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真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

虫プロ外伝2

2006年12月23日 12時32分19秒 | 虫プロ
この頃は彼女と会うのが楽しくて、映画や、ドライブばかりしていた。良く、今までどおりに仕事が出来たのか、不思議であるが、なせばなる、であった。海にも行き、ボーリングのやり、楽しい日々が続いた。なぜもっと早く青春を楽しまなかったのだろう、もっと早く気が付けばよかった。など、うそぶいていた。

デート先は、近くは石神井公園、奥の三宝寺池など早朝の静けさは、中国の墨画の世界にいるようで心が洗われた。

少し足を伸ばすと狭山湖である、狭山湖は学生時代に何度も行っていた。初めは所沢から行く道しか知らなかった。事務の龍子の家が元町を左折した新所沢のほうにあったのでいろんな道を覚えていった。所沢街道から西所沢駅の踏切を渡っていったが今の西部狭山線のガードをくぐったあたりから、道はまだ舗装されていなかった。もうもうと砂煙を上げて車を走らせた。六斎堂を左折して登って行くと狭山湖の駐車場に出た、茶店があっておみやげ物などを売っていた、そこの駐車場に車を止めて、堤防を北に向かって歩いていく。
「この狭山湖、本当は山口貯水池というのだよ、ここ所沢市、入間市などにまたがる狭山丘陵の谷間に、昭和3年3月、長さ約700m、高さが約36mもある土堰堤の工事を始めたのだよ。水は多摩川の小作取水堰というところから地下導水管により多摩川の水を導き工事をして、昭和7年10月に通水式を行っている、そして昭和9年4月に完成したのです。」など知ったかぶりして、学校の遠足のときに聞いた薀蓄を疲労する。
突き当りには公園もあったが、左の狭山湖の遥か向こうに、晴れた日に見える富士山がとてもきれいだった。右の石積みの土手堤を降りると芝の広場がありグループがフォークダンスや、バレーをしていた。輪になって歌を歌っているグループもあり、一緒に歌おうと誘われる。土手堤端の芝生で、持ってきていたゴザで、滑り降りる遊びをしている子供たちも見かけた。もちろん板切れを拾ってきて、スキーのように滑り降りた。

狭山湖の外周を車で行くと、滑りやすくて、かなり危険であった、落ちそうになるし、ぬかるみにはまると抜け出すのか大変だ。それでもなんとか、六道山の展望台まで出ると、あとは楽な道となった。
この六道山の展望も好きで、東京の景色がそこから見えた。夜景がきれいだった。当時そう思っていたが、今考えるとどうもその方角は、横田基地方面だったようである。そこか山口観音のほうへ戻るのであるが、途中料亭があった、いつかはこんな店に入れる身分になりたいなど思ったが。そんな機会は無かった。
東村山から多摩湖の外周道路でユネスコ村方面へ行く道も覚えた。西武多摩湖線のガードをくぐった突き当りが西武遊園地で夜といえば西武園遊園地などであった。
右折して、競輪場のある駐車場から、西武園の塀の近くに車を止め車の屋根に乗って、塀を乗り越えて、入っていた。閉園時間まで間が無い時間帯なので,言えばただで入れてくれたが、ことわるのが面倒であった。
中央の池にウォーターバレーがあった。噴水のバルブを機会が自動的に開け閉めしたりしてまるで、噴水が踊っているように見えた。そこに七色の照明があたり、その色も変化する。幻想の世界であった。
 エルビス・プレスリーの映画の影響を受け、実写でこの噴水をバックにミュージカル映画が作れれば、などという妄想を描いたりしていた。

 また近くにはユネスコ村がありいろいろな国の建物を見ることができた。昼間なら蒸気機関車で狭山湖そばの駅まで、行き来できた。
そのおもちゃのような鉄道途中のすれ違い駅の付近に、バイクでヒルクライミングするに、ちょうど良い崖が存在していた。虫プロでは、ホンダのN360を使用していたので、その車でバイクと同じような崖を走ったりもした。そんな時彼女たちは、崖の上でその危険な走りを見ていた。
ベトナムへ行くわかい兵士が、バイクで来て、ずいぶん無茶なことをしていた。
とうとう一人の男がクラッシュして数十メートル吹っ飛んだ、仲間が駆けつけたが、意識が無い。軽とはいえ四輪は私だけ、助手席に彼を押し込んだが、ずい分でかくて彼らは押し込むのに苦労していた、近くの診療所へ連れて行き、治療のあいた彼らと会話した。
あしたベトナムへ行く、兵士たちであることをそこではじめて知った。「絶対帰ってきてください、」と、名も知らぬ兵士たちに言っては見たが、幸せボケした自分たちとかさね合わせると、言いようの無いものが胸にこみ上げた。
数年前から反戦歌が流行り、「花はどこへ行った」の花シリーズや、PPMなどが歌われていた。

