアを叩く音で目が覚めた、ドアを開けると笠井君がかなり酔って立っていた、タクシーの運転手が気の毒そうな顔をして立っていた、料金を払ってあげた。
 仲間たちと、例によって飲みに行っていたらしい、一人で帰れるからとタクシーに乗ったが、さびしくて、アパートには帰れず、私のところに来た、という事がわかった。
 酩酊状態で、「たけお」の名を呼び、「なぜ一人で行ってしまったんだ」「私も連れてってよ」とさけぶ。近所に迷惑である、声を抑えるよう頼む。
 ただ抱きしめてやるしか出来ることが無かった、やがて深い眠りに付く、そのままベットに寝かせてやった。
朝まで見守り、ガラステーブルに、「先に会社へ行く 自由に使って」とメモを置いて会社へ出かけた。

 帰宅するときれいに片付けてくれてあった、ガラステーブルの上に昨日のお詫びのメモが置いてあった、追伸PSごちそう様と書いてあり、ひとが大切に飾ってあった、VSOPの空ビンが、置いてあった。

そんなことが、何度かあった、調べて見ると作画の新田君も被害を受けている一人とわかった。
新田君と協力して2人で見張ることが多くなった。

6月に入った頃、新田君のほうが倒れてしまった。笠井君に協力して,付きっ切りで看病する、初めのうちは、笠井君が酔って倒れてしまっていると連絡を貰い、新田君のアパートで,笠井君の看病をさせられたりしたが、内海君の事が、思い出されるのか、献身的な看病をし、食事を作ったりもしてくれるようになった。
看病に夢中になり、飲む事もなくなりすっかり立ち直るかに見えた。
ある日新田君が咳き込み始めとまらなくなる。主治医の西田さんへ検診をお願いするが、すでに寝てしまっていた。ちょうどそこへ丸山君が来ていた、西田先生の奥さん二人の協力を得て、西田先生に診てもらう事ができた。
 丸山君とはマッドハウスの丸山さんで当時から表立つ、ということは無く、それでいて、いざという時、適切な行動をする人で、とても頼れる人であった。
この日は早朝7時に再度西田先生が来てくれて、診療してくれている。
そのご笠井君は実家のほうへ帰り、新田君は石神井の小山病院へ入院し病院へ見舞いに行く日が続いた。

6月13日夕方笠井君と内海君の実家へ行っている、着いたのは10時半ごろで、思い出話をして、12時過ぎに内海君の家を出ている、1時半には帰宅しているのでこの頃の交通状態がわかる。

新田君は、まだ退院できなかったが、虫プロでは、平常な状態に戻っていった。笠井君も休まず仕事をしていた。
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虫プロ外伝15

2007年01月05日 10時43分04秒 | 虫プロ
そのごは
5月17日日曜日1話の撮影出しのため泊り込む、仕事手が付かなかった。

5月18日月曜日 仕事をしているときは良いが、誰のいなくなると一人だけの部屋 後悔だけが残り、あふれ出る涙を抑えることができない家には帰らず。

5月19日火曜日 雨の音を聞きながら涙を流している、仕事に専念すればよいのだが、忘れられない。

5月20日水曜日作画の瀬山さんが部屋へ尋ねてくる。心配して、話を聞いてくれる。「暎一さんも、見損なった、あんなやつだとは思わなかった」といっている、早く立ち直って仕事に専念して、頑張ってくれ、と励まされる。K子と話し合いたいか、K子も悔やんで自分を責めている。友人たちと、常に行動していて、2人だけ出会えない。

5月21日木曜日笠井君から電話あり、逆に慰められる。金曜日にたけおの会社においてある荷物を整理してたけおのアパートへ運ぶのを手伝ってくれるようにと頼まれる。

5月22日木曜日 K子の態度からK子との別れの予感を感じた。

5月23日金曜日 家に帰り昼まで寝ていた。笠井君と会い、一緒に内海君の荷物を整理して、アパートへ運んでいく。 アパートはこのまま借りて一人でくらしていくという。表札には、家海武夫、静子と書いてあり、内海君の下駄が、玄関目立つように並べてあった。「1人じゃ恐いから」と静子はいった。あした5月24日は結婚するはずだった日。
これ以後日記は書かれていない。

前に内海君たちとの会話で、「小説でも書きたいな」ということを言ったことがある。「でも平凡な生活をしてきたから、書くような出来事が無い、何か大恋愛とか悲恋とか起きてくれれば書けるのに」と話したことがある。
そのことも、引っかかっていた。こんなことになるなんて、私は望んでいない、変な望みを持ったものだから、こんなことになってしまった、と自分を責めた。
そして日記すら書けなく、否、書かなくなってしまった
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虫プロ外伝14

2007年01月04日 00時09分41秒 | 虫プロ
―挙式10日前に婚約者が無残にも・・・・・・
悲劇の花嫁を生んだ “あしたのジョー”殺人事件

テレビの漫画、劇画番組が週刊13本。空前のアニメ・ブームのかげで、現代の花形アニメーターたちは、疲労の極み達してバタバタ倒れてゆく。ある者は自ら首をくくり、ある者は挙式の10日前、婚約者の女性に見取られて,,,,,,,,

「すいません」と同僚に 遺書であやまりながら自殺
年齢プラス10がアニメーターの健康状態。年齢カケル1000がアニメーターの給料。そういって彼らは自嘲する。トシより10も早くふけるほど体をすり減らして働いても、収入はそれほど少ないということだ。吉村豊さんは、この一月に自殺したとき21歳、給料はちょうど年齢カケル1000の2万1千円だった。もともと肉親の縁が薄くおじの手ひとつで育てられ絵とギターだけが趣味。さびしがりやの青年だった。3年前、大手アニメ会社のひとつTCJ動画センターに入ってからは、仲のいい友達もできて喜んでいた。
 ところが、ちょうどその頃から会社の合理化が始まり、自分から見切りをつけてやめて行った者を含めて、最盛期には200人からいた人員が、ほぼ半減してしまった。吉村さんは、これでまずショックを受けた。
 アニメーターは、人物、背景、彩色の3部門に分かれる。吉村さんは、テレビ漫画『さざえさん』の背景画を描いていた。きわめて単調な仕事だった。
 吉村さんは夢を海外旅行に求めた。むろん2万1千円の給料の中から海外旅行の費用を貯めるのはむりだ。吉村さんは、この正月から、朝の牛乳配達のアルバイトを始めた。「今年はがんばるぞ」と、彼は珍しく明るい顔で、同僚にこう。宣言した
 だが、ただでさえ疲れやすい仕事にアルバイトはむりだった。たちまち風邪をひいて、1日会社を休んだ。翌日、横浜のアパートの隣にある寺の境内で縊死している彼が発見された。
 鉛筆の走りがきの遺書があった。
 「どうも大変なことになってしまい、すいません。どう、おわびしたらいいのか、本当にすいません。今の会社はきびしすぎる。僕は負けた。みなさんには本当に、本当に、大変な迷惑をおかけして、どうおわびしてよいやら、本当にすいません。今まで、いろいろとおせわになってきて、こんなあだでかえすとは、本当に僕はダメな男です。うちの会社、他の会社はしらないが、ヒドスギます。アルバイトしなくては食べていけない給料、そして、みんなをバラバラにしている合理化。僕はそれに負けました。そして、自分に。本当にすいません」(原文のまま)
 短い文章の中に、「すいません」という言葉が4回もくり返されている。

 寝返りで険悪な対立!
   「巨人の星」対「赤き血のイレブン」
「アニメーターは季節労務者だ」と、あるテレビのプロデューサーはいう。
 4年前、『鉄腕アトム』をきっかけにして、テレビに第1次アニメーションブームが起こった。『オバQ』『エイトマン』『鉄人28号』とテレビ局どうしの過当競争で、かんじんの子どもたちにあきられ、ブームはやがてつぶれる。自殺した吉村さんの会社で、大量人員整理があったのもそのころだ。
 
だが、去年から始まった『巨人の星』の人気に刺激されて、第2次アニメブームが訪れる。前回の漫画ブームなら、今度のは劇画ブーム。アッというまに少年週刊誌の人気劇画はほとんどアニメ化されて、その数はなんと13本。「アニメが入れば視聴率15%は固い」の合言葉で、秋の番組改編期には、18~19本になるだろうといわれている。
 アニメ会社はさぞ景気がいいだろうと思うと、これがそうでない。大手は虫プロ、東映動画、東京ムービー、TCJの4社だが、スタジオに毛の生えたような小さい会社は無数にあって、これまた猛烈な過当競争を演じているからだ。
「こういう気違い沙汰は早くやめなくちゃ」と、読売TVの佐野プロデューサー(『巨人の星』『タイガーマスク』担当)はいう。「アニメ会社は、自分のところではとうていこなし切れないから、下請けに出す。それも、どうしても絵のうまい人のところへ集中するから、局も製作会社も違うのに、『赤き血のイレブン』の主人公と『あしたのジョー』の矢吹丈がそっくり同じ顔になってしまうというようなことも起きる。また、同じ日本テレビのなかで、『赤き血のイレブン』を新しく始めるに当たって、少し高いギャラを払うといったところ、『巨人の星』の下請けプロのひとつがさっそく寝返ってしまい、部内での険悪な対立が起こったりする。こういう状態だから、仕事はどんどんおくれ、本来なら2~3週分のストックがなければ無理なのだが、それができない。
あるテレビ局では、放映3日前にやっとあがって試写をやる始末。車が逆に走ったりして,おかしなところが続出しても、なおしている暇がないので、そのままほうえいしてしまった。
 当然絵の質も落ちる。子どもはそういうものには欺(だま)されません。すでにそういう投書もきている。このままでは今後もアニメ・ブームは急速にポシャってしまうんじゃないでしょうか」
 テレビ局、アニメ会社の過当競争は最後にはアニメーターにシワ寄せされる。
デズニーの漫画は、1本の製作費が約10万ドル。日本はその十分の一。しかもアニメーターの人件費が全体の7割を占める。採算をよくするためには、人件費を切りつめるしかない。アニメーターの給料は最低限のところで押さえられる。彼らはやむをえず労働時間を延長し、家に帰ってからもアルバイトをやる。
 こうしてアニメーターはふつうの人より10年早く年をとってゆく。アニメーター界のシニセ「虫プロ」でも、それは例外ではない。

