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真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

哀しみのベラドンナ

2007年02月27日 18時51分56秒 | 虫プロ
 全編中、最も異色なシーンがジャンヌが身も心も悪魔に捧げた直後、ポップな画風で様々なイメージが錯綜するパートだ。

ここの作画は後に『まんが日本昔ばなし』で演出も手がける美術の児玉喬夫。その後のジャンヌが目覚めるシーンは、まるで油絵が動いているかのような映像だが、ここは漫画家、イラストレーターとしても知られる林静一が担当している。そして不透明の絵の具で描きながら、撮影を進める手法がとられている。

 当時の資料には、スタッフの中に「実写撮影」の役職で前衛的な作品で知られる写真家の森山大道の名がある。実は当初、劇中に実写パートが挿入される予定であり、そこに彼が撮った映像を使うプランだった。

 内容は現代の日本の女性を撮影した、ジャンヌの物語とは直接関係のないもので、当時の「キネマ旬報」の記事によれば、マスコミ向けの試写では、まだその実写パートが残されていた。

 ラストシーンも数バージョンあり、現在ソフト化されているものは、ヒロインのジャンヌが火あぶりになったあと、エピローグのフランス革命に物語がつながるかたちになっているが、この他にも、火あぶりのシーンで終わるバージョンなども公開されている。

 また、かつてあるアニメーション専門書に配給会社である日本ヘラルドの社長が、最初の試写で『ベラドンナ』を観て、わけがわからないと言い、そのために制作をやり直す事になったと書かれ、多くのアニメファンは、ながい間、その逸話を信じていた。

 1989年に山本暎一さんの著書「虫プロ興亡記 安仁明太の青春」が発行され、新事実が明らかになった。

 先に納品されたのは、納期に間に合わせるための間に合わせの映像を入れて、一度完成させたものであり、スタッフ達はその後も制作を続けのちに差し替えた。

そのために、莫大な製作費が浪費されてしまった。

また、『ベラドンナ』が映倫よりカットするように指示されたとも書かれていたが、LDのスタッフコメンタリー(リリース中のDVDにも同じものが収録されている)で山本さんはそれを否定。カットが入ったのは前々作の『千夜一夜物語』であり、『クレオパトラ』だったと、語っているのでそのとおりであろう。

お話

 中世フランスのとある村。ジャンとジャンヌの婚礼の日、領主は貢ぎ物の代わりにジャンヌを犯し、家来達に輪姦させた。村は飢饉だったが、悪魔の力を得たジャンヌは紡いだ糸を売って生計を立て、そのおかげでジャンは税金を取り立てる役人になる事ができた。だが、戦争の資金が調達できなかったジャンは左手首を切り落とされ、やがて、ジャンヌは悪魔つきとして村人に追われる事に。ジャンにも見放されたジャンヌは、身も心も悪魔に委ねて、魔女となった。黒死病が村を襲い、人々は倒れていった。ジャンヌは毒草ベラドンナを使い、人々の病を治すのだが……。

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哀しみのベラドンナ

2007年02月26日 02時23分50秒 | 虫プロ
「哀しみのベラドンナ」

アニメラマで アジをシメタ、(←下品な言い方)日本ヘラルドは、毎年、アニメの配給を考えたが、虫プロでは、毎年の制作がムリなことが、判ってきた。丁度そんなときに、東京テレビ動画、から、谷岡ヤスシの原作での劇場アニメの売込みがあり。アニメラマをポルノとに換えポルノラマとして、「ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!」を上映した。

 封切りしてみると、散々なもので、閑古鳥が鳴き、当初の2週間を急遽1週間で、打ち切るという、惨敗に終わった。

 そこで再度虫プロに、お願いすることになった、が、すでに虫プロには、手塚治虫は、居らず、仕方なく役員会は、山本暎一さんに、虫プロに戻って、総監督の、労を担ってもらうよう交渉した。

 山本さんは『千夜一夜物語』『クレオパトラ』でも、手塚治虫と共に作品をまとめた虫プロの主力演出家・山本暎一。後の『宇宙戦艦ヤマト』シリーズ等、様々な傑作を手がる事になる彼の、単独での初の劇場監督作品となった。

 山本さんは独立して作画プロの一員であったが、そこからの出向という形で、総監督を引き受けた。

 たくさんの作品候補の中から、原作は、歴史学者ジュール・ミシュレの「魔女」を選んだ。

 虫プロダクション製作の「大人のためのアニメーション」第3作目だが、メジャーな娯楽作であった前の『千夜一夜物語』『クレオパトラ』とは方向性を大きく変え、実験的前衛性の高い作品として企画され、キャッチフレーズも、山本さんが毛嫌いしていたそれまでの「アニメラマ」から「アニメロマネスク」に変えた。

 作画監督は、前2作でエロチックなシーンを巧みに描いた、杉井ギサブローが担当し、本作でも存分に腕を振るった、映画中盤の黒死病が蔓延し、そのために街が溶けていくシーン等の原画も描いている。
 映像的には、イラストレーターの深井国をフィーチャーし、彼の画を活かすかたちで全編を制作。セル画のテイストを極力排し、静止画を多用する、あるいはイラストを動かすという手法がとられた。

 そのようなスタイルで作られたにも関わらず、個々の表現が非常に力のあるものとなっており、単なる実験的な作品に留まる事なく、鮮烈なアニメーション作品に仕上がっている。

 山本監督の才覚が炸裂したフィルムであり、アーティスティックな味わいの作品を多く残した「作家集団」虫プロダクションの集大成的な作品である。

など、心ある方々から、賞賛を受けた作品であったが、内容が前衛的であったためか『哀しみのベラドンナ』は興行的には大失敗に終わり、虫プロの息の根を止める原因となってしまった。