ここに書かれていることはフィクションです。
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虫プロ外伝

2006年12月22日 11時26分29秒 | 虫プロ
おことわり
文章を書くのが下手なので、もう少し文を書くということを、勉強したいと、欲した。そこで、昔のことを書いてみようと思ったが、昔のことで、思い出して書くのは不可能であることに気が付く、するともう、文章がかけなくなる、そこで一計を案じ、すべてフィクションで書くことで、筆を進めようと欲した。
 であるから以下の文はすべてフィクションである。
登場する人物、その名前、場所、等、実際の名称と出来事とは、関係ないことを、記しておく。

内海武雄君 彼と初めて話したのは、彼がジャングル大帝の作画をしていたころ、2スタの駐車場、休憩時間いつものように遊んでいると、珍しいバイクにまたがっている男が居た。顔は、強面でどちらかというと、取っ付き難いタイプであるが、向こうから話しかけてきた。「陸王というバイクだ」など、話してみると、案外やさしい。そのことが、きっかけとなり、話すようになった。虫プロでの殺人的な「千夜一夜ものがたりが」が終わり、少しの時間のゆとりが出来ていた。
 忙しかった、そのしわ寄せか、虫プロには結婚ブームが起こっていた。進行仲間でも、幼馴染と結婚した神田武幸君以外は本橋 誠にしろ、牧元 悟にしろ、網田靖夫や、渋江靖夫と皆、結婚していた。まだなのは、安達 登君や片山秀男君伊藤幸松君近井 勉君ぐらいで、うかうかしてると先を越されそうな雰囲気であった。遅すぎた青春を取り戻そうと、できるだけ女性に声をかけるようにしていた。幸せなことに虫プロは昔から美人が多いことで、有名であった。

電話交換室に居た、龍子さん、(匿名)彼女は一度聞いた電話番号を覚えてしまうという、ものすごい特技を持っていた。龍子さんにとって、まさに天が与えた仕事といってよかったのだか、龍子さんもアニメ制作という魔物に取り付かれ、制作事務に移動してきた。
遅くなった時など、所沢の実家まで、送ってあげていたりしていた。そのことで、私に対して、龍子さんが「あの人、とてもいい人」という、良い評判を立ててくれた。そのおかげか意中の人K子(匿名)さんにめぐり合い、親しくお付き合いできるようになっていた。

 7月7日の七夕には、第二スタジオの一階の部屋でゴーゴパーティーを、開こうという話が出て、虫プロエレキーバンドの演奏会で開かれる事になった。飾りつけは、新田 雅利らが、ミラーボールだの3色のスポットライトなど借りてきた、飾り付けを、女性スタッフが色紙などで作り、内海 武雄たちも積極的に手伝ってくれた。東映動画や、タツコプロなど、近隣のプロダクションにもパーティー券を売ることが出来た。その日、リードギターの牛越 和夫はのりに乗っていた、初めの約束では、ギターアンプのボルームは4までと決めておいたが、いつの間にかフルボリュームになっている、これは、練習のときから、で、興に乗ってくるとボリュームを上げてしまうのが、彼の癖であった。だからリードボーカルの木口 準のボリュームを上げる、それでもギターに負けるものだから、声をからして絶唱する。1時間もすると疲れてくる、それに、飲み物もの飲みたい、曲はクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイバルの「スージーQ」ギターの牛越が木口に目で合図する、間奏の部分でメンバーの紹介、最後にドラムの内田 有紀彦が紹介され、ドラムのアドリブソロとなる、そこでメンバーが舞台から降りて、ジュースを飲んだり、駐車上へ出て休憩する、その間ドラムの内ちゃんは、ドラムソロだけで、みんなを躍らせている。30分そのまま、今ならいじめと言われてしまう。新田Aさんが駐車場で休憩しているメンバーのところへ来て「もう限界みたいよ、泣いているから、戻ってあげろよ」と言ってくる。舞台へ戻って、リードギターから曲に戻って歌に入り、演奏が終わる。なんと延々50分の演奏、その間みんなは、日ごろの鬱憤を晴らすかのように、踊りに踊っていた。みどりさんが、静かなカーペンターの曲を歌い、ゲストでこの日のために練習したフルートの吉村 昌輝君がHerbie Mann(ハービー・マン)のメンフィス・アンダーグラウンドや「ジェスロタル」のブーレをレコードどおり声を出しながら演奏した。
仕事中の手塚先生が「我慢の限度を超え」そのお使いに先生のお母さんが来て、やわらかくストップをかけてくれた、夜遅くまで行われた。
 K子と彼女のお友達を送ることになった。笠井 志都子といった、昨年6月の募集で仕上に入ってきたらしい。家は新座の片山、だという「ついでだから、内海君も一緒に送ってくよ」といい、東久留米の内海のアパートへ行った。
内海のアパートで会話をした、女性二人が、茶箪笥から湯飲みや急須を出してお茶を入れてくれた。「こんな女性って良いよね」など言っているうちに、11時近くとなり、K子の門限時間が迫ったので、お開きにすることにした。
先に靴をはいてドアのところで、笠井君が出てくるのを待った。「あれ?笠井君は」という私にK子がひじで、小突いて、「ばかね」といった。
 すでに彼らは、同棲生活していたのであった。K子を送りながら、「知ってた」とたずねると「どうも、おかしいと思った」とK子は答えた。
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日本誕生