 結婚式で披露される
         はずだった自作の詩

 虫プロのアニメーター、内海武夫さん(27)は、今年に入ってから体のぐあいが悪く、仕事も休みがちだった。
 直接の原因は、去年、虫プロで製作した劇場映画『千夜一夜物語』にあると思われる。上映期限に追われて、ほとんど二ヶ月も徹夜が続いた。スタッフの中には、体をこわしていまだに休んでいる人が2~3人いる。

 幸か不幸か、内海さんは頑健な方だった。顔も体つきも、殺しても死にそうもない感じ。自分の健康への過信もあったのだろう。『千夜一夜物語』のあとは、引きつづいて『あしたのジョー』のアニメーションを担当していた。『あしたのジョー』はアクションが売り物。それだけ描く絵数も多く、疲労に輪をかけた。

 ビヤボヤしていられない事情は、ほかにもあった。去年の6月職場に笠井静子さんという彩色の女の子が入ってきた。『千夜一夜物語』でいっしょに仕事をしているうちに、意気投合し、千夜一夜があがってから、一週間ばかりの休みの間、オトキチの内海さんはオートバイの後ろに笠井さんを乗せて旅行に出かけた。

 休みが明けたある日、内海さんは、同僚で、ギターの弾ける下さんに詩の草稿を示し、「これに曲をつけてくれないかな」と頼んだ。

 キミがお嫁に行くときは
   丸い鏡を贈ろかな
 なぜって、キミのふっくらした
         その顔が
 鏡からはみでると
         もたいないもん

 正確には、「キミがお嫁に来るときは」でなければならない。すでに婚約が整っていたのだ。できあがった曲は、二人の結婚式のときに披露されることになった。

 結婚指輪を握りしめて
  息を引きとったあのひと・・・・

 結婚式の日取りは、5月23日ときまった。新婚旅行はレンタカー・ドライブときめ、内海君は四輪の免許も取った。アニメーターらしく、オートバイにのった二人のマンガを入れた結婚招待状もできあがった。

 ところが、5月に入っても、内海さんの体のぐあいは思わしくない。かえって顔にむくみさえ出てきた。さすがに病院ぎらいの内海さんも、やっと医者の診断を受ける気になった。その結果、東久留米の下宿で静養を命じられる。笠井さんも会社を休んで、つきっきりで看病することになった。

 静養といっても、内海さんは体を伸ばして寝ることができなかった。横になると吐き気がするのだ。いつも仕事場で休むように、ツクエにもたれかかっているより仕方がない。

 5月には結婚式の司会を頼まれている下さんが、その打ち合わせのためにアパートを訪れたときも、内海さんはそのままの姿勢で顔も上げなかった。だが声だけは以外に元気で、「あと一週間もしたら仕事にでられそうだ。いろいろみんなに迷惑をかけたな」と言った。

 だが、よく3日は、夕食の最中に容態が急変した。笠井さんに初めてふとんをしいてもらって横になった。とたんに胸を抱えるようにして苦しみはじめたと思うと、急に静かになった。
すでに唇の色が変わっていた。
 笠井さんは、式の日のために用意してあった結婚指輪を押入れから出してきて、内海さんの指にはめてやった。内海さんは、それを握りしめるようにしてみるまに息を引き取った。

 直接の死因は心不全。だが、心臓だけでなく、内臓のすべてがガタガタになっていたようだ。

「郷里の八街(千葉県)で行われた葬儀では、みんな、声をあげて泣いた」と、下さんはいう。

「ぼくは、これからアニメーターになろうという人には、ぜったいにすすめない。そのくせ自分はこの仕事はやめられない。絵が好きだということもあるが、なによりも人間関係がすばらしいからです。1日24時間、同じ職場で苦労をともにしていると、みんな肉親以上の関係になる。それだけに、体のぐあいが悪いときも、自分が休めば、みすみす仲間の誰かに迷惑がかかるとわかっているだけに、休むのがつらい。そういう仲間意識が内海君の命を縮めたともいえるんですが・・・・・・」

“練馬の不夜城”といわれる虫プロのアニメーターたちも、さすがに「10時以後の残業は自粛しよう」ときめた。だがそれからひと月近くたった今、虫プロの建物は、相変わらず12時過ぎまでコウコウとあかりがついている。

 ただ、仲間であり婚約者である内海さんを、結婚10日前に奪われた笠井さんは、いまだに、二人の新居になるはずだったアパートにこもったきり、ほとんど外出さえしない。

以上週刊明星(通巻第621号)昭和45年6月21日号から、ほとんど原文のまま掲載いたしました。
 当時この記事には間違いだらけで不満もたくさんありました、最後の部分でもまったく実情を掴んでおりません、虫プロでは10時では残業と言う感覚はありませんでした、ですから10時以降の残業は自粛なんてことはありえず、深夜までの残業自粛で、貫徹はやめようであります。相変わらす12時までではなく、スタジオに人がいなくなる事はありませんでした。
でも録音機材の無い時代でした。長澤さんは、取材メモを取られるだけでこのような記事を書かれたわけです。
現代録音技術の発展により、大変便利になりましたが、ただ声を録音して、文字に変えるだけ。対象者の心の中を掴んでいない取材が多々見受けられます。
このようなプロの記者がいなくなってしまったことに、悲しみを覚えます。
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虫プロ外伝13

2007年01月03日 13時10分37秒 | 虫プロ
9時目を覚ました。体内時計と言うのであろうか、服を着たまま寝ると9時に目を覚増すことができたのであった。
歯を磨き、顔を洗って、第1スタジオの、タイムレコーダーを押して戻ってきた。
2階で皆に朝の挨拶を、と2階の階段を登りかけると、上から牛越さんが血相を変えて降りてくるのにぶつかった。
「ね、内海ちゃんが、死んだって聞いた」

「牛ちゃん、言っていい冗談と言って悪い冗談があるんだ、何、言ってるんだ、きのう、病院行けって怒鳴りつけてきたんだぞ」
と今にも殴りかかれんとして怒鳴った。
「嘘じゃないんだ」
目から涙があふれ出ている。
「嘘じゃない、ほんとなんだって」…….。
「昨日11時半ごろだって、笠井君から連絡あって、オヌシたちが駆けつけたって。オヌシ行ったままだって」
牛越君の涙で冗談でないことがわかり、車に飛び乗って、牛越らと内海のアパートへ向かった。頭の中が真っ白でどこをどう走ったのかもわからない。布団に寝かされた彼は、きれいにひげがそられていた、合わされた手元に、短刀が置かれていた、笠井君がここまでやったんだ、気丈夫だなと感心した、涙があふれた。枕元にお線香まで置かれていて、お線香をあげそして手を合わせた、静かな寝顔であった。


 武夫は今までの苦しさが遠ざかっていくのを感じた。まわりがとても静かであった。静子がお勝手で何か、こしらえている音だけが聞こえる、2人で行った、海や川、の思い出かよみがえる、まだ1年にもならない、二人の交際であったが、深い愛情を感じていた。そして時が止まっていた。彼女が作ってくれた、おかゆを一口食べさせてもらう、苦しさはもうない「少し横になる」と彼女に言った、彼女が手を添えて寝かしてくれた。横になるのは何日ぶりかであろうか。苦しみが走ったが、スーッと消えていく、とてもいい気持ちで、彼女に抱かれ、眠くなり、意識が薄れていくのがわかった。

静子はいつも、そうしているように、机にうつ伏せでうとうとしている武夫の足元に、寄り添っていた。武夫が起きたようなので「何か食べる」と聞いた、小さくうなずいたので、いつも食べてもらえない、おかゆを作った。ふうふうと、冷ましてあげながら、ひとくち食させた、武夫が「すこし、よこになる」といった。もう何日もふとんで寝られなかった武夫が「ねかせて」というのに驚いたが、手を添えて布団に寝かせてあげた。このまま布団で寝られるようになれば、からだの疲れも取れ、病気も早く直るのではないかと、少しうれしかった。
夜の11時をすぎていた、静子も看病で疲れていた、武夫の横に寄り添っていた。
武夫が、苦しんだので驚いて起き上がる、武夫を見ると死んだふりをしている。
これはだいぶ良くなったのだ、「ふざけて、死んだふりしてまた私を脅かそうとする」と静子は言った。
 同棲し始めの頃、武夫が死んだふりして、おどかしふざけることがあった。わきの下をくすぐったり、おなかをつねったりする、すると我慢できなくなって、起き上がり、抱きしめてくれた。
そんな思い出が、頭に蘇った。
元気になってくれたのだ、うれしかった。すぐにやさしくつねり、わきの下をくすぐったりした。しかし、何の反応も無かった。こんなには我慢できないはず、驚いてほほを叩いたが、まったく動かなくなっていた。表情は穏やかであった、武夫の顔を覗き込んでただ見ていた、頭の中が真っ白で、世界がとまっていた、何も考えられず、何が起きたかもわからない、ただ、時間が止まっていた。

ふとわれにかえり、ドアを開け外に飛び出し、備え付けの公衆電話へ走った。小銭を持っていないことに気が付きあわてて戻って、茶だんすのなかの小瓶をつかみ電話へ走った。震える手でなかなか小瓶のふたが開かない、取れたふたが階下へ落ちていく、まるでスローモーションを見ているよう。小銭を落としながら、10円玉を電話にいれ虫プロへ電話を入れた。