 日本ヘラルドも、手塚無しの大人のためのアニメーションも度重なる、失敗により、その後企画すらされていない。

 これほどの内容であるにもかかわらず、その後、振り返られる機会も少なく、『ベラドンナ』はアニメファンにとっては永く「幻の名作」となってしまったらしい。

 「悟空の大冒険」同様、文字通り、早すぎた作品だったのであった。
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ふしぎなメルモ 2話

2007年01月27日 11時31分15秒 | 虫プロ
 手塚プロに平田のポンさんが2人。
1人は手塚先生のマネージャーをしている、平田昭吾さんで昭和33年手塚先生初めての専任アシスタントとして上京、初台からの手塚先生とは腐れ縁の、元祖ポンさん。
 もう1人は虫プロでは古株で、アトムからのスタッフで押しも押されもしない、手塚信者の一人、演出家である平田敏夫さんであった。

その平田敏夫さんも、何かやらせろといって駆けつけてくれた。あしたのジョーの演出を担当していて、虫プロと深く関わって、おいでだった。

 先生の意向なので,虫プロ関係者として当然丁重にお断り申し上げた。
 ところが馬鹿なこというのではない、私はフリーの立場にいる、私が何を演出しようと私の自由だ、というのである、涙が出るほどうれしかった。

 すぐに第2話の演出をお願いできることに決まった。

 第2話は手塚先生も大変気に入っていたお話で、実際に像のニュースが前にあった。そこからヒントを得た話で、演出のポンさんと、雑誌の合間に打ち合わせを重ねた。合間なので、待つ時間が多く、2階映画部で何日も無駄な時間を過ごさなくてはならず、一計を案じて、深夜手塚先生が手の空いたところで、手塚先生にストーリーを尋ねる、という形で、お話をカセットテープに吹き込み、そのテープから、絵コンテを書いてもらうことにした。出来上がった絵コンテは、さほどの直しも出ず、手塚先生自ら、大きな絵コンテに絵を清書して、作画がその絵を利用できるようにした上で、作画外注に回した。

第2話 「ブラ子どこへゆく」
 動物園に行ったメルモは、飼育係のおじさんから小象のブラ子の話を聞いた。体が弱かったブラ子は、心優しい権三爺さんに引き取られて雪国へ行き、今では元気に暮らしているとのこと。

(ここでは「小児麻痺」という言葉が使われている、当時ふつうに使われていた言葉であることは、承知していただきたい。「言葉狩り」が横行している現在、この「言の葉」は使用自粛、いや使用禁止となっている。すでに若者では、死語となっていて、意味が通じない。悲しいことである。)

早速メルモは雪国へ行き、ブラ子と対面する。しかしブラ子は元気が無い。権三爺さんは、ブラ子は思春期になり、恋人が欲しくて元気がないのだ、と言った。
 そこでメルモは、赤いキャンディを使い、ブラ子を卵にして雄象がたくさん住んでいるアフリカに連れて行くことにした。

 青いキャンディで大人になり、スチュワーデス採用試験に合格し、飛行機でアフリカに飛ぶメルモ。

(大人になりスチュワーデス試験に合格、すぐに飛行機に乗れるわけがない、などと、目くじらを立てていう、輩がいる。しかし、アニメの世界っていうのは、子供に夢を与える世界である。夢の中っていうのは、省略や、つじつまや設定がおかしい事など当然あるが、それにいちいち文句をいう人が、おかしいのではないか。)

 その足で象の住む地域へと行き、赤いキャンディを溶かした水に卵を浸してブラ子を元の姿に戻してやった。

(卵から細胞分裂のシーンの作画は、手塚先生がすべて描いた。枚数的にもスケジュール的にも、大変なことであったが、その撮影で、波ガラスを使うに当たって、撮影の菅谷正明さんは、大セルを持ってくるようにといい、撮影に立ち会った私の目の前で、セルをストーブの火にかざして、セルの形を変化させ、それを波ガラスとして使用した、回転させながら使用したそのカットは、普段の波ガラスを使用したときより、数段効果的で、手塚先生を喜ばせた。)

 まもなくブラ子は一頭の雄象に恋心を抱く、ところがその雄象は仲間たちとブラ子をいじめまくる。ブラ子とメルモを追いかけてくる、雄象たちを、青いキャンディで年寄りの象にしてしまう。

 日本に戻ったメルモとブラ子は、サーカスを見に行く、そこで活躍する雄象のジャンに恋をする。そしてジャンもブラ子に一目惚れした。

 ブラ子とジャンは、サーカスで結婚式を挙げる。そして新婚旅行で、船でアフリカへと旅立つのであった。


演出平田敏夫さんは本田 元雄という名前で演出を担当していただいた。この名前は、丸山さんが、「あしたのジョー」で平田さんにつけた、もうひとつの名前であった。
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ミースケ

2007年01月22日 01時19分10秒 | 虫プロ
ミースケとは、手塚先生のアシスタントの仇名であった。
イケポンという人も居たし、チーチャと言う人も居た。先生の主人公の名前にアシスタントの仇名や名前を使うことは有名であった。
 絵本などの出版モノを手塚先生のマネージメントをしていた、斉藤さん平田さん、そして先生の甥の手塚卓さんが、ひろみプロダクションを手塚プロの近くの電気やさんの2階に作っていた。手塚先生のマネージャーを兼任してであった。
平田マネージャーから、映画部の鈴木さんを紹介された。

 手塚先生が是非見てもらいたい作品があると言われ、先生の隠し部最上階の屋7階にある部屋で「氷の国のミースケ」を見せられた。音楽もよくお話も私の好きな話で、多分私は目をきらきらと輝かせて居たと思う。