2006年12月18日 09時23分25秒 | 虫プロ
それからずいぶんと日にちが経過した。山本暎一さんは、主人公を、千年の寿命を持つといわれているカッパ、河童の家族を主人公にすることに決めた。その河童の目で千年という単位の、歴史を語らせることができ、その家族が稲作の歴史をたどることで、稲作の夜明けを表現しようとした。タイトルは「日本誕生」となり、放送は3話の話とすることになった。
キャラクターは、手塚先生の親友、馬場のぼる先生にお願いした。以下確認できているスタッフである。
演出 脚本 山本 暎一
構成 野崎 欣宏
担当制作 下崎 闊
音楽 富田 勲
作画監督 瀬山 義文
声の出演 鈴木 瑞穂
山本暎一さんが出した本には、この時暎一さんは会社を興して、「有限会社理想社プロダクション」を作ったと書いてある。場所も秋津で2階建ての家を借りた。社長には友人がなり、瀬山義文さんも社員となったとも。
 しかし、この理想社のことは、知られていない、「日本誕生」のことを書こうと調べたのだが、わからない。友人たちに、聞いても、誰も理想社のことは覚えていないというのだ。

 当時山本暎一さんを送っていったのは、新目白通りで下落合方向中落合陸橋をくぐった、すぐ右側のマンションであった、そこで仕事もしていた。

 作画はそれこそ、社内外注を使った。何せ、あしたのジョーも、クレオパトラも、書くべきものが、出来ていないので、比較的、定時には帰宅できていた。他社の外注も使って書いてもらっていた。
本来ならすべて外注だから、一人で進行をやるのは無理な話である。
「「やさしいライオン」で出来たのだから、」「君でなければ頼めないのだから、」など、すっかり人の性格を知り尽くしている、プロデューサーの口車に乗せられて、寝る間を惜しみ、デートを重ねながら、せっせと働いていた。
仕上は、民話社なる会社が積極的に売り込みに来て、そこへも出していたが、今までは比較的田舎(失礼郊外)の西にある外注さんに出していたが、民話社は青山通りのど真ん中にあった。まぁ走行距離の伸びること、それまで、持っていた軽自動車のキャロルを、疲れるので、ブルーバードに買え変えたほどであった 。

また、背景に(美術)富田美穂さんという方が居たと思う。山本暎一さんが、その絵を気に入り、千夜一夜の頃連れてきたらしい。
 2スタの2階で、その女性が近づいてきて「わたしを、覚えていませんか」ときた。いくら異性を気にし始めた頃とはいえ、手当たり次第に、声をかけているわけもないし、人に言えない悪い事をしてもいない。胸に手を当てても、思い当たる事もない。けげんな顔をしていると「富田美穂です」といった。頭の中のファイルを全速力で、検索する、どこかで聴いたことのある名前、過去にさかのぼる、ず~と、むかし、近所で、お父さんが、NHKで司会をしていた富田さんのお嬢さん、同級生だ、クラスは違っていたが2クラスしかない時代、みんな顔見知りであった。その美穂さんと、卒業以来まったく会っていないのに、虫プロで再開した。それは驚き出会であったが、騒動の幕開けでも会った。
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二十世紀アワー「日本誕生」