虫プロ2スタ、作画の進藤さんの班が残業をしていた。進藤さんはその口癖で「おぬし」と言うことからオヌシ呼ばれ、兄貴分としてスタッフから慕われていた、作画のチーフであった。
近くの夜間用の電話が鳴った、進藤さんが電話を取ると「内海ちゃんが、死んじゃった」泣き声と、震える声で、その内容を理解するのに時間がかかったが、笠井君からの電話だとわかった。
回りのスタッフに知らせ何人かを車に乗せて、内海のアパートへかけつけた。開けっ放しのドアを開けると内海君のそばに放心状態の笠井君がへたりこんでいた。
すぐに救急車を呼んだが、あとで検視が来るといい、そのまま帰ってしまった。
笠井君に内海君の実家の連絡先を聞き実家へ連絡とったり、そのほかの指示もてきぱきと部下に指示していく。お線香をあげるものを用意させ、焼香し手を合わせ落ち着いたところで、顔を見ると、無精ひげが伸びたままになっている。かみそりを持ってきて、やさしく剃ってあげる、両手を合わせ、小刀をのせてやった。実に落ち着いてそれら、思いつくことすべてをしてあげた。


検視があるというので、笠井君を残して外に出された。公衆電話から会社に電話してK子に連絡した。すぐ迎えに行くことにして会社まで迎えに行った。アパート向かう車中で「強引にでも病院へ連れて行こうって言えばよかった」、「救急車呼んでって言えばよかった」と叫び続け泣いていた。アパートに着いたがしかし、そこには、内海君はいなかった。検視が終わり、連絡を取った、家族が八街の家につれて帰ったとのことであった。4時過ぎ手塚先生のお母さん、K子エノチャン、増田さんを乗せて八街の内海君の実家へ向かった。
5月15日金曜日は友引なので、葬儀は16日になった。結婚式場をキャンセルをした。
5月16日土曜日実家で葬儀が行われ、手塚先生始めたくさんの虫プロのスタッフが参列した。赤いブルーバードを一目見せようと、葬儀には1一人で行った。「内海君は少し笑っているみたいだった」と日記には書いてありひと月後には日記を書くのをやめてしまっている。
K子との交際が停止した。

数日後総務から電話で週刊明星の記者が内海君のことで取材したいと来ている、内海君の親友ということで、君を紹介したので今から、そちらに連れて行く」と連絡があり。集英社週刊明星編集部、長澤潔さんの取材を受けた。
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虫プロ外伝12

2007年01月02日 10時54分47秒 | 虫プロ
内海君のアパートは東久留米にあった。電車で通っていた内海君らは東久留米の駅で降り、連絡橋を渡り、のぼりホームの北に一箇所しかない改札口を出て、駅の狭い道を池袋方面に戻る、道が狭いのでバスを回転させる装置がある。ホームの端なでいくと、車が1台やっと通れる一方通行の踏切がある。駅員が見ていないとここからホームに這い上がるものもいた。駅の西に住んでいる者は、北側のバスが通れる踏切か、この狭い踏切を渡らなければならなかった。駅の西側は、広い畑が続いていた。踏切を渡りすぐ左折して、道なりに歩き、変電所の先の坂をくだりきったところで、落合川にぶつかる、近くには竹林公園があって、山にでも来たような錯覚になる風景であった。つい先ごろには川沿いに桜の花が咲いていて、その木の下でお花見をしたことが思い出された。
橋の手前左の畑の中に、狭い道が続き、奥に2階建てのアパートが一軒だけ建っていた。左の鉄の階段を上り一番奥の部屋が、内海君の部屋であった。

車で行くと、所沢街道から六角地蔵を右に行き、笠賭松の坂を下り、落合川の橋の先を右折してまっすぐ行くと、突き当たりの畑がそのアパートのある畑であった。

畑に乗り上げるようにして車を止め、K子と内海君のアパートへ行った。
小さくノックして名前を告げると、しず子が出てきた。内海は机の前に腰掛けてすぐれない顔色をして振り返った。
「寝ていなくって良いのかい」と訊くと、彼のかわりに「横になると、苦しがって、はいてしまうので、椅子に座ったまま、ずうっと寝ているの」と、しず子が答えた。
寝ようと思って布団に横になると苦しくて眠れない、こうして、椅子に腰掛けていると楽なんだといっていた。

しず子とK子がお茶を入れて、テーブルにおいた。
内海君は椅子に腰掛けたまま机に寄りかかってこちらをむいている。ひげも剃れないらしく、無精ひげがのび放題であった。

結婚式の打ち合わせになると、少し元気が出たらしく近くの自動車教習場で免許を取った話や、新婚旅行車で行くのに、まだ運転が不安など冗談を言った。

「もう、一週間も無いんだから、まず、病気をなおさなければ」と話が体の心配に移る。
「私も何回も、病院にいくように勧めているんですが」としず子
「病人でみてもらったの」と尋ねると
「前に一度山田さんに」
だいぶ前に見てもらっただけという。
「町医者じゃだめだ、もっとおおきな病院で検査してもらおう」
「また山田さんで見てもらうから」と内海君が言うが
「いや大きい病院で見てもらったほうが良い、行って来いよ」
「かれ、病院嫌いなんで」しず子が困りきって言う。
「小さい医者じゃなおせないんだから、田無の大きい病院へ行こう」つい声が大きくなる
「隣が」と声を落とすように。窘められる。

「バイトなんかも、しちゃあだめだ、今はまず、なおすことが第一、式の資金で心配してるんなら、そのぐらいならなんとかできるよ」
「人に迷惑かけたくないって、2人だけで何とかしよう、頑張ろうって」としず子
「馬鹿野郎、めいわくかけたって良いじゃないか、友達だろう、もっと迷惑かけろよ」
つい声が大きくなってまた注意を受ける。
「今、バイトはしてないわ」しず子
「できる状態じゃないんだろう」

「甘ったれてないで、病院行って来いよ」
また昂奮して大きな声となった。
「そんなに、怒んないで」弱々しい声で、彼が謝る。
気が付くと、時間はすでに12時を回っていた。
「彼女だって、心配でしょうがない、このままじゃ、結婚式だってできないぞ、あした、必ず、病院行って来いよ」
「うん、必ず行くよ」彼が答えた。

ドアまで、しず子が送ってくる。
「彼、必ず行くって言ってるから、心配だろうが、頼むね」といってアパートをあとにした。

K子を送っていく、車の中で「なぜ、強引にでも病院へ、連れてかなかったの」とK子が行った。「二人の問題だし、いろいろあるのかもしれないし、そこまで強引にはできないよ」と答えた。
「救急車でも呼ぶとか」
「うーん…….。」どうも歯切れが悪い、K子がいらいらするほど、優柔不断である。K子の家を超えて深大寺まで行く、そこの駐車場へ車を止めて、話し合った。


ドアを叩く者が居た、自転車に乗った2人の若いおまわりさんだった。
「こんな遅い時間、どうかしましたか」と一人が尋ねる。不審尋問である。
「話をしていました」
「今、凶悪犯が、この辺をうろついているという、情報が入って、警戒中です、危険ですので家に帰ってください」と言うのであった。それは、嘘の情報と言うことは、わかっていたが、車を移動しなければならなくなった。
K子の家に着いたが、すでに電気は消えていて、家族は寝ているようであった。
内海君のことで、話がぶり返し、近くの道路に車を止めてまた話し合っていた。前に車が止まった、おりて来た男が何か因縁をつけてきた。助手席にの一人乗っていたが、動く様子は無かった。少しいらだっていたので、車から降りて、相手と向き合った、酔っているようにも見えたが、因縁をつけてくる、つじつまが合わないことを行ってくるのであった。
後ろに車が止まり、男が優しそうな声で、「どうかしましたか、」と声をかけこちらに歩いてきた、「この人が、変な因縁を付け」
助けが来たと思いながらそう、答えたがその男右手に、棒のようなものを隠しているのがわかった。運転席に飛び乗り、止めようとする、先ほどの、男をすり抜け逃げた、カンはやはり当たっていて、2台が追いかけてくる。2人はぐる、4人で追いかけてきた。まくのは簡単だった、いつも銀行からの、給料運びでなれている。(過激派に付け狙われたらしい?)
K子を家に送ったときは夜も明け7時になっていた。「今日徹夜で撮影出しがあるので、会えないね」といってわかれた。

まったく最低である、自分に腹が立った、もっと決断力を持たねばいけない、痛いところを突かれて腹を立て、その上喧嘩をしそうになり、それが暴漢で襲われるところだった。K子を危険な目にあわせるなんて、最低な男だ、と自分を責めながら会社に戻った。

山本暎一さんが、お見えになったところで、「日本誕生」の撮影だしが始まる。だから昨夜集めておいた、背景とセルを会わせておかなければならなかった。その作業に取り掛かり昼前から撮影出しを始めた。9時近くまで撮影出しが続き、暎一さんは、疲れた体を癒しに仲間と飲みに行った。栄一さんも最近疲れからか足を引きずっているように見える、私も捻挫で痛めた足を引きずっている、捻挫ってうつるのかな、出かける暎一さんの後姿を見て思った。

あしたのために、仕上外注から集めたセルと、背景さんから、上がってきた背景を、あわせる。本来なら、演助がやってくれる仕事だが、「日本誕生」は、私一人である。11時ごろ、2階で何人も暴れているような音が聞こえたが、いつもの事、と気にも止めなかった。
「日本誕生」の部屋は第二スタジオ1階の一番奥の部屋で、尋ねてくるものもいなかった。
撮影出し準備の作業を続けていた、それにしてもいつまでも2階がうるさい、注意しておこうかなと思ったが、体が疲れていてその元気もなく、椅子を並べて4時前寝てしまった。
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虫プロ外伝11