「ヤマハのCM用フィルム、だけど、今年又注文が来たのだよ、一緒に作らないか」というのである。ことわれるはずも無い、一も二も無く、ことわりなんぞしたら地獄に落ちてしまうであろう。
当然お願いした。

今度は南国の話にしようと言う、
ミースケの家の戸棚からチーチャとイケボーが飛び出してきてふたりはお母さんを助けるため、神様ドンタンが出題する問題を解かなくてはならなくなる、ミースケに協力を求める、ミースケは戸棚を通って南の国へ行き チーチャとイケボーを助ける。

 絵コンテはやはり遅れたが、作画は正延さんのスタジオTAKEへ美術設定は西田稔さんに頼みムクオスタジオで描いて貰った。仕上は絵本でセルにトレス彩色をしていた、ベテランの池田径子さんに依頼彼女は、貫徹してまで仕上げを上げた。

音響は尊敬するタックの田代敦巳さん、打ち合わせのとき、アメリカでセサミストリートと言う番組が、子供たちの間で流行っているが、日本でも子供向けの良い番組を作るべきだ、と私に説明してくれた(のちにそのアイディアは日本昔話へと変化して行ったと、私は思っている)

撮影は鈴木制作部長の友人の菅谷さんを紹介され、使って欲しいと頼まれた。自宅を増築して、撮影機を取り付け独りで撮影外注としてやっていた。ギャランGTOMRを乗って珊瑚や、貝殻の輸入販売もしていた。

撮影出しの時になって、手塚先生が、背景のイメージが違う、もっとジャングルらしく羊歯類を書き込んで欲しいと、動画用紙に書き込んだ、確かに良くなる、しかし背景美術の西田稔さんにどのように直しを頼めばよいのか、すでに背景はすべて描き上がっていた。

先生のスケッチを持って西田稔さんに説明した、手塚プロの2階ですべての背景を修正し始めた、背景だけはお手伝いできない、筆を洗ったり、汚れを拭いたりぐらいしかできなかったが次の日から始まった撮影出しが終わるまでには、すべて独りでなおしてしまった。

これが虫プロの人たちの虫プロスピリットである、何事も無かったような顔押していた、見事であった。

ラッシュを見た、すっかり背景はジャングルらしくなった。でもお話は、「氷の国の」のほうが私は好きであった。
私の名前は出なかった。でも作ったのは私。
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手塚治虫 虫プロ社長辞任

2007年01月21日 16時19分14秒 | 虫プロ
つい最近のこと、突然、編集部に、こんな挨拶状が舞い込んだ。(71年7月1日週刊平凡)

 小生このたび、思う所ありまして長年御愛願いただきました虫プロダクションの社長としての役職から、円満に退くことになりました。

虫プロの挫折は、何としても作品の失敗である。しかし、それと同時に、人事的なアクシデントが余りにも多いことが致命的だったと思う。
 「虫プロは儲かる」という噂で、利権を欲しい人間が、蟻のようにどっと虫プロへとびついてきたことは事実である。
 また当初にあったファイトや熱気が冷えるにつれ、いたずらに、合理化をかざして会社としての組織化、打算的な仕事の受注を始めたこともまずかったと思う。
 合理化はスタッフへの締めつけとなり、従来は思いもよらなかった動画プロの労組結成という結果を招いた。労組は、当然ながら労働賃金やサービスを要求する。ぼくは仕事より大衆団交の席に座らされるほうが多くなってきた。もちろん経営者としてである。

 ついにぼくは、すでに有名無実となっていた社長のポストを譲り、役員を辞めて虫プロを去った。
 さすがに、我が子のように思ってきた虫プロを離れるのは、何ともいえずさみしかった。だが、虫プロはぼくのヴィジョンとは全く別の方向へ、独り立ちしようとしていたのだ。そしてスタッフは資金力以外、ぼくをもう必要としなくなったことも確かだ。
手塚治虫

虫プロをアニメ作家集団として進ませるか、営利企業として発展させるかの問題で、社内の意見は二分され、何度も社員総会を開くという騒ぎになった。結局、川端栄一部長を中心に企業体制をかためることに決着がついたが、それによって中心スタッフに辞職者が増え、また労働組合なども結成されて、手塚社長も経営意欲を喪失し、それまでの、赤字を負担するという条件で辞任するという結果になった。
(日本アニメーション映画史)

手塚さんの退陣は、赤字とは関係ありません。しかし、この世界が苦しいことは事実ですよ。アニメーションは、近代産業じゃない、マアニュファクテュア(工場制手工業)ですからね。どのプロも倒産寸前じゃないんですか。うちでは一本360万円もかけて制作したフィルムが倉庫で眠ってるんです。外部の人に仕事を頼むことも多いし、いろいろ資金面の圧迫はありますよ。   虫プロ商亊 今井義章社長
昭和46年6月 手塚治虫は、株式会社虫プロダクションの社長を退陣した。
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さすらいの太陽

2007年01月20日 11時55分41秒 | 虫プロ
虫プロには変な伝説があった。

手塚の漫画は売れないというものであった。
出所は、営業か、役員あたりからであったと思う。
つまりパイロットフィルムを作っても、営業できないのであった。

その言い訳にテレビ局側が「視聴率が取れなきゃ、うちは。困るんですよ。いまは、劇画のブームです。手塚先生の丸っこいキャラクターは子供たちも、もう飽きちゃったんですよ。 手塚先生の原作以外だったら、話を伺いましょう。」
と言われた。というのである。