2006年12月17日 13時06分48秒 | 虫プロ
日本テレビ 「二十世紀アワー」 で牛山 純一局次長さんに山本暎一さんらと、お会いする。
牛山 純一さん(うしやま じゅんいち、1930年2月4日-1997年10月6日)は、日本のドキュメンタリー映像作家で東京都生まれである。早稲田大学文学部卒業ののち、1953年、日本テレビに入局し報道記者として活躍し、1961年ドキュメント番組「ノンフィクション劇場」を製作開始、「老人と鷹」で、民放祭(現日本民間放送連盟賞)金賞と取る。1965年「ベトナム海兵大隊戦記」が大きな反響を呼んだ。のちには、1972年独立して「日本映像記録センター(映像記録)」を設立。フリーのドキュメンタリー映像作家となり、日本テレビでの「トヨタ日曜ドキュメンタリー 知られざる世界」「日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行」などを手がけた。その他の主なプロデュース番組「20世紀アワー」 「楽しい歴史旅行」 「ドキュメント人生の劇場」 「ナゾの海底探検」 「生きている人間旅行」などがある。

暎一さんは、この時のことを、老けていて50歳ぐらいに見えた、が実際は40代であったといっているが、 そのとおりで実際は40歳であった。
「実写で過去の歴史を表現するには、時代考証や歴史事実を探り新たな発見で、歴史は変わってしまう、そこで、漫画で歴史を表せばそれらの難問が解決できる。」と暎一さんに語った。
そして、虫プロをやめてはいたが、山本暎一さんが〝すべてをすることになった〟つまり、お話を作るところから、演出など、すべてである。 虫プロの「日本誕生」制作の始まりであった。
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東京の山賊

2006年12月16日 15時10分15秒 | 虫プロ
昭和45年この年の3月15日から9月13日までの183日間大阪府吹田市の千里丘陵(約350ヘクタール)で「日本万国博覧会」が開かれました。通称「大阪万博 EXPO'70」といわれ、財団法人日本万国博覧会協会が主催しました。

当時マスコミなどでも大いに盛り上がって、「バンパク」として親しまれました。
「人類の進歩と調和」をテーマにして、日本を含む77カ国と四つの国際機関が参加して、総入場者数は、6421万8770人と万博史上最多になり、万博史上初めて黒字となりました。

当時の著名な芸術家や企業なども、多数、協力しています。
今も大阪のエキスポランドにそびえる、芸術家 岡本太郎さんの「太陽の塔」などが有名です。

 手塚治虫先生も、この日本万国博覧会には深くかかわり、セイコー館で上映されたアニメ「おかしな一日」や、フジパンロボット館のプロデュースなどを手掛けていました。

この「おかしな一日」は日本万国博覧会のセイコー・パビリオンで上映された,エンドレスアニメーションです。 
手塚 治虫先生が製作、原案、構成そして絵コンテと演出、作画を北野 英明さんが担当しております。5分42秒、カラー作品でエンドレス上映されなした。

二人の悪戯好きなミドリとオレンジの宇宙人が地球にやって来て、時間を狂わせてしまいました。
 その日の内に季節がどんどんかわって、春夏秋冬と変わって行き、暑くなったり、寒くなったり、おじさんも、あたふた。やっと二人の宇宙人が、機械をなおして、もとの季節に戻ると言うお話でした。

宇宙人のいたずらで時間が大混乱してしまった一日の出来事を通して、時間の大切さを語りかける内容です。
めまぐるしく季節が移り変わって行く様子は、手塚治虫が愛したメタモルフォーゼの魅力にあふれています。
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東京の山賊

2006年12月15日 10時58分07秒 | 虫プロ
「東京の山賊」はその昔「銀座の山賊」という題名で一度昭和37年NHK教育テレビで土曜の夜9時から40分番組として放送されておりました。芸術祭参加ドラマでした。
内容は
交通事故に題材をとった大人のためのメルヘンです。
 西銀座の交差点で、交通整理中の柏木巡査が足の水虫を掻いている間に、とんでもない事件が起きる。入っている車すべてがひっくり返されてしまい、この界隈は大騒ぎになるが、誰も騒ぎを起こした犯人を見ていない。
巡査がほとほと困り果てていると、一人の少女が現れ、事件を目撃した、犯人は友人の山賊だと言う。しかし誰も見たものはおらず、チンプンカンプン。
それもその筈、この千絵は四次元世界からやってきた少女で、彼女にしか山賊は見ることは出来ない。
とんでもない事件は引き続き起きる。車と言う車全てのタイヤが外されたり、走っている車が突然消えたり‥。テレビ技術の粋をこらして、銀座が一瞬にして美しい森になったり、時間の止まった世界を千絵だけが自由に動き回る‥。
お話を書いたのが、永六輔さん。出演がハナ肇(柏木巡査)、黒柳徹子(千絵)。昭和38年に名古屋で再放映されていたことも確認できています。