2007年01月01日 00時00分01秒 | 虫プロ
軽自動車のマツダファミリアを乗っていたが、八木自動車の小尾さんがブルーバードの中古車を探してくれ購入した。ブルーバードは入社したとき使用していた車種で愛着があり、探してもらった。 父が車の塗装工場に勤めていた。テレビで自動車レールの放送がされたとき、クラシックカーのレースがあった。ミッキーカーチスさんがMGの箱型スポーツカーで出場していたが、その車を父が塗装しなおした、と自慢していた。このブルーバードはきれいに板金され、バンバー類を、鍍金にしなおし、父が、全塗装してくれることになった。当時まだ原色のカラー塗料がなく、たくさんの色見本から、MGとおなじ赤色を選んだ。
 内海君その彼女のチー子、そしてK子と新日本会館へ打ち合わせなどに行った、花嫁衣裳はチー子のご両親が作ってくれたことを始めて知り、実家のあるので、今度K子に見せてくれるという、「見せてもらおう」と言うと、「男性は当日見て」といいことわられる。1,000円の会費では、とても出来ない、当然持ち出しとなる。仲間が来てくれれば、来てもらえるほど、持ち出しが増え、出費が重なる、「でも一生に一度のことだから、バイトをしてでも頑張っちゃう」と彼が言う、そばで見ている彼女の目が輝いている。
父の会社は白金町にあった、が近くの日産の車両集積所へ出向していた。休みの日であったが、父一人で作業していた。社内の椅子やシートなど取り外す作業を手伝った。チー子とK子はそばで見ていた。音楽を聴きたいのでプレーヤーをつけることにして持っていっていた。この頃は、まだエイトトラックテープというものであった。ブルーバードはプラスアースなので、マイナスアースのオーディオはそのままで取り付けることは出来ず、壊れた机の木材を利用し、ボディーと隔離し、プラスとマイナス線を引いて取り付けた。後ろのボディーまで配線して、スピーカーも取り付ける。
結婚式までには、完成するので、「式が終わってホテルまでこの、真っ赤なブルーバードで送っていこう」などの話で盛り上がった。
今月に入って、内海ちゃんが休むことが多かった。結婚式で大変で、バイトしているのだろうと思っていたが、チー子にそのことを尋ねると、本当に具合が悪いとのこと、あまり張り切らず、虫プロの伝統で結婚式は皆が手伝ってくれるのだから、無理をするなと小言を言いながら、内海ちゃんのアパートまで2人を送り、K子を送って行った。車の中で「内海ちゃん、疲れているみたいね」とK子が言った。

5月8日金曜日手塚先生のお母さんから電話が入り、内海ちゃんの結婚式実行委員会に集合がかかった。休みがちだった内海ちゃんたちが来ていたから、最終的な打ち合わせをするためであった。受付は制作事務や総務課の女性人が、担当してくれることになり、それまでの出席者の確認もしてくれることとなった。ある程度のことがまとまった頃、仕事が一段落した手塚先生も顔を出した。
機嫌がよくいろんな話をしたが、忘れた、ひとつ覚えているのはアトムのことで、「アトムはぼくだ」と言うことであった。「アトムを、ローマ字で書くと、ATOMUだよね、治虫をローマ字で書くと OSAーMU 治OSAをぼくの得意なひっくり返すとASOそしてMU、ASOMUてゴロが悪いのであるファーベットでSを次のTにした、するとATOMU、手塚のTでもあるしゴロも良い、アトムを辞書で調べると原子のこととわかったし、これはいいとアトムにしたんだ、だから、アトムはぼくなんだ」こんな冗談であった。
「当日はぼくも出席できそうだ」といってくれ、仲人役のお父さんお母さんを一緒に乗せ、車で来てくれる事になった。

「先生が遅れるときは、司会者と仲人が遅れるわけには行かないので、私の赤い車でお送りすることにしましょう」と申し出た。

「そういえば、まさやんの結婚式のときだっけ、やっと買った新車なのに、皆がポスターカラーで、色とりどりにいたずら書きを書いて、」
「その上車の後ろ、バンパーやマフラーに空き缶をたくさん吊るして」
「皆に手を振られて出発したがその派手なこと」
「ガランガランて、空き缶が大きな音を立て、まさやん仕方なさそうに走っていったが、みんなは、腹を抱えて、大笑い」
そんな話が出て、皆が思い出して、笑った。
「そのあと知ってる?門を曲がって見えなくなったところで、ガソリンスタンドに入って、二人で空き缶をはずしたって」
「そうだったんだ、あのまんまじゃ、ホテルまで行けないよな」
「そして2人で車のいたずら書きを消したんだって」
「二人でやった初仕事がそれじゃ、あんまりだよね」
「ところが、彩色のペイントで書いた馬鹿がいて、」
「仕上のペイントって、消えないよ」
「だから袖口はびしょびしょ、靴もびしょびしょ」
想像してして、皆が腹を抱えて笑っている。

「そういえば気をつけないと、りょうちゃんの、結婚式だっけ、式が終わって、玄関まで見送られたあと、男性陣が新婦を胴上げするよね。奥さんに思いを寄せてた、おとこどもに、うらまれてか、胴上げで、天井にぶち当てられていた」
「米をまわよね、そのお米を思いっきり投げつけられていたわよね、」
「それって胴上げの写真に、写っていたよね」
「そうばっちりと」
「ねえ知ってる、そのあと、りょうちゃんが、お尻が痛いので、ホテルのお風呂の、おおきな鏡で見てみたんだって、そしたら、三つずつきれいに並んだ、あとがあったんだって」
「それってさっきの写真に写ってるんだってよ、ホークを持った手が、りょうちゃんの胴上げされて落ちてくるお尻のあたりに待ち構えているんだって」
「えっ知らなかった今度よく見てみよう」
また大笑いする。
「内海ちゃんも気をつけたほうがいいよ、一年足らずで結婚なんて、恨まれているかも」
そんな脅しをかけて、また笑う、気のいい仲間たちであった。

2人をアパートに送りながら、「皆に迷惑かけて申し訳ない」と言う彼に「結構皆は楽しんでいるんだ、迷惑なんて思ってるやつなんかいないよ、逆に喜びを分けてもらって、今日だってみんな喜んでいたじゃないか」と言った。
またやつれたように見えたが、「バイトもほどほどにしとけよ」といって2人と別れ、K子を送っていった。
「内海ちゃん元気なかったね」と言われたが、「結婚までの、苦労さ」と言った。

5月9日土曜日2スタ1階の私の部屋にも連絡がまわってきた。編集のまっちゃんの奥さん元虫プロの仲間が心臓手術をするのですが、輸血用の血液のため献血手帳が何冊も必要になったので協力を頼む。というものであった。
内容を聞くと献血するには献血手帳があると優先的に輸血血液をもらえるということらしい。
すぐに池袋の献血センターまで大挙して献血しに押し掛け献血手帳を作った、それが、虫プロの仲間たちであった。そしてその手帳を使ってもらった。その後も毎年1回献血していた。

5月11日月曜日日本テレビ20世紀 『日本誕生』で 山本 暎一さんと奥の部屋で撮影出しを始めとても忙しかった、夕方から暎一さんたちが飲みに行ってしまったので、それ以上の作業が出来ないでいると6時すぎ手塚先生のお母さんから電話が入って呼ばれ、心配して内海ちゃんの具合を見てきてねといわれた。その後、お母さんのピアノ伴奏で歌の練習をした。
 
5月12日火曜日日本誕生の撮影出しで暎一さんが出かけてしまうまで忙しく、10時近くまで仕事をしていた。待っていたK子と 10時すぎ、ずーと休んでいると言う内海君のアパートへ見舞いに行った。
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虫プロ外伝10

2006年12月31日 13時07分24秒 | 虫プロ
この頃、結婚する覚悟を決めた、内海ちゃんたちと日曜日には式場を探しに行っていた。あらかじめ笠井君が電話で聞いておいたが、場所などの確認に行くのであった。虫プロの人たちが良く使う、新宿ステーションビルや、椿山荘、ダイヤモンドホテル、教会、など訪ね歩いたが内海ちゃんたちが納得できる式場ではなかった。
やっと決めたのが、田町駅近くの芝田町 新日本会館であった。そこは前にやなせたかしさんの講演会を行なった近くであった。そして会費制で行うことに決めた。
場所が遠いが、みんなに来てもらいたいので、1,000円の会費にした。司会を受け持つことになり、おめでたい場所で使う言葉の練習をする羽目になってしまったが、心は楽しかった。
そんな会議は、お母さんの部屋で行われた。
案内状の制作を始めると言うので、皆で手分けして作ろうと申し出たが、心を込めた招待状にしたいので、2人だけで作りたいという。
そして見本ができたのでその招待状を見せてもらった。往復はがき大の色付き用紙を二つ折りにしたもので表に
「けっこんしきのおしらせ、
うちうみ たけお 
さかい しずこ」
と書いてありバイクに乗った2人の、絵が描いてあった。
中には、
「○ オフロの好きな女の子と」
「オートバイ野郎が」
「フトしたことでめぐりあって」
「結婚します。」
「それは神様のイタズラからかな・・・?」
次のページに 
「ごあんない 5月4日 PM1:30―4:00  
芝田町新・日本会館 
かいひ ¥1000 

そしてピエロの帽子をかぶった、男の子と女の子それにねこの絵が描かれ、着ている服にあとからピンクと水色が着色してあった。
それらは和紙で、カバーがしてあり、その文字と絵のところだけ、切り抜いてある。
と言う、大変手のこんだモノであった。