営業自分たちの無能のせいで、セールスできないのを、手塚先生のせいにする、最低の者たちであった。

東京のテレビ局はNHKを含めると6局あったが、そのすべてをまわることすらしていない。ましてや、大阪や名古屋など、地方に目を向けるものなど皆無であった。

手塚治虫の原作を制作すると、校閲で直しが出て、スケジュールの遅れが出る。

これも、手塚アレルギーとして,役員に定着していた。

調べるまでもなく、手塚先生が、手を出した作品は、少ない。それなのにこのような、伝説が生まれ、定着してしまっていた。

何度も役員会が開かれ、手塚先生原作抜きで虫プロを、経営していく方針に決まった。そして、組合もでき、社長としての手塚治虫をさらに苦しめていった。

虫プロは、アニメの夢集団から、単なる漫画制作工場の道を選び、一企業としての虫プロとなり、合理化が叫ばれ、力のある人たちが、大挙してやめて行くこととなってしまった。

手塚治虫が虫プロ社長としての最後の作品「さすらいの太陽」が放送された。

さすらいの太陽
「少女コミック」誌で連載された同名コミックを原作に、1971年に放送されたアニメーション作品。

 昭和29年,同じ病院で二人の赤ちゃんが生まれる。一人は大財閥の令嬢、もう一人は下町の貧しい屋台のおでん屋の家の娘だった。
 だが、ひねくれた看護婦の野原美智子は、私怨から二人をすり替えてしまう。

 成長した令嬢、香田美紀は貧しい峰のぞみをいじめるが、二人は歌手になりたいという同じ夢を抱いていた。実は、香田美紀は、峰のぞみの歌手としての才能に嫉妬していたのである。

香田美紀が親の財力によって難なく芸能界デビューを果たしたのに対して、峰のぞみは、流しの歌手として下積み生活を続けることになる。

 やがて、苦しい下済みの中で先輩歌手のいじめにあったのぞみは、心を癒すために、芸能界を離れて日本中を放浪する旅に出た。

 素直な性格で誰にも優しいのぞみの行動は、時々披露される自作の「心の歌」とともに旅先で出会った人々に強烈な印象を与えることになる。

 その後、峰のぞみが芸能界から去り、一安心していた香田美紀は、奇妙な噂を聞くことになる。ラジオの深夜番組に心の歌のリクエストが殺到しているというのである。

 この噂は芸能関係者の間で「謎の歌手峰のぞみ」「幻の心の歌」として、あっというまにひろがった。

 相変わらず地方を旅していた峰のぞみは、音楽祭に参加するというあるバンドグループと知り合った。

 このバンドと一緒に参加することになった峰のぞみは音楽祭という思いがけない大舞台で、心の歌を熱唱することになる。
会場は大感動の渦に包まれた。

 大財閥令嬢としての幸せを奪い、さまざまな試練を見ること生きがいにしていた野原美智子にとって、峰のぞみが芸能界に衝撃的デビューを飾ったことは最悪の展開であった。

 追い詰められた美智子は最後の行動に出るのであった。

「さすらいの太陽」
昭和46年4月8日

4月 8日 第 1話 すりかえられた運命 脚本 雪室俊一・星山博之 演出 林 政行
4月15日 第 2話 二つの誕生パーティー 脚本 山崎忠昭 演出 高橋良輔
4月22日 第 3話 盗まれたメロデー 脚本 藤川桂介 演出 斧谷喜幸
4月29日 第 4話 私には歌がある 脚本 雪室俊一 演出 北島満章
5月 6日 第 5話 始めてのアンコール 脚本 鈴樹三千夫 演出 斧谷喜幸
5月13日 第 6話 訪ずれたチャンス 脚本 山崎忠昭 演出 北島満章
5月20日 第 7話 歌を忘れたカナリヤ 脚本 藤川桂介 演出 斧谷喜幸
5月27日 第 8話 二人のちかい 脚本 山崎忠昭 演出 北島満章
6月03日 第 9話 さようならファニー 脚本 山崎忠昭 演出 北島満章
6月10日 第 10話 あすへの旅立ち 脚本 鈴樹三千雄 演出 斧谷喜幸
6月17日 第 11話 ひびけ!トランペット 脚本 山崎忠昭 演出 斧谷喜幸
6月24日 第 12話 泣くな花笠 脚本 鈴樹三千雄 演出 北島満章
7月 1日 第 13話 ふまれた野の草 脚本 藤川桂介 演出 徳丸海太郎
7月 8日 第 14話 涙のワンピース 脚本 山崎忠昭 演出 徳丸海太郎
7月15日 第 15話 めざせチャンピオン 脚本 鈴樹三千雄 演出 徳丸海太郎
7月22日第16話夕陽にうたえ脚本山崎晴哉星山博之演出徳丸海太郎
7月29日 第 17話 海女の特訓 脚本 伊東恒久 演出 徳丸海太郎
8月 5日 第 18話 港にこだまする歌 脚本 山崎晴哉 演出 徳丸海太郎
8月12日 第 19話 遠い歌手への道 脚本 伊東恒久 演出 徳丸海太郎
8月19日 第 20話 帰ってきたファニー 脚本 鈴樹三千雄 演出 徳丸海太郎
8月26日 第 21話 海に歌えば 脚本 山崎晴哉 演出 徳丸海太郎
9月 2日 第 22話 のぞみのデビュー 脚本 伊東恒久 演出 徳丸海太郎
9月 9日 第 23話 まぼろしの歌手 脚本 山崎晴哉 演出 徳丸海太郎
9月16日 第 24話 知らされた秘密 脚本 伊東恒久 演出 徳丸海太郎
9月23日 第 25話 父との別れ 脚本 沖島 勲 演出 徳丸海太郎
9月30日 第 26話 心の友・心の唄 脚本 沖島 勲 演出 徳丸海太郎

ほとんど参加したスタッフがわからなくなってしまったが、11話のスタッフが、少し判明した。
 
脚本 山崎忠昭  演出 斧谷善幸
作画協力 スタジオ・テイク
美術監督 半藤克美
背景   スタジオ・ユニ
撮影監督 大岩久剛
撮影   宮内征雄
編集   伊藤 叔
音響監督 左近允 洋
効果   月岡 弘(イシダサウンドプロ)
録音   アオイ・スタジオ
現像   東京現像所