 今回の「東京の山賊」
放送は昭和45年4月18日土曜17時05分から、30分番組でした。

増える一方の交通事故を、アニメーションを駆使して風刺するミュージカル・コメディとして制作されました。
昭和37年にNHK教育で放映された「銀座の山賊」のリメイクです。虫プロではアニメの部分を受け持ちました。
 この当時、虫プロ商事では、バンパイヤの合成技術を生かしてコマーシャルなども作ったいました。
 実写とアニメーションを合成させる技術は、 虫プロ商事 江古田スタジオで得意とした分野でした。
おの「東京の山賊」もその技術をかわれたものでした。
「東京の山賊」あらすじ
 自動車渋滞で溢れた東京銀座の路上で突如として現れたアニメの山賊たちが道路上の自動車をひっくり返してしまったのだ。その自動車はかつて違反や事故のある自動車ばかりばった。その山賊は、水虫製薬のセールスマン和田の作ったキャラクターで車のドアに書かれていたものであった。和田は、銀座で追突事故にあって首を痛めて仕舞う。一瞬気を失った和田が気が付いてみると、まわりの車は全部ひっくり返っている。犯人を知っている人は誰もいなかったが、和田は確かにドアに書かれていたキャラクターの山賊を見たような気がする。警視庁挙げての必死の捜査にもかかわらず、原因がわからなかった。 捜査に当たる水虫の柏木巡査、その恋人のヒロコ 歌があって踊りもあり、そして虫プロのアニメありの30分バラエティー番組でだったのでした。
出演者 です。
柏木     関口 宏
ヒロコ    由美かおる
警視庁主任  三国一郎
古谷巡査   なべおさみ
座談会アナ  中尾ミエ
座談会男   桜井センリ
ダンプカー運転手 ジェリー藤尾
看護婦    園 まり
アナウンサー 姉川ローザ
R・ホルトハウス
F・グルーバー
大臣     梶 哲也
ムチウチーズ デューク・エイセス
山賊親分の声 熊倉一雄
山賊子分の声 テアトル・エコー
解説者    竜岡 普
神主     福原秀雄
指令官    和田 周
パトカー   笹岡勝治
運転手    小野泰次郎
主婦     石橋暁子
若者     田村元次
    土屋靖雄
マダム    橋本のぶ子
写真屋    吉村 祥
看護婦    滝上秀子
群集     星プロ
巫女     小沢昭一
和田     谷 幹一
【作】     永  六輔
【音楽】    中村 八大
【作詞】    井上 頌一
   かぜ 耕士
【演奏】    新室内楽協会
【振付】    川西 清彦

【制作スタッフ】です。
 撮 影  高尾  隆
 照 明  小島 忠彦
 録 音  植松 信孝
 編 集  青野 伸司
 美 術  星野  昭
 効 果  川崎  清
 特殊撮影 田中 邦彦
 制 作  遠藤 利男
 演 出  末盛 憲彦 

アニメーション部分を虫プロダクションが。制作しております
 虫プロの主なスタッフは
 米山 安彦が 制作
 杉  重行が 演出
 木下 蓮之が キャラクター
と、タイトルには出ておりますが。

  米山 安彦 は  米山 正彦 さん
  杉 重行 とは、 林 重行 さん
  木下 蓮之も 木下 蓮三さんのことですね。
何で、みなさん偽名、なんでしょうね? 
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どろろと百鬼丸

2006年12月06日 15時15分04秒 | 虫プロ
進行を見てみよう。一クール目
1話 おおだ靖夫(網田)2話国井よういち(洋一)3話中川 宏徳 となっていて
はっきりしているのは以下となる。
おおだ靖夫(1,5話)
国井よういち(2,11話)
中川 宏徳(3,8話)
熊五郎(9話) (安達 登)
金沢 秀一(10,12話)
柴山 達雄(13話)
2クールからは
片山 秀雄(15,18,22,26話)
中川 宏徳(16,19,23話)
真佐美ジュン(17,21,25話)
近井 勉(20,24話)
となっていて中川君を除けば、まったく換わっていることがわかる。