仕事を終わって帰宅したアパートで2人で幸せに包まれてその作業をしている姿をお思い浮かべると、微笑まずにはいられなかった。
 
4月19日の日曜には千葉へ潮干狩りに行くことにした。千葉は内海君のふるさとである。
牛越君と、彼のフィアンセやバンドの連中それに、フルートを演奏してくれた、吉村君。作画の万之助君、佐々門君、山守君、なべ子さんなどクレオパトラ班 の人たちなどを、安達君や中川君の進行3人が運転して富津海岸へ行った。
前もって調べてから行けばよかったのに、着いた時には満潮となっていて、潮干狩りが出来なかった。
おなじ車で移動した、リードギターの牛越君と、事前に調べなかったことを指摘され、一事は、「電車で帰る」とまで言い出すほどの険悪な空気になってしまった。
 簡単な海の家風の建物で地元の若者がバンドの練習をしていた。始めたばかりか、騒音のように聞こえた。近づいて見ていたが、そのうち、牛越君がリードギターを教え始めた。すると内田君もドラムを教え始めたので、わたしもベースギターを教えた。この頃ピックを使わないで指で引くのが流行っていたので、チョッパーをちょうど、練習していた。その引き方を教えていたが、「何か弾いてくれないか」と、ねだられた。
「俺ら、高いんだぜ」など冗談を言う頃には、一緒に行った連中も」取り囲んでいた。
演奏が始り、そのうちまわりで踊りだした、小さなパーティーとなる、アンコールにこたえて、調子に乗って、1時間半ぐらい、何曲も演奏してしまった。お決まりの「イエスタデー」で演奏を終わると、いつの間にか集まった、大勢の若者たちから、歓声と拍手が起こった。「快感」こんなときが一番幸せを感じる。帰りの車中は、ご機嫌だった、鼻歌まで出ている。
浮かれて運転していたものだから、信号待ちで、ほかの車とはぐれてしまった。
全員が一度会社まで戻るので、会社へ着けば、また合えるのだからと、車を走らせた。蔵前通りから国道17号にぶつかる、本郷通りを右折して神田明神さん前を通り、ガソリンスタンドの信号先で左によっておく、その先の信号を左折下り坂となる。「この左側あたりに、あの有名な漫画少年を発刊していた加藤謙一さんの会社があったんだって」と説明する。
実は、その説明をするためわざわざこの道を選んでいた。坂を下ってそのまま直進し地下鉄後楽園を左折、突き当たりを右折すると神田川沿いの狭い抜け道広い道に突き当たり右折してすぐ左の一方通行の坂を登る。この坂が目白坂で式場探しで来た椿山荘へ出る。
すると右に大きな教会が立っている。この時はまだ東京カテドラル聖マリア大聖堂の聖堂であることは知らなかった。山守君が「入れるのかな」と言った、その門は大きく開いていた。
駐車場に車を止めて、見せていただくことにした。岩場と池が目に入った、洞窟の中にマリアの像があった。入り口から建物の中に入った。四角い岩を彫刻したような、オブジェが目に入った。中に入ると広い空間がひろがったとても大きな部屋があった。パイプオルガンが目にはいった。背筋が正されると言うか、尊厳のある部屋であった、自然と頭をたれた。全員の目が清清しい目をしていた。
この時、人と出会わなかったのが不思議であった。

車に乗って門を出た。左に田中角栄さんの邸宅があったが、首相となられるのは、まだ先である。

ふと、おかしいことに気がついた。いつもは混雑する道路、それが、前にも後にも1台の車が走っていないのである。「この時間、動いているのは自分たちだけ、」のようなおかしな空間であった。そこから脱出するため、スピードを上げ、前方に見えた車に近づいていった。思わず、全員が、顔を見合わせた。前の2台は、はぐれた仲間の車だった。「奇跡だ」そう。叫んだ。
前の車の二人は「普段この道はあまり使わない、それを、たまたま使って帰ってきた」と言う。
それだけだったが、今も心に残る出来事であった。

5月1日金曜日虫プロもこの日メーデーに参加した。正確には虫プロの労働組合火曜会の参加であるが、火曜会は親睦会のようなものであったので、お祭りみたいなのものであった。だから飲み物にお菓子、お弁当まで持っての参加である。原宿の選手村跡地に集合。誰かがわめいている、スピーカーから流れている、演説を聞いているものはいない。やっとながい、わめきが終わり、前日作っておいたプラカードや垂れ幕を掲げ、行進がはじまる。
先導者の運転を任された。あまりにもゆっくり進むので、途中車は、オーバーヒート、こんなときあわてず、ボンネットを半開きにしてヒーターをかける、ヒーターの構造がラジエターとおなじことを知っていれば、疑問は無いはずが、「暑いのになぜ」という質問が多いのに驚いた。

途中国会議事堂前で、目の前の連中が、禁じられた、ジグザグ行進を始め、警備の機動隊と険悪な状態になったが、それでもなんとか無事日比谷公園に着き、プラカードやごみを車に積み込み一足先に会社へ戻った。
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虫プロ外伝9

2006年12月30日 08時10分33秒 | 虫プロ
吉村 豊さんのことはそれでも対岸の火事のことのように思われた、まだ21歳だったと言うことで衝撃は受けたが虫プロでは、前にも書いたように、おめでたい話ばかりであった。
 仲間がどんどん、やめて淋しかったが、それは、独立するためであるように見えたし、虫プロの経営が悪化して、昇給もボーナスも、期待できなかったが、虫プロには、「手塚治虫が控えている」と言うような、安心感みたいなものが漂っていた。

内海君の相手の女性、笠井くんをあまり知らないと思っていたら昨年6月の募集で入社してきたらしかった。
一目ぼれした内海君が猛烈にアタックしたのだろう。

そんな彼女が「K子さんと今晩アパートに来て」と言ってきた。アパートと言うからには、内海君のアパートだ、彼のアパートへは、何度か行っていた。
男やもめではないが、「一人男にゃウジが湧く」ほどではないが、あまりきれいではなかったことを思いうかでた。
少し残業となったが10時ごろK子とアパートに行った。
ビックリしたのは、部屋の様子が前見たときとまったく違っていた。ピンクのカーテン食器棚、など等、それにきちんと片付いたダイニング、畳には絨毯が敷かれ、虫プロが少し前に放出したのを買い取った、きれいにした動画机が置いてあった。
折りたたみのちゃぶ台にテーブルクロスが敷かれ、その上に彼女が作ったのだろう、手料理が並べてあった。
ジュースを注いでくれたが、なかなか要領を得ない、お茶を飲むばかりで話の内容がつながらない、やっとの思い出「俺たち結婚したいんだ」と話をした。そして「世話をやいてほしい」と2人が頭を下げて頼んできた。

手塚先生が深夜、若いスタッフを呼んで、会話をするのが好きだったのは、お母さんの血筋のためのようで、手塚先生のお母さんも、3時休みの休憩に遊びに来ないかと、社内電話をくれた。お茶にお菓子、お母さんのピアノ伴奏で歌をうたったりするのであった。
仲人を、手塚先生にお願いしようとしたが、内海君が、恐れ多いと、辞退した、そのお母さんの集まりで、「今度内海君が覚悟を決め、結婚する決心をした」と言う報告をした。隣が、お父さん北風さんの、部屋ですぐにお父さんを呼んで、「私たちで、仲人させてもらわない」と言った。お父さんはめがねの奥の目を喜びにかえ、2つ返事で仲人をしてくれることに決まった。

「やさしいライオン」の修正作業と次の「日本誕生」をかけもちで忙しい日を送っていた。内海君は「あしたのジョー」班へ移り、スタジオが豊島園スタジオになったので、簡単に合うことが出来なくなった、仕上班は、第二スタジオにあり、「やさしいライオン」からほかには金山さんが移っていった。

やさしいライオンのとき使用していた第二スタジオ1階の制作室が、そのまま「日本誕生」の製作室として使用していた。

そんなある日「今度虫プロのプロデューサーとなった永井昌嗣さん」と言う方を役員から紹介された。東京ムービーで制作していた「ムーミン」を、3クール目から虫プロで制作することになり、そのプロデューサーを担当する永井昌嗣さんだと言う、制作事務として、可愛い女性が2人ついていた。
(こちらは制作事務もつけてもらえなかったのでうらやましかった)
「永井昌嗣さん」この人が虫プロに居たということを知っているのはごくわずかの人だと思う、岩崎正美さんがアシスタントプロデューサーとしてムーミンに配属され、その後プロデューサーに昇格している。
そのご永井さんはタツノコのプロデューサーとして知られている。

1階の制作室手前4分の1程度をムーミンの制作室に使わせて欲しいと言うことで、スタッフは、外注でやるらしく、ムーミー班の部屋は、そこだけとなった。
その後ムーミー班が忙しくなると、部屋を半分取られ、仕舞いには、逆転して、すみに追いやられることになるが、女性がいると言うことで、ムーミー班の制作室に居るほうが多くなったり、サイホンの珈琲をご馳走したり、ムーミンのぬいぐるみが、何体か配られて、スタッフで貰っていたのを見て「ほしい」と指をくわえて見ていた、「ムーミン」のことはあらためて語ろう。
2月6日から8日スキー大会があり弟を誘って参加した。池袋から貸し切りバスで志賀高原の丸池であった。あらかじめ狭山スキー場の初心者コースに通って練習しておいたが、自信過剰か、なれたころリフトで登って上級者コースに挑戦、こぶに捕まって、数十メートル飛ばさせ気がついたら目の前に自分の足首があった、捻挫という言葉さえ知らなかった。悪気は無いのだろうが、いい加減なことを言うものがいて、「すぐ温泉につかって暖めてもんだほうが良い」と言ってくれた。真に受けてその通りしたが、夜腫上って痛んだ、次の日からは、スキーは出来ずホテル住まい、みんなが楽しんで滑るのを横目で見ていた、と言うのは表向きで、実際には横浜から来たと言う、スキーの出来ない女子高校生と、ロビーにおいてあったピアノで演奏し、歌をうたったりして、結構楽しんでいた。
その罰が当たったのか、その後しばらくビッコを引いていたし、足首をかばうため膝を痛めて、長いこと苦しむ原因だったとは、まだ気がつかなかった。
2月13日には虫プロのボーリング大会が有った。阿佐ヶ谷駅から青梅街道へ突き当たったところに、阿佐ヶ谷ボーリング場が出来ていて、会員になると時間借りができた。その成果で6位入賞、賞品をもらえた。2月17日良いニュースが飛び込んできた。
「やさしいライオン」が毎日映画コンクールで第8回大藤信朗賞を受賞したと言うものであった。
3月31日何か事件が起きていると呼ばれた。2階のテレビのそばには車座になってスタッフが見ている。 午前7時40分日航機351便 よど号がハイジャックされた事件で、延々と飛行機の操縦席あたりが映し出されている。この日は仕事にならなかった。
4月1日 (水) 「あしたのジョー」が放送開始された。不謹慎であるが、苦しいスケジュールであるので、前日の事件が長引いて、放送が中止になることを、皆が願わなかった。と言えば嘘になる。何か事件が起きその実況中継で、番組が放送されなければ、1週延びて放送される。そうすればスケジュールに少し余裕が出来るのであった。
4月5日には虫プロによる制作の「ムーミン」の放送が始まった。
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虫プロ外伝8

2006年12月29日 11時42分12秒 | 虫プロ
「やさしいライオン」の完成予定日が迫ってくると、もう遊んでいる余裕は無くなった。
内海君と「やさしいライオン」班の動画で仕事をしていた、おなじ動画の山守君とも親友となった。山守君は、近くのお菓子屋さんに間借りしていたが、階段下のその部屋の狭さに驚いた。本人は、まかないつきだからと、寝られればいい、と意に反していなかった。