声の出演
藤山ジュンコ
平井道子

「こころのうた」
山上路夫 作詞
いずみたく 作曲
堀江美都子 唄

誰かに踏まれた 野の草も
いつか空を 振り仰ぐ
涙でなにも 見えないときも
私たちも 生きているのよ
さすらいながら 傷つきながら
明日の太陽 探しているの

原作             藤川桂介 すずき真弓
プロデューサー        岸本吉功
チーフディレクター      勝井千賀雄
アニメーションディレクター  野辺駿夫
美術監督           半藤克美
撮影監督           大岩久剛

声の出演 
藤山ジュンコ
嘉手納清美
平山道子
井上真樹夫
富田耕生
来宮良子

その後岸本 吉功 伊藤 昌典 伊藤 昌典 岩崎 正美、渋江 靖夫、沼本 清海、米山 安彦の七人は、独立してサンライズを創業することになる。

初代社長である岸本 吉功、二代目の伊藤 昌典、三代目の山浦 栄二と続いていくのであった。
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アンデルセン物語

2007年01月19日 01時57分36秒 | 虫プロ
昭和45年は9月に 「クレオパトラ」公開 され
10月には日本テレビでの日本誕生第5話「 英雄になった河童 」が放送された。
そして12月27日 ムーミン最終回 第65話 おやすみムーミンが放送され幕をおろした。

あけて昭和46年1月 3日 「アンデルセン物語」が放送開始された。

原作はいわずと知れたアンデルセン。ハンス・クリスチャン・アンデルセン である。
放映期間は昭和46年の1月3日から12月26日まで52本。
毎週日曜日の19時30分から20時まで の時間フジTV系でカラー放送 された、一本は約 22.5分であった。
 
製作 株式会社虫プロダクション
提供 カルピス食品株式会社
主要スタッフ

プロデューサー  岩崎 正美
制作補      野崎 欣宏
妖精設定     牧野 圭一
作画設定     関 修一  波多 正美
美術監督     竹内 俊英
撮影監督     原屋 楯男
編  集     尾形 治敏
音  楽     宇野 誠一郎
音響監督     田代 敦巳
効  果     柏原 満

キャスト
キャンティ    増山 江威子
ズッコ      山田 康夫

サブタイトル一覧

第 1話 みにくいあひるの子(前編)脚本 田代 淳二  演出 藤田 一郎
第 2話 みにくいあひるの子(後編)脚本 田代 淳二  演出 藤田 一郎
第 3話 イーダちゃんの花      脚本 伊藤 恒久  演出 吉良 敬三
第 4話 鉛の兵隊         脚本 吉田 喜昭  演出 杉山 卓
第 5話 がんばれママ        脚本 加藤 有芳  演出 小杉 信雄
第 6話 空とぶカバン       脚本 山本 護久  演出 神田 武幸
第7話親指姫(ケロケロ花ムコさん)脚本 藤川 桂介  演出 吉良 敬三
第8話親指姫(ぶんぶんコンテスト)脚本 藤川 桂介  演出 吉良 敬三
第9話親指姫(モックラ花ムコさん)脚本 藤川 桂介  演出 上梨 満雄
第10話親指姫(スキスキ花の王子)脚本 藤川 桂介 演出 吉良 敬三
第11話ナイチンゲール(王様のお気に入り)脚本雪室俊一演出水沢わたる
第12話ナイチンゲール(涙でニッコリ)脚本雪室俊一演出水沢わたる
第13話じゃじゃ馬エレン(しあわせは青空に脚本多地映一 演出杉山 卓
第14話じゃじゃ馬エレン(すてきなクリス)脚本多地映一演出杉山 卓
第15話 絵のある広場 脚本 松岡 清治  演出 神田 武幸
第16話魔法の火うち箱(とびだした怪獣)脚本山崎忠昭演出西谷克和
第17話魔法の火うち箱(一番ステキな宝物)脚本山崎忠昭演出西谷克和
第18話 ぼくの父さん世界一 脚本 吉田 喜昭  演出 吉良 敬三
第19話 オレの影はどこにいる 脚本 松岡 清治  演出 上梨 満雄
第20話 なかよしはいつまでも 脚本 多地 映一  演出 中村 和子
第21話 沼の王の娘(呪われた親子)脚本 山崎 晴哉  演出 中山 等
第22話 沼の王の娘(ヘルガの秘密)脚本 山崎 晴哉  演出 中山 等
第23話 沼の王の娘(愛のかがやき)脚本 山崎 晴哉  演出 中山 等
第24話 ねむりの精オーレ    脚本 多地 映一  演出 小杉 信雄
第25話 イエンスの冒険(謎のベアグル島)脚本加藤有芳 演出西谷克和
第26話 イエンスの冒険(たたかいの船出)脚本加藤有芳 演出西谷克和
第27話 旅の道づれ(ふしぎな少年)脚本 雪室 俊一  演出 杉山 卓
第28話 旅の道づれ(動きだした人形)脚本雪室俊一 演出杉山 卓
第29話 旅の道づれ(友よ!さらば)脚本 雪室 俊一  演出杉山 卓
第30話 とても信じられないこと 脚本 多地 映一  演出 神田 武幸
第31話 人魚姫(あこがれの王子さま)脚本 西川 清之 演出 上梨 満雄
第32話 人魚姫(魔女とのちかい)脚本 西川 清之  演出 上梨 満雄
第33話 人魚姫(かなしいお別れ)脚本 西川 清之  演出 上梨 満雄
第34話 王子さまはブタの番人 脚本 伊藤 恒久  演出 杉山 卓
第35話 三つのクルミ(ちっちゃな約束)脚本田代淳二演出 神田武幸
第36話 三つのクルミ(めぐりあい)脚本田代淳二 演出神田 武幸
第37話 裸の王様     脚本 鈴木 良武  演出 石黒 昇
第38話 氷姫(ルーディは人気者)脚本伊藤恒久演出 石黒 昇
第39話 氷姫(フェローネのなやみ)脚本 伊藤 恒久  演出 石黒 昇
第40話 氷姫(かなしみのバベッティ)脚本 伊藤 恒久  演出 石黒 昇
第41話 小クラウス大クラウス 脚本 吉田 喜昭  演出 神田 武幸
第42話 赤いくつ(旅のおんぼろ一座)脚本 山崎 忠昭 演出 棚橋 一徳
第43話 赤いくつ(花のコミックホール) 脚本 山崎 忠昭 演出 棚橋 一徳
第44話 天使とみつばち   脚本 城 健二    演出 上梨 満雄
第45話 野の白鳥(呪われたお城)脚本 吉田 喜昭  演出 神田 武幸
第46話 野の白鳥(イラクサのひみつ) 脚本 吉田 喜昭 演出 神田 武幸
第47話 野の白鳥(がんばれエリサ) 脚本 吉田 喜昭 演出 神田 武幸
第48話 二人の秘密     脚本 出崎 哲   演出 小林 三男
第49話 プシケ        脚本 多地 映一  演出 崎 枕(出崎 統)
第50話 雪の女王(あくまの鏡)脚本 鈴木 良武  演出 棚橋 一徳
第51話 雪の女王(死の国のたたかい) 脚本 鈴木 良武 演出 棚橋 一徳
第52話 マッチ売りの少女 脚本 雪室 俊一  演出  杉山 卓