初めのワンクールは、脚本はなかったと思う、原作があったので手塚先生と演出家との打ち合わせで、絵コンテを描き、絵コンテの校閲を終えて、作業に入った。
ツークールからは、どろろのキャラクターをもっと前面に出そうと、話の切り替えがあった、そこでシナリオが必要となったが、これも、話のアイディアは手塚先生から、鈴木良武さん、佐脇徹さん、杉山卓さんなど脚本家に伝えられた、当然校閲があり、なおしも出る、スケジュールのおくれも、であった。

なにを、いいたかったのかというと、初めのワンクールと、次のツークールめは、お話は同じであるが、おなじ虫プロで作っているのであるが、一口で言うと、同じであって異なもの、うまくいえない、「いっしょくた」にしてはいけない、
見方をかけて研究しなければいけない、テレビシリーズなのである。
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どろろと百鬼丸

2006年12月05日 15時12分30秒 | 虫プロ
北野さんは、このあと麻雀ブームで、麻雀劇画で有名になるがこの頃は児童向けの単発読み切りまんがを描いていた。またの昭和47年手塚先生の推薦で、「牧口先生」と言う心に残る漫画を描いた人でもあった。
ひばりが丘から荻窪の閑静な住宅の川端康成が、泊まって小説を書いていてもおかしくないような、旅館ふうの家に越して住んでいた。
 よく、まんちゃんやささかど君、それにひげじじさんなどが、アシストの手伝いに行っているのに出会ったものだた。それまで北野さんは上口照人さんと作画監督ということであったが、チーフディレクターに指名されたのであった。

日本語で、総監督、横文字にすれば、ティーフディレクターなのである。
制作を調べる。制作柴山 達雄、やはり1話から13話となっているので初めの1クールまでが、シバタツさん、この頃虫プロの組合、火曜会の委員長だったかもしれない。親睦会から、労働闘争組合へと変貌しつつあった頃であった。
プロデューサー池内 辰夫 15話から26話となっている14話は受け継ぎのドサクサではっきりしないのであろうが、池ちゃんだったと思う。これも制作を横文字にすればプロデューサーである。
アシスタントプロデューサーに実力派の岩崎 正美さんの名前があるので、実質現場を取り仕切ったのは、いわっちゃんだったかもしれない。
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どろろと百鬼丸

2006年12月04日 15時07分58秒 | 虫プロ
どろろのスタッフについて
ネットで検索すると、実にいい加減なスタッフしか、判明しない。これは、虫プロのホームページや、手塚プロのホームページが、いい加減なスタッフを書いてあるためと思われる。また、ビデオやLDにしたときに、ろくすっぽ、調べもせず、いい加減なスタッフを書いてしまったからとも思う。
そうは、いっても、資料が何もないわけで、どろろのスタッフについては、手を付けたくなかった。
はっきりしているのは、初めの一クール(13話まで)とそれ以後は、タイトルが変更されたのは、衆知のことであるが、それに伴ってスタッフも変更となっている。
「千夜一夜物語」の追い込みで、どろろのスタッフも当然、手伝っているが、7月6日の14話からのスタッフの変化を見ると、何かわかるかもしれない。
原作 手塚治虫 昭和42年8月から少年サンデーに連載、
総監督杉井ギサブローとなっており1話から13話と断っている資料が多く見つかる。
記憶が正しければギッちゃんは、アートフレッシュにいたが、田代さんたちが独立してグループタックを、立ち上げたのがこの年であったと記憶している、ギッちゃんも参加していたのと、どろろを降りたという言葉があたまの片隅にある。そして、チーフディレクターに北野英明さんが、手塚先生から指名された。
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どろろと百鬼丸

2006年12月03日 15時03分39秒 | 虫プロ
この「どろろ」は(声は松島みのりさんでした)野党の頭の子として生まれました。部下の裏切りによって、両親を失い天涯孤独となった身の上でした、ストーリは怪奇な身の上の百鬼丸(声はアランドロンの声でおなじみだった、野沢那智さん)の影となってしまいタイトル「どろろ」の存在が霞みがちでありました。貪欲なまでのバイタリティーある、「どろろ」は自分の運命を変えようとする人間として描かれ、運命に縛られた百鬼丸とは両極端であり、「どろろ」は異色の時代劇アニメということだけではなく、そのテーマにおいても、問題を投げかけ、話題となった作品でした。
 
7月6日の2クールめからはタイトル名を「どろろと 百鬼丸」と変更しています。「千夜一夜物語」が終了して、スタッフの配置換えもありました。
第1話 「百鬼丸の巻・その一 」 演出 出崎 統 では
「戦国の持侍であった醍醐景光は自分の野望をかなえてもらえるなら、生贄として生まれてくる自分の子どもを48体の魔神に捧げると誓った。そのせいで赤ん坊は体の48箇所を奪われて生まれてきた、そしてあまりのおぞましさに醍醐景光はその子を川へ捨ててしまった。