遊びにいけないものだから、ストレス解消にいろいろなことをした。 学生時代から、詩、というより歌の歌詞のようなものをノートに書きためていた。それのよさそうな詩を選んで、動画用紙に書き写し短冊様の「Junの詩集」を作った。やなせたかし先生の影響を受け、下手な挿絵まで描いていた。その詩集もどきを内海君と、山守君に見せ、「いいだろう」と自慢した。

 あくる日2人がニコニコして近づいてくる「これ」と差し出したのが、きれいな挿絵まで入っている詩集。読んでみると、とても良い詩だ。挿絵の絵も良い、心の中で、負けたとさけんだ、そして2人だけで作ったことに嫉妬した。こんな素敵な詩集、仲間に入れてもらって一緒に作りたかったと、淋しい気持ちになった。

その中の内海君が作った、鏡という詩が大変気に入り、早速ギターで作曲した。

作画や動画が一段落するのは、夜となることが多かった。するとそれぞれが、お菓子やジュースを持ち寄り、テーブルの周りに椅子を持って集まりおしゃべりをしたり歌をうたったりした。仕上や背景の人も集まってくる。

このころは手塚先生みたいに眠気覚ましに珈琲を飲むというのは、まだ一般的ではなく、お茶を飲むほうが多かった。
飲み物もジュース類、サイダーとかバヤリスオレンジやポッカレモンなどのジュース類、まだコーラーは、風邪をひいた時貰う呑み薬みたいな味だ、とコーラーーを飲めるものが珍しい頃であった。現に私も、コーラーが飲めるようになったのは10年後の昭和55年ごろであった。

お酒類を隠し持っている人も居た、興が嵩じてくると、ギターの演奏も始まる、作画の上口さんは、演歌がうまく「湯の町エレジー」や「酒は涙かため息か」など上手に演奏した。

山本洋子さんという仕上の人がいた、俳優さんとは同姓同名の別人である、一度仕事中、風邪で高熱を出したことがあった。彼女の家は浅草にあったが、車で送っていった。寒いと震えているので、真夏であったが、ヒーターを、最高に入れて、汗だくで送っていった。その彼女も私を「良い人」と宣伝してくれた。
その彼女は泣き上戸であることを皆が知っていた、わざと悲しげな曲を選び、彼女の近くで、演奏する「また泣かせるぅ」と言ってすぐに泣き始める。それを、肴にまた盛り上がる。そんなことでストレスを回想していた。

 11月完成予定日がますます迫ってきた。頑張ろうと、大セル用の動画用紙に劇例文を、背景さんから借りてきた、大筆で書いて、天井から吊るした。次の朝その用紙の下に動画用紙で書いたいたずら書きが、セロテープで吊るしてあった。人がいないときに書くらしくその下にまたいたずら書きが吊るされている、その数が増えていく、明らかに人の名前を遣って書いたものもある。結果的には、ストレス解消と、頑張ろうと言う気持ちが込められている。それが50枚吊り下げられると爽快である、そのまま増えるに任せた。

そしてなんとか「やさしいライオン」は予定日近くに形になった。

あけて正月衝撃が走った。TCJ忍風 カムイ外伝やサザエさんで背景をしていた吉村 豊さんというかたが、お寺の境内で自殺してしまったというニュースであった。
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虫プロ外伝7

2006年12月28日 12時31分08秒 | 虫プロ
「やさしいライオン」の完成予定日が迫ってくると、もう遊んでいる余裕は無くなった。
内海君と「やさしいライオン」班の動画で仕事をしていた、おなじ動画の山守君とも親友となった。山守君は、近くのお菓子屋さんに間借りしていたが、階段下のその部屋の狭さに驚いた。本人は、まかないつきだからと、寝られればいい、と意に反していなかった。

遊びにいけないものだから、ストレス解消にいろいろなことをした。 学生時代から、詩、というより歌の歌詞のようなものをノートに書きためていた。それのよさそうな詩を選んで、動画用紙に書き写し短冊様の「Junの詩集」を作った。やなせたかし先生の影響を受け、下手な挿絵まで描いていた。その詩集もどきを内海君と、山守君に見せ、「いいだろう」と自慢した。

 あくる日2人がニコニコして近づいてくる「これ」と差し出したのが、きれいな挿絵まで入っている詩集。読んでみると、とても良い詩だ。挿絵の絵も良い、心の中で、負けたとさけんだ、そして2人だけで作ったことに嫉妬した。こんな素敵な詩集、仲間に入れてもらって一緒に作りたかったと、淋しい気持ちになった。

その中の内海君が作った、鏡という詩が大変気に入り、早速ギターで作曲した。

作画や動画が一段落するのは、夜となることが多かった。するとそれぞれが、お菓子やジュースを持ち寄り、テーブルの周りに椅子を持って集まりおしゃべりをしたり歌をうたったりした。仕上や背景の人も集まってくる。

このころは手塚先生みたいに眠気覚ましに珈琲を飲むというのは、まだ一般的ではなく、お茶を飲むほうが多かった。
飲み物もジュース類、サイダーとかバヤリスオレンジやポッカレモンなどのジュース類、まだコーラーは、風邪をひいた時貰う呑み薬みたいな味だ、とコーラーーを飲めるものが珍しい頃であった。現に私も、コーラーが飲めるようになったのは10年後の昭和55年ごろであった。

お酒類を隠し持っている人も居た、興が嵩じてくると、ギターの演奏も始まる、作画の上口さんは、演歌がうまく「湯の町エレジー」や「酒は涙かため息か」など上手に演奏した。

山本洋子さんという仕上の人がいた、俳優さんとは同姓同名の別人である、一度仕事中、風邪で高熱を出したことがあった。彼女の家は浅草にあったが、車で送っていった。寒いと震えているので、真夏であったが、ヒーターを、最高に入れて、汗だくで送っていった。その彼女も私を「良い人」と宣伝してくれた。
その彼女は泣き上戸であることを皆が知っていた、わざと悲しげな曲を選び、彼女の近くで、演奏する「また泣かせるぅ」と言ってすぐに泣き始める。それを、肴にまた盛り上がる。そんなことでストレスを回想していた。

 11月完成予定日がますます迫ってきた。頑張ろうと、大セル用の動画用紙に劇例文を、背景さんから借りてきた、大筆で書いて、天井から吊るした。次の朝その用紙の下に動画用紙で書いたいたずら書きが、セロテープで吊るしてあった。人がいないときに書くらしくその下にまたいたずら書きが吊るされている、その数が増えていく、明らかに人の名前を遣って書いたものもある。結果的には、ストレス解消と、頑張ろうと言う気持ちが込められている。それが50枚吊り下げられると爽快である、そのまま増えるに任せた。

そしてなんとか「やさしいライオン」は予定日近くに形になった。

あけて正月衝撃が走った。TCJ忍風 カムイ外伝やサザエさんで背景をしていた吉村 豊さんというかたが、お寺の境内で自殺してしまったというニュースであった。
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虫プロ外伝6

2006年12月27日 00時40分54秒 | 虫プロ
この話を、内海君に話して聞かせた。すると「今度2人で山へハイキングに行こうよ」といわれた。独身最後を記念して低い山でいいから、奥武蔵の山を登ってみたい」そんなことを言った。
早速計画を立てるためにガイドブックと国土地理院の5万分の一の地図を買ってきた。
武甲山(標高約1,300m)そこから子持山(標高1,273m)尾根伝いに大持山(標高1,294m)ついでだから武川岳(標高1,052m)までいこうと欲張った計画を立てていた。

目的とする武甲山は、ガイドブックによると、「武甲山は、崇神天皇の御代、知知夫国の祖神であった、知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)の霊を、この部甲山に奉祀して以来今日まで、神奈備山(神様のこもる山)として山麓の人々に崇められて参りました。信仰の山としての山塊であるばかりではなく、自然科学から見ても、地質、動物、植物など、秩父の山塊のうち、他にその類を見ない貴重な存在です。北面及び頂上は石灰岩採掘によって変貌しています。」
と書かれていた。あの醜いお姿は、セメントの材料となる、石灰岩採掘によるものだったのかと、わかった。

電車はまだ吾野までしか通じておらず、秩父までの線路を作っているところであった。
途中まで車で行って、バスで武甲山の登り口まで行き、下りてくる場所に車を置いておこうと考えた。
学校の夏休みが終わった頃であった、正丸峠へ、いつもの仲間と遊びがてら下見に行った。正丸峠をすぎて名栗方面へ少し戻った、山伏峠付近に車2台が置けるようなスペースがあったので、当日はそこに車を置いておけると考えた。そこからなら正丸のバス停まで10分もかからないだろう。
そこから武川岳までみんなで登ってみた、膝ぐらいの笹に覆われた狭い道で、ヘビでも出そうな道であったが、くだって下ってくるには、楽そうな道であった。それに、茶店があるものうれしい、みんなでジュースを飲んで、大福とみたらし団子を食べたのしんだ。ここで、最後の腹ごしらえができるとも思った。
山守君も誘ってみたが、なかなか3人の時間がそろわなかった。毎回日曜日になると、忙しくなってしまい、とうとう9月中の4回あったチャンスは消えた。
10月内海ちゃんと、スケジュールが合った。このチャンスを逃すと今年中は無理。山守君は次回と言うことで、決行することに決めた。