魔法の国の妖精キャンティが魔法大学に入学するには、魔法カードを百枚集めなければならなかった。
魔法カードは、 良い行いをひとつする度に魔法大学から送られてくるカードである。
キャンティは相棒のズッコを伴ってアンデルセンのお話の世界に現れ、何か良いことをする
チャンスを探しはじめる。はたしてキャンティとズッコは百枚のカードを集めることができるだろうか?
 というのが全体の設定であった。
なお一説には魔法カードは百一枚集めるという説もある、これは、お話を良く見なければ判らないでしょう。

もうひとつの、楽しみに、演助(制作進行)に付いた者が挿入歌のシーンの絵コンテを書かせてもらえる(演出をさせてもらえる)
という楽しみもあった。これは演出家によってであったが、将来は演出もしたいという夢を持った者にとって、非常な喜びと楽しみと、夢を持つことが出来、
やりがいのある仕事として、希望に満ちたものとなった。
このことは、制作のいわっちゃん(岩崎 正美)が指導権を得ていたことが、大きな要因で、制作の気持ちが良く判っていたからだと思う。ディレクター(総監督)
がいなかったとは、思っていなかったが、演出面でいわっちゃんを助けていた、野崎ちゃん(野崎 欣宏)がいたから、といえるのではないか。
スタッフから脚本のアイディアを募集したりもして、石神井スタジオを、やる気の出る職場にしたのであった。

結果たくさんの挿入歌もできた。

「いい子になった わたし」 堀 絢子  宇野誠一郎 宇野誠一郎
「いとしのヘルガ 」     小原乃梨子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「うわー赤い靴が踊ったよ」 堀江美都子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「エントツと空」        増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「王子様に恋をしてしまった」 平井 道子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「おしゃれの好きな王様 」 増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「おやすみおやゆび姫」ヤング・フレッシュ 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「カサンドラの子守唄 」     増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「片足の兵隊」     ヤング・フレッシュ 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「カボカボおじさん 」    増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「紙のバレリーナ」   堀江美都子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「かわいい おひめちゃん」 堀 絢子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ギャングが強盗するときのうた」 辻村 真人 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「きれいな赤い靴」      増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「クリスとエレン」     堀江美都子 豊岡 晋 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「しゃべれないけどしあわせ」 堀江美都子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「白い雪」     ヤング・フレッシュ 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ぜんぜん姫 」   増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「空とぶカバン 」    堀江美都子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ナイチンゲールのうた」   平井 道子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「にせもの ほんもの 」   山田 康雄 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「はだかの王様 」 富田耕生ヤング・フレッシュ 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「一人ぼっちのボク 」   堀江美都子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「びんぼうなおいらだけど」 桜井 妙子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「不思議な少年」    田の中 勇 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ベットのお船 」    藤田 淑子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ボクの大事なパパ」    堀 絢子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「まちこがれるあなた」   増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「マッチのようにあたたかいお母さん」増山江威子 宇野誠一郎宇野誠一郎
「魔法使いのお婆さん 」    堀 絢子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ママの羽根の下 」   増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「マルコの子守唄」  増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「みにくいアヒルの子」  山田 康雄 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「みんなで悪魔をやっつけた 」ヤング・フレッシュ 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ルンペンとお父さん 」      堀江美都子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ルンペンは幸せだというお話し」 辻村 真人 宇野誠一郎 宇野誠一郎

うわー・調べたらこんなにもあった。
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氷の国のミースケ

2007年01月17日 00時27分44秒 | 虫プロ
7月ヤマハのPRアニメ「氷の国のミースケ」が公開されている。

氷の国のミースケはヤマハエレクトーン教室の生徒募集用に作られた短編アニメでした。

冷蔵庫から飛び出してきた子犬のポコに連れられて冷蔵庫から氷の世界へと冒険に出るミースケ少年。

氷の世界ではあたたかな食べ物を欲しがる少女ナリーがいた。彼女のためにあたたかな食べ物を見つけようとするのだが氷の世界ではすべてがすぐに凍ってしまう・・・・・

 手塚プロへ行って手塚先生からこの作品を見せられるまで、このようなすばらしい作品があることを知らなかった。

シーツをぬらして凍らせて、それを折って大きな紙飛行機を作り、さらにそれに乗って飛んでいく、そのすばらしさと、音楽の心踊るメロディー、私がもっとも作りたい作品の1つとなった。
1970年7月 ヤマハエレクトーンのPR映画 16分でカラー