しかし赤ん坊は生き延びた。天才的な医師に身体の足りない部分を補われ、百鬼丸と名乗って成長した。
百鬼丸は常に死霊に付きまとわれていたが、天才的な医師によって両腕の義手に仕込まれた鋭い剣で、それらを切り倒していった。
そんな百鬼丸はある時、刀と名がつけば何でも欲しがる刀泥棒の少年、どろろと出会った。
というストーリで百鬼丸の生い立ちと「どろろ」との出会いをえがいていました。
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「どろろ」

2006年12月02日 16時48分40秒 | 虫プロ

昭和44年4月6日「どろろ」の放送が開始されました。
手塚治虫原作の「どろろ」は昭和42年8月27日から昭和43年7月22日まで 「週刊少年サンデー」(小学館)に連載されました。
テレビ化を考えての連載で、連載当時は、白土三平の時代劇物や水木しげるの描く妖怪マンガがブームだったため、それを意識していなかったといえば嘘になります。
ですから、パイロットフィルムも昭和43年1月には完成しております。それは、13分53秒のカラー作品で作られました。なかなか放送は決まりませんでしたが、モノクロにして価格を下げることで、4月からの放送となったのでした。
 体の48箇所を魔物に奪われた百鬼丸が、魔物退治の旅を続けるという怪奇マンガでした。
戦国武将に仕える醍醐景光は、天下を取るという野望をかなえるために、生まれて来るわが子の体を、48匹の魔物に与えてしまいました。 そうして生まれた子供は、体の48ヵ所の部分が足りず、川に流され捨てられてしまいました。
時は流れ、戦(いくさ)の世を旅する少年・百鬼丸。実は彼こそが、魔物に体を奪われた赤ん坊の、成長した姿だったのです。 百鬼丸は、体を奪った妖怪を1匹倒すごとに、失った体の部分を1ヵ所取り戻すことができるのです。 百鬼丸は、どろろというドロボウ少年と知り合い、一緒に旅をするようになります。  しかし、どろろと百鬼丸の行くところ、妖怪や死霊が、次々と襲いかかって来るのでした。

どろろは日本の戦国時代を舞台として、東洋の伝説や説話に出てくるような妖怪が次々と登場してきますが、これらの妖怪は、すべて手塚治虫の考えたオリジナルです。 連載当時は、ちょうど水木しげるの描く妖怪マンガがブームだったため、それとくらべて語られることが多かったのですが、『どろろ』は、むしろ妖怪マンガというよりは貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)と見ることができるのではないでしょうか。

貴種流離譚というのは、身分の高い主人公が幼くして故郷を離れ、数々の苦難をのりこえて英雄になるという、昔からある物語の一類型のことです。 この「週刊少年サンデー」の連載は未完のまま中断しましたが、その後、テレビアニメの放映に合わせて、月刊雑誌「冒険王」に第2部が連載され、一応の完結を見ることになりました。
近年中国映画で「謝英雄伝」というのがありますが、まさにそれであり、このどろろもいつかは「謝英雄伝」みたいな実写で作りたいと思っていましたが来年先を越されてしまいました。あまり期待はしておりませんが。
http://www.dororo.jp
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海底都市の出来るまで

2006年11月12日 17時02分13秒 | 虫プロ
山本暎一さんによると、暎一さんに援助を求めたのは12月28日であったと言う、40分しか出来ておらず、現在必要分数が足りなくて、納品に間に合わない、そのうえ演出が降りたと言うことであった。スタッフが正月休みに入って作業が出来ず、不足の5分強をストーリーを損なわず、資料室のライブだけで作る作業をすることになった。1月3日撮影が終わり4日編集5日アフレコダビング、6日納入そして2月2日日曜日午後10時半日本テレビで二十世紀アワー「海底都市の出来るまで」は放送することができた。 しかし、
山本暎一さんは「千夜一夜物語」のフタッフから正月休みに内職をしていたと見られてしまった。この仕事は虫プログループの危機を救うためで、役員であった山本暎一さんには、給料が増えたわけでもなく、残業代も付かず、正月休み返上の徹夜続きはただ働きであったのだ、まさに「泣きっ面に蜂」であった。
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海底都市のできるまで