その日は6時過ぎ起きて支度をし、西原の自宅アパートから車で東久留米の内海ちゃんのアパートへ行った。彼はまだ起きていなかった。彼女がいれば、起こしてくれたのだが、今日ハイキングに行くと言うことで、実家に帰ってしまっていた。
日曜の朝である、近所に気兼ねして、彼を起こさなければならなかった。
所沢街道から、産業道路へ、入間基地のそばを通り16号国道にぶつかる、右折して、ガードをくぐり、左へ入って入間川の豊水橋を渡る、交差点を左折すれは、飯能駅方面へ行けるが、今日は直進する。つぎの二股を左へ行き、やがて八高線のガードをくぐり、突き当りを右に行く、すぐに県道の川越日高線に出るので左折、この道は、高校のときに、毎年蕨高校から姉妹校、飯能高校まで、競歩大会で走った(歩いた)懐かしい道。そんなことを説明しながら、巾着田の近くを走り、国道299号線に出て正丸峠へと向かう。
吾野駅から先はまだ開通していない線路に沿って登っていく、時々大型の工事車両とすれ違うため、待避所が作られている。線路が高架になるあたりから、道も険しくなり、正丸の駅が出来る広場あたりから、七曲の峠道となる。峠の上に茶店と駐車場があるが,そこをすぎ、下りが始まり警笛ならせの標識がやたら並んで立っているヘアーピンカーブを大きく曲がりなどして、名栗方面の看板の先をもどる感じで左折する。
前もって見ておいた、広場に車を止めた。暖かいので、着替えに持ってきたリックの中身を車に少し置いていく。
10時になっていた。調べていたバスの時間はとっくにすぎていて、10時のバスの時間がわからないので急いでバス停に行く。
20分待たされバスに乗って、登山道の入り口まで行く。浦山登山口へついたときには11時過ぎになってしまった。朝から何も食べていないが、お金を持ってきているので山頂の売店で何か飲み食いしようと、すぐに武甲山へ登りだす。「お先に」とか「こんにちは」など挨拶しながら元気に走るようにして、何人も追い越して12時半山頂へ付く。朝から飲まず食わずで、さすがに腹がへり過ぎ、すぐに売店を探すがどこにも売店は無かった。地図によると稜線の向こう近くに煮えるのが小持山らしい、登山者に「子持山には茶店がありますか」と尋ねたら、「多分あるんじゃねえ」との答えが返ってきた。このまま下山するにはあまりにも敗北感がありすぎる、小持山まで、我慢すれば、何か食える。「多少高くても、腹いっぱい食ってやる」と1時すぎ、小持山まで行くことにする。
疲れが出たのか、すきっ腹のせいか、近くに見えた小持山へは2時すぎに着いた。そのうえそこにも売店は無かった。すでに稜線を経由してハイキングして行く時間ではないらしく、もう人影はまったく無かった。大持山にはお店があるかもという、かすかな期待を持って、そのまま大持山へ行く。大持山には3時過ぎ着いたがここにもお店は無く、あたりはすでに暗くなってきていた。
計画を立てたのは夏の頃で6時まで十分明るかったが、この自分は山の日没は早い、その事を忘れて居た。あっという間に太陽が山陰に沈むと暗闇がどんどん押し寄せてくる。内海ちゃんはタバコを吸うので、使い捨てライターを持っていた、その明かりでかろうじて道がわかる、かすかな明かりで道標を確かめながら歩いていく。
下の谷のほうに人家らしい明かりが見える、大声で叫んでみるが、何の変化も動きも無い、近くに見えても遠いのだ、明かりに誘われて沢を下りたら、崖から落ちるのが関の山、最低のハイキングの心得は知っているつもりが、食料を持たず、軽微な服装で来た事を、後悔する。だがもう手遅れ、この先は武川岳へ行かなくてはならない、分かれ道を注意して左へ行く、かろうじてライターの光で武川岳方面が確認できた。
しかしこのライターにも限度が着た、ガスが無くなり、つかなくなってしまった。石をこすってその火花で道を確認しながら歩いた。しかしそれもすぐになくなった。
なんにも見えない。二人はそこに仰向けに倒れこんだ。「遭難するってこういうことなのかな」「でもこんなところでカッコ悪いよな」笑ったが余計に腹がすいた。こんなときに限って何にも無い。服も登山用に着替えているので、ポケットの中になんにも入っていない。
「金ならあるのに」 「俺も」、何か買って食べればよいと、財布しか持ってきていなかった。「彼女たち、連れて繰ればよかったな」 「そうすれば、あの、おいしいお弁当を、いっぱい作って持ってきてくれたのに」 下見のとき、お弁当を作って持ってきてくれたのを思い出す。「何も見えないので動くと危険だから、ここで夜明けを待とう」 「それにしてもはらがへったな」倒れたまま上空を見ると、星がいっぱい光り輝いていた、「山で見る星ってきれいだね」 「やはり詩人だ」 「それにしても腹減った」 「のども渇いて死にそう」すでに腹が減ったとのどが渇いたとしかいえなかった。
「雨合羽持っていたよね、それでも着ようか」そういって起き上がった、すると不思議な光景を目にした。月が出たせいで、道が白くはっきり見えていた。「助かった」。「はらへったぞ」 「腹減ったぞ」などと行進曲調に歌いながら気を取り直して歩き始め、どうにか武川岳へ着いた。
とうぜん茶店は閉まっているし片付いて何も残っていない。周りを見回すと、バケツが置いてあった。多分雨水か、ぼーふらが、わいているかも知れない。うがいするだけなら、口の渇きが止まるかも。
とうとう誘惑に負け、口に含んだ、うがいするつもりが、一滴のどを通過した。もうとまらない、そのままとうとう飲んでしまった。何が入っているのか、雑巾がけした水の残りか、そんな想像をしても吐き気は起こらなかった。
内海ちゃんも、ほかのバケツを見つけていた、彼も飲んでしまった。「大丈夫かな」「わからない」「あとでおなか壊すかな」「車の中に薬箱が入っているから飲んでおこう」水を飲んだせいか、少し元気が取り戻せた。
この先は二股の道があるはず間違えると名栗へ行ってしまう。そこには車が無いので、もっと最悪になる。でもこの道は、前に下調べしてきている、名栗へ行かないよう注意して左の道をおり、くたくたになって山伏峠へでた、やっと車に戻った。車の時計を見ると何のことはないまだ7時であった。一晩中歩き、すっかり真夜中だと思っていた。
それほど疲れきっていた。
正丸峠からは、食堂を探しながら降っていったが、この頃のお店は6時をすぎるとしまっていた。お店が1軒も開いていない、とうとう入間まで来てしまった。米軍相手のスナックでも入ろうか、その度胸もない。そうこう言っている内に、所沢市まで来ていた、龍子さんを送ってくるとき、本陣ってレストランがあるからそこへいこうと、車を走らせた、しかし、9時では終わってしまっていた。やっと開いていたお店へ飛び込んだが、そこはママさん一人の飲み屋さん、内海ちゃんが飲めたので、ビールを注文して、お結びが出来ないか尋ねると、「あいにくご飯がなくなって、3つならできそう」との答え、早速作ってもらい、一つずつ食べ残りの一つを半分に分けて「小さいのを4つ作ればいいのにね」など言ってたべた。
お金を払ってビックリ、お結び3個が3,000円「これじゃ4つにしたら気の毒すぎるわけだ」と言う落ちまでついて、無事帰宅、薬を飲んだせいか、腹もこわさずにすんだ。
そのすぐあとの1969年(昭和44年)の私の誕生日10月14日に吾野駅から西武秩父駅間19.0kmが開業した。
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虫プロ外伝5

2006年12月26日 13時01分59秒 | 虫プロ
そんな時、制作事務の龍子さんと雅子さんから、秩父の三峰神社へ連れて行ってと誘われた。
日曜日池袋駅へ出て赤羽線で赤羽から高崎線で熊谷駅 秩父鉄道を使い三峰口駅へと行く。バスで大輪駅という三峰ロープウェイの乗り場から三峰山頂間までロープウェイに乗って「このロープウェイは三峰山頂間までの1.9kを結んでいます。「三峰山」と言う山は埼玉県にはなく、雲取山・白岩山・妙法が岳を総称して三峰山と言っています。」などというアナウンスを聞いているうち、ケーブルカーは山頂に到着、そこから15分ぐらいのんびり歩き三峯神社へお参りした。
このケーブルカーは2006年5月に「安全面の問題で1年間休止」となっています。

作ってきてくれた、お弁当を広場で食べ、「三峰山(みつみねさん)は、奥秩父山塊にある妙法ガ岳(1332m)、白岩山(1921m)、雲取山(2017m)の総称をいうんだよ。一般的には、三峯神社が在るその頂を三峰山というとしているが、例えば神社を呼ぶとき、浅間神社なら浅間さん、氷川神社なら氷川さん、と呼ぶよね。三峰神社も地元では、三峰さんと呼んでたんじゃないかな、それを漢字にすれば三峰山、そうなったんじゃないかなと思う」などと、また一夜漬けで調べたことを、講釈している。「今日は晴たけれど、ここは霧が多くて、野口雨情が「朝にゃ朝霧、夕にゃ狭霧、秩父三峰霧の中」と歌っ手いる、そういえば深夜劇場の映画で、森繁久弥さんの「雨情」と言う映画やっていたけど、野口雨情の歌詞っていいよね」など男の癖におしゃべりであった。
写真を撮ったりし景色を眺めていると、眼下に秩父湖が見えた。表参道なる道からそこに行く道の看板があった。帰りは歩いてダムを見て帰ろう、と言う話になった。歌を歌いながらくだって行く、映画を見たばかりだから、『七つの子』『赤い靴』『青い目の人形』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など、枚挙にいとまがない。森重久弥の物まねで『船頭小唄』など名で歌った。『あの町この町』を歌った頃に二瀬ダムに着いた、歌のとおりに日が暮れの予感はあった。
看板の説明によると「二瀬ダム」 堤の長さ290m、高さ95mのアーチ式ダム。荒川と大洞川と二つの川の合わさるところを堰き止めたダムの為、二瀬ダムと命名された。と書いてあった。昔女性の名前が着いていた頃の台風で大きな被害が出たのでとのもきいていた。「秩父往還」へ出た頃には、まったく人通りがなくなっていた。その上、バスがすでになくなっていたのであった。駅まではかなり遠いことが、なんとなくわかり、疲れもピークとなっていた。そんな時1台の軽トラックがやってきた。手を上げると、運転していた女性が車を止めてくれた。事情を話すと、気の毒がって、わざわざ駅まで送ってくれることになった。「捨てる神あれば拾う神あり」「地獄に仏」すっかり元気になり。荷台と運転席とで、おおきな声で、会話が始まった。お礼をいい、「虫プロのものですが、今度是非虫プロへ、遊びに来てください」といって、名詞を渡し分かれた。
この親切な人のことは、いつまでも忘れませんでした。
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虫プロ外伝4