手塚プロダクション制作

企画 日本楽器製造    (ヤマハ)

原案、構成、製作   手塚治虫

作画監督       杉井ギサブロー
仕上         池田 径子 (片山)
背景         ムクオスタジオ
撮影         菅谷 正昭
作曲         横山 菁児
音響         田代 敦巳


ミースケ        松島  みのり
ナリー         三輪  勝恵
ポコ          堀  絢子

                    
そして,のちに続編を作ったそれが 南の国のミースケ(南へ行ったミースケ)であった。
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ムーミン

2007年01月16日 10時10分03秒 | 虫プロ
ほかのお話でもそうであるが、ムーミンは、原作にとらわれることなく、お話を作っていった。それは、昔聞いたことのある、日本の昔話や、西洋の昔話であったような気がした。
 インターネットが、発達したのは、大変良いことだと思う、しかしながら、聴きたくなかった、雑音も入ってきてしまう。
原作者はこれらのムーミンを認めていない。という雑音も其の一つだし、初めに作られた2クール東京ムービーのものと、虫プロのものと、どちらがすぐれているか、などというものまである。こんなのは、ほんとうに、よけいなお世話である。当時同じアニメを作る会社として、当然ライバル心はあったが、けして、相手を陥れようなどと言うものではなく、お互い助け合っていく精神を持っていた。だから、よし良いもの、さらに子どもに喜ばれるものを、作ろうと努力をしたが、他の会社を蹴落としてまでなんて気などないのである。
 後世になって、そんな批判などさせるのは至って、心外である。
ムーミンはチーフディレクターがりんたろう(林重行)さんである、総監督なのだから、其の精神はどちらにも同じなのである。「ムーミン」ではスタッフから広く、シナリオのアイディアーを募っていた。原作があったことさえ知らないスタッフが、ムーミン初め、登場するキャラクターを、俳優として芝居させる、アイディアや、シナリオを作って行った。だから、原作とは違う。原作者が、クレームをつけるのは当然のことなのであるが、ムーミンという原作を利用した、オリジナルな、テレビアニメ、日本の「ムーミン」なのである。
先ごろお亡くなりになった、岸田今日子さんの声と相まって、日本の「ムーミン」は、多くの子供たちから愛された。その子たちはなたして、何人の子が原作を知っていたであろうか、また大きくなって、原作を読んで、イメージしていた「ムーミン」と大きく違っていたことに、気がつくのではなかろうか。
「ムーミン」の制作室は、明るかった。良い作品を作っているという自信に満ち溢れていた、徹夜続きも、安い収入にも不満を持たないですんでいた、喜びに満ち溢れていた、だから一本でもいいからと、願い出て、進行をやらせてもらった。

 その「ムーミン」が、現在不当な評価を受けている。「ムーミン」という名前がダメなのならば、ほかの名前でもいい。
再評価して欲しい作品なのである。ネガからニュープリントを起こし,是非,昔のまま手を入れずに、再上映してもらいたい作品である。

 虫プロOBとして、切なる願いである。
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ムーミン 金の馬 銀の馬

2007年01月15日 13時07分53秒 | 虫プロ
昔ある国に美しい靴磨きの少女がおりました。
その少女に王子様が恋をしました。
王子様は王様に、「お妃にしたい」とお願いしました。
王様は「身分が違う」とかんかんに怒りました。

それでも王子様は諦められませんでした。

戦争が起きて、王子様は船で戦いに出かけなければならなくなりました。
王様は、「戦争に勝って帰ってきたら、少女をお妃にしても良い」と約束をしてくれました。
喜んだ王子は、「かならず勝って帰ってくる」と少女に約束をして戦いに出かけました。

それから少女は、来る日も来る日も海岸に立って待っていました。
1年経っても二年経っても王子様は帰ってきませんでした。

それでも少女は待ち続けました。
そしてある日突然少女の姿が海岸から消えてしまったのでした。

それっきりその少女の姿を見たものはいませんでした。

戦争に行った王子様は舟と一緒に沈められてしまっていました。

つづきがあります

離れ離れで死んだ少女と王子様の想いが空の神様に届いて
二人は1年に一度、金の馬と銀の馬に姿を変えてあうことができたのでした。

満月の大きく見える島の海岸
神様が二人のために浜辺に焚き火を炊いて目印としました。

焚き火の番人は言いました。
「靴磨きの少女みたいに、優しい心の持ち主にしかその姿は見えない」
「君たちの心が優しければ、キット見えるはずだ」

そしてムーミンたちはその姿を見ることが出来たのでした。
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ムーミン

2007年01月13日 11時41分22秒 | 虫プロ
昭和44年10月に「ムーミン」の放映が始まった。
当時原作者の名前すら知らなかった。カバなのか、ピーナツに手足を付けたものなのか、そんなことはどうでも良かった。岸田今日子さんの声と相まって可愛いのであった。どんな経緯(いきさつ)で、3クール目から虫プロで制作するようになったのかは、定かでない。東京ムービーで制作していたが、ディレクターのりんちゃんあたりが、仕事のない虫プロの窮極を救おうと、回してくれたと、感謝をしていた。「日本誕生」の制作室の隣へいきなり、ムーミンの制作室ができた。そしてプロデューサーは永井安昌嗣さんであった。事務の女性も、一緒に来ていた。その後虫プロのAP岩崎 正美さんがプロデューサーとなったが、永井さんが、どうしてその後タツノコのプロデューサーとして、活躍されるようになったのかは、定かでない。
岩崎 正美さんは「わんぱく探偵団」の頃から、頭角を表し、りんちゃんや森ちゃんに高く買われていた。このムーミンでは、しっかりとした、スケジュールと経理管理で、次の「アンデルセン物語」と引き継いでいった。
「千夜一夜」以降虫プロをやめて、独立した人が多かった。また手塚作品ではないと言うこともあったのか、仮名で参加する演出家も居た。虫プロでのムーミンの主な演出家は、村野 守美、上梨 満夫さん、林 政行さん、水沢 わたるさん、奥田 誠治さん、高橋 良補さん、山本 功さん、石黒 昇さん、出崎 哲さん、館輝 正さん、などであったが、火野 車(りんたろう) 富士見崇さん、輔 逸平さんがどなたであったか、思い出せない。
その後ムーミンのような路線は、動物モノとして、名作路線というひとつの流れに位置づけられたと思うのであるが、それはこの「ムーミン」があったからだと思う。  登場するさまざまなキャラクターの豊かな個性付け、異郷の地、全体に漂う、不思議な親近感、ムーミンはそれほどしっかりした子でもなく、悩んだり、そして考え込んだりする、ムーミンは子供たちそして親たちからも暖かく迎えられた。
ムーミンのパパの文化人たる思想。
スナフキンの独特な精神。
スノークのハイソサエティー意識、
間に立って考えるムーミンとともに、子供たちにも与えるものが多かったと思う。
スナフキンの「おさびし山のブルース」にジーンと来た親も多かったと思う。
これだけ子供に受け入れられたムーミン。
 だからこそ、「おやすみムーミン」と言う形で冬眠して、お別れした。
そして再度「新・ムーミン」として登場したのであるが、ムーミンと、ムーミンの仲間たちは、それほど子供たちにとって、仲間となってしまったのだろう。
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クレオパトラ

2007年01月12日 20時31分56秒 | 虫プロ
「千夜一夜物語」が、ヒットしたので、次に「金瓶梅」をとヘラルドが言ってきたんですが、あれはアクションがなくて難しいけれど、小島功氏のイメージで行こうと思っていました。
 ところが北海道での「千夜一夜」のプレミアショーに行く車の中で、ヘラルドの社長がいきなり「クレオパトラ」はどうかと言い出して決まったんです。
 あれは僕の大変なミスでして、もっと幻想的な話かと思っていたら、実在の人物の話なので動かしがたいものがあって史実に忠実な脚色になってしまったんですね。
  (ぼくと虫プロ・巻頭インタビューより)
21世紀から3人の男女が、その精神を過去へと転送。紀元前30年のエジプトで、奴隷や侍女に取り入って、クレオパトラの時代の歴史を見極めようとする。と言う宣伝文句。
 この「クレオパトラ」は見て笑って、でも見終わると、何も残らない、現代再見してみても、当時の出来事、話題などわかっていなければ、少しも面白くない、鼻肇の「あっとおどろく為五郎!」イレブンPMを見ていない人、浪曲も聞いたことがない人に絶対にうけないギャグなのである。それらが、実に多すぎいる。一顔見せのキャラクターも、現代で存じている人は、結構な、「お宅」と言えるのではないだろうか。
 またアントニウスの家庭教師カバゴニス声優には教育評論家の阿部進さんを使い、キャラクターもカバゴンの綽名でしられた阿部さんそのものの似顔絵的なものとなっていた。
そんなギャグは、その場限りの思いつくではないかと思える、効果しかなかった。
「今流行の言葉で言えば、一つひとつのギャグが、コンテクストを形作らずに、その場面その場面の異質性、遺物性を一瞬叙述するに過ぎないと感じられた」
「長編アニメーションにおける部分と全体、部分構造と全体の構成。虫プロの第二作の長編アニメはこの点に未解決の問題を残して失敗したのではなかったか。

 そのためか翌年昭和46年9月24日日本ヘラルド映画は、虫プロに見切りをつけ、東京テレビ動画(のちの日本テレビ動画)で製作し、アニメラマをもじったポルノラマと称して谷岡ヤスジの原作で「ヤスジのポルノラマ やっちまえ!! 」を公開している。

失敗作、柳の下に泥鰌はいなかった。東京都内での年間興業収益は、「千夜一夜物語」が第3位、「クレオパトラ」が第10位とけして興行成績が悪かったわけではないが、「クレオパトラ」の製作費は、3割も増えていたので、虫プロの純益はほとんどなく、また社員にボランティアを強いたにすぎず、その隙間風に、労働組合という名の脅威が爪を伸ばしてくるのであった。
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クレオパトラ

2007年01月11日 11時50分12秒 | 虫プロ
千夜一夜物語につぐ、第二作アニメラマは「クレオパトラ」にきまりました。

山本暎一さんは、虫プロをお辞めになっていたが、手塚治虫と共同監督ということで、作品に参加していただくことになりました。
プロデューサーは「おとぎプロ」の横山隆一先生の次男横山隆二さんに依頼したが事情があって降板し 営業部にいた米山安彦さんがプロデューサーとなりました。
キャラクターデザインに昭和44年暮れ手塚先生が「小島功さん」に依頼しました。
音楽は冨田勲、そして手塚先生の構想をシナリオにしていただいたのが、新劇の「自由劇場」の里吉しげみさんでした。

製作は第二スタジオでおこなわれ最終的には「あしたのジー」班「ムーミー」班も協力しました。
また4人の宇宙人が会議をしているシーンでは実写の人物にエリアル合成で顔をアニメに変えています。

杉井ぎさぶろうさんの線