2006年11月11日 16時58分22秒 | 虫プロ
海底都市のできるまで
日本テレビの「二十世紀アワー」44年2月2日45分17秒カラー作品 虫プロ商亊(ほとんどが虫プロのスタッフ)ストーリーは次のようであった。
海底都市建設をライフワークと考えた山本太郎は昭和47年東京エレクトロニック社で働き始めた。小型潜水艇技師である、三上和子と結婚多摩ニュウタウンに住む、1983年にマンボウ号遭難救助や1986年息子と海底都市 瀬戸オセアノコピアを着工、事故で息子泰介を失ったりするが1997年 海底都市を完済させる。
手塚先生は山崎忠昭さんに脚本を依頼している。
制作プロデューサーがW3の池内辰夫、実際には柴山達雄さんが補助として動いていた。演出が坂本雄作のちに年が明けて山本暎一さんに泣きついて?いる。キャラクターが木村しゅうじさん背景デザインが藤本四郎さんで、背景が松本強さんと槻間八郎さん、トレスが北岡光代さんなどで、彩色が高橋富子さん
進行に片山秀夫さん、北岡輝久さん、野崎欣久さんなどであった
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ワンダー君の初夢宇宙旅行

2006年11月10日 23時50分42秒 | 虫プロ
11月23日土曜日 晴 虫プロ運動会が豊島園内グランドで9時半から開かれ   なかった。 徹夜続きで集まりが悪く会社の始まる時間9時半では人の集まりが悪かったのだ、協議の結果10時半から開始にして、挨拶、そしてラジオ体操で始まり、パン食い競争や、騎馬戦まであって、寝不足を忘れて3時すぎの最後までみんなが憂さを晴らすように大いに楽しんだのである。
楽しんだあとは日曜もなかった、兼任であったので
11月24日日曜日 富岡厚司プロデューサーは富士見台駅前にあった手塚プロへ、「千夜一夜」のストリーボードを手塚先生に見せるようとわたしに指示している。(手塚先生に見ていただく大変さは、ただ順番が来るのを祈って待つだけ)
そんな中有名な事件も起きた。
12月10日火曜日 東京府中市で3億円強盗事件が起きる。都内いたるところで検問が行われ、池袋西口で検問を受けたが、午後には、混雑しすぎると、検問はなくなった。
撮影最後のシーンはNHKの一番大きいとスタジオでのブルーバックによるワイヤーに吊っての撮影であった。
NHKのプロデューサーはこのスタジオが使うことが出来るのは、大変なことなのだと説明してくれた。
 作画は杉山卓さんと月岡貞夫さんで、予定通りに上げた。仕上げが杉山卓さんのスタジオの奥野りえ子さんなど、背景が伊藤主計さんを中心に、撮影監督とエリアル合成、山浦栄二さん、音響グループタックの田代敦巳さんそして音楽横山菁二さんアフレコやダビングも終わり、完成試写も無事終わった。
12月30日 進行はNHK渋谷の放送センターへ西口通用門からすでに顔パスで入り、大晦日紅白歌合戦に向けて、リハーサル中の騒がしい中のんびり見学しながら、フィルムをお届けした。
1月2日午後6時からNHKで「ワンダー君の初夢宇宙旅行」が放送された。
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ワンダー君の初夢宇宙旅行

2006年11月09日 23時44分48秒 | 虫プロ
11月20日を過ぎたところで手塚治虫の校閲が済んだ部分の作業へ入る。実写部分のロケは清瀬旭が丘団地の制作室の池内 辰夫プロデューサー宅で行うことになる。
 11月22日金曜日 清瀬市旭が丘団地の池内宅へ行く、奥さんと子供さんにお会いしてロケーションで庭など使わせていただく場所の打ち合わせをしている、その後東村山警察署へ、ロケの届けを出し東京電力東村山営業所に行って,ロケで使用する機材や証明の電源をお願いして配電盤を取り付ける位置をきめてきた。再度ロケ現場に戻って、車の屋根に上って、電柱の途中に配電板を取り付けておいた。後日東電で配電盤まで配線してくれてあり、そこから機材の電源を取ることができた。
千夜一夜物語の進行など兼ねていたので 外注に絵の具を届ける等の仕事もしていた。
手塚先生の校閲が終わり絵コンテのOKが出るとすぐにコピーしてNHK担当の今西プロデューサーへ届ける。西部工芸の小道具の椅子の出来上がりが遅れる手塚治虫校閲済み分の絵コンテ5部コピー5時過ぎ伊藤と卓プロへ杉山卓と作画の打ち合わせ などとほんの1日だけとっても、忙しさがわかるであろう。
しかし楽しみもあったのだ
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