2006年12月25日 11時31分23秒 | 虫プロ
正丸峠へも虫プロに入った当時から、仲間とよく行った。
正丸峠にはじめて行ったのは高校の時の遠足であった。貸し切りバスで芦ヶ久保まで行き、丸山へ登り刈場坂峠へ降り旧正丸峠から正丸峠へ降りて、待っていたバスで帰ってくるというコースであった。丸山へつきそのあとの最後の降りる道が急坂で、先生が、「絶対に走るな」と叫んでいるうち、女子生徒がその崖を止まれなくなり、ものすごい勢いで、駆け下りて、さいごにはころげ落ちていくのを目の当たりに見ていたのを覚えている。

高校を卒業して免許を取った。デーラーの車置き場に、野ざらしになっていた、古いスズキの125ccバイクを欲しいならあげる、と言われ家に持ち帰った。燃料を入れても、まったくエンジンがかからず、あきらめかけていたとき、家の前の修理屋の長男が、ポイントを磨いてみればと言ってくれ、カバーを取って、ポイントが開く位置を合わせ、紙やすりを乗ってきて磨く方法と、ポイントをあわせる方法を教えてくれた。
調整が終わり、カバーを、元のように取り付け、エンジンキーを回し、アクセルを、2,3回ひねっておいて、キックをすると、一発でエンジンがかかった。
運転技術が追いつかず、コンクリー製のゴミ箱に突っ込んで、粉々に吹っ飛ばしたりしたが、なんとか、操れるようになった。そうすると欲が出て、遠乗りがしたくなる。そこで初めて行ったのが、正丸峠であった。

この時は峠へ上った喜びより、下りにエンジンブレーキを使うことが出来ず、その上、燃料の節約とエンジンを切ってブレーキだけ使っておりた。いまなら、こんなことをしてはいけないことぐらい、常識として知っているのであろうが、まだ、情報の乏しい時代、何事も体験してから覚えた。当然ブレーキが焼けまったく制動がきかなくなる。これは恐かった。死ぬような目にあって、なんとか無事バイクを避難道路に突っ込みとめることが出来たが、それを見ていた人から、くだりはエンジンブレーキを使って、おりないと、ブレーキが焼きつき、きかなくなるということを教えてもらった。

虫プロに入ってからは、正丸峠には手軽に来ていた。当時何件かの茶店があり、駐車場もあった、休みの日などは仲間を誘って駐車場に車を置いて伊豆が岳(851m)へ行った。男どもは鎖場で岩場を一気に登り女性人は、女坂を和気あいあいで上ってくる。頂上の見晴らしは良くて、武川岳、大持山、二子山 そして武甲山が、間近に見えた。山頂の茶店で女性人が作ってくれたお弁当をおいしく食べた。

正丸峠へ何回も行くうちに、てまえ坂元から刈場坂峠へ出る林道があることに気がついた。右の、ぶな峠はまだ途中までしか車がいけなく。左、大野峠方面に行くと景色の良いところが、たくさんあることを見つけた。白石峠からも右へ行くと天文台堂平山の国立天文台堂平観測所には、駐車スペースがあった。
ワンダースリーの頃、真っ暗な闇の中で恐い話をしあったのは、ここ国立天文台堂平観測所の駐車であった。
天文台から堂平山に行き小川町へおりれたし、天文台を少し戻ると眼下に牧場が見て玉川のほうへおりることもできた。

西武池袋線はまだ吾野駅までしかなく、吾野の手前から顔振峠へも行けた。手軽にいけたのでこの顔振峠なども何度も行った。ここへ行くと連れて行かれたものは「源義経と武蔵坊弁慶が京落ちで奥州へ逃れる際、あまりの絶景に何度も振り返ったことが名前の由来、」など受け売りの講釈を聞かされるのが決まりであった。顔振峠はかあふりとうげと読むと言う、埼玉県奥武蔵にある峠で標高約500mのところにある地元周辺では、こおぶりやこうぶり、かあぶりなどと言われることも多いと言われているが、埼玉県人の私はやはり耳から、こうぶり峠と聞いていた。振り返るとき頭(こうべ)を振るのでこうべを振るからこうべふる、こうぶりそして頭を顔と言う文字に換え、顔振峠とした、と言う地元老人の説が好きであった。

そうした私は、奥武蔵の山のことが詳しいと、思われていた。
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虫プロ外伝3

2006年12月24日 11時45分14秒 | 虫プロ
もう少し足を伸ばすと、物見山から日和田山へ登った300mぐらいの山であったが、早春、そこから眺める“巾着田(きんちゃくだ)”が、すばらしかった。いちめん田んぼの中に蓮華の花が咲く風景が、渡来した高麗の人たちの思いを偲び言葉の響きと仏教の匂いが同化して、眺めていて飽きない景色であった。
巾着とは、昔の財布のことで、布でできた袋の入り口を、紐で縛った簡単なものであった。この巾着田を上から眺めた景色が、その巾着ににているので、巾着田と呼ばれたるようになったらしい。今ならヘアーピン・カーブ、ならぬ、ヘアーピンフィールド田とでも、呼んだかもしれない。
ここを学生のころからきんちゃくでんと呼んでいた。地元ではそうよんでいたからで、私も地名は本で覚えるのではなくて、見聞できんちゃくでんと覚えていた、また埼玉の人の多くはきんちゃくでんと言っていた。
わたしが始めてここへ来たのは、高校生の時。一人で近くの山へでも行きたい気分になり、あまりお金を持たずに、大宮で乗り換え、高麗川駅でおり、物見山から日和田山へと登った。
初めの予定では物見山まで行き、折り返して帰るつもりであったが、山登りに来ていたほかの人たちから、「日和田山から見る巾着田の眺めがすばらしいので行ってみな」と言われたからであった。そう、この時も確かにその人たちは、きんちゃくでんと呼んでいた。
そこで足を伸ばし行くことにしたが、道標にやたらと高麗方面と言う文字を目にしていた。「巾着田」からの眺めは、確かにすばらしかった。
下山のとき、来る道々に高麗方面という文字を、やたら目にしていたので、どうも近道があるらしいな、と思い登って来る人たちに、「大宮へ帰りたいのですが、駅に行く近道があるのですか」と、たずねた。山登りの経験が豊富で頼りがいが、ありそうな人たちであった。駅までの道をていねいに教えてくれた。その通り行くと、わかりやすくて、すぐに駅に行くことができた。
 しかしその駅は来たとの駅とどこか違う、どこを見ても見覚えが、ないのである、駅員さんにたずねて、そこは西武線の西武池袋線高麗駅であることがわかった。
私が物見山へ登るため降りたのは高麗川駅であった、「あなたが行きたかった駅は、国鉄大宮川越線の、高麗川駅であり、この高麗駅とは、かなり離れています」と勘違いする人が、多いらしく、駅員さんは、手際よく説明してくれた。
「高麗駅から高麗川駅へ行くには飯能駅まで行き、そこで八高線に乗り換えて高麗川駅まで行く必要があります」とも教えてくれた。
飯能駅に着くと、乗換えの八高線は列車の数が少なないので、かなりの時間、待たなければならなかった。やっとの思いで、高麗川駅へたどり着き、大宮までの切符を買おうとすると、持っている金額が足りなかった。
この駅は当時無人駅で、改札を乗り越えれば駅に出入りができた。
隙を見て切符を買わないで電車に乗った、川越駅を過ぎたところで、改札をするために車内に車掌が回ってきた。最前列まで逃げたが次の駅までは長かった。とっさに行きに降りたとき改札が無いので、切符を置かず、ポケットに入っていることを思い出した。
「川越まで来て用事を思い出したので、急いで引き返すところです」のようなことを言ったのだと思う。浦和までの新たな切符を買わなければならなかったが、それがなんと、持ち金とぴったりで、1円も足りも不足もしなかった。「神も仏もあった」とは、あまりにも、罰当たりなことを思いながら神様に感謝した。
どうも「薩摩の守」を決め込んだようで気分が晴れない日が続いた。
 薩摩の守とは平家物語にも登場する平薩摩守忠度(たいらのさつまのかみただのり)の事をいいます。1144年から1184年まで活躍した人と歴史や古典の時間に習いました。
 薩摩守と言うのは、天皇から頂く官名で、その当時の人は官名で呼んでいたのです。だから薩摩の守とは平忠度の事を指し、たいらのただのりから、ただのり。つまり無銭乗車のことを「さつまのかみ」と言ったのであります。
ちなみに、平家物語にとは、巻第七の「忠度の都落ちの」話ですよ。
気がとがめたままではいたたまれなくなって、大宮駅まで行って駅員に事情を話し謝りに行こうと、決心しました。「お金がたりなくなって、ずるいことをしたので、清算してください」と謝りに行ったのでした。
当時の大宮駅は、京浜東北線、や東北本線や高崎線、東武の東武野田線などのホームがあり、川越線のホームは、操作場があったので、長い連絡橋を渡った西の側にプラットホームがあった。 ホームがいくつもあったので、大宮駅には駅長の帽子をかぶった人が何人も居たように覚えている。
謝りに行ったのは、そのホーム川越線の駅長さんであった。
その人が「正直に来てくれてありがとう、」と言ってくれた「とてもうれしいので、その正直さに免じて、今回は、払わなくていいよ」とも、そして怒られるどころか、褒めてくれたのであった。
なにを言われるかと、どきどきした日をすごし、心に刺さったとげの痛さに耐え切れなくて、謝りに行こうと決心した。怒られ下手をすれば罰金を取られるかもしれない、正直に言えば、罰金は、勘弁してもらえるかもしれないと思い、恐々謝りに行った。それが、まさか喜ばれて、褒めてもらえるなんて、夢にも思いもよらなかったのであった。
だから今でも、その時のことをはっきり覚えている。
わたしにとってとても美しい思い出である。

正丸峠へも虫プロに入った当時から仲間とよく行った。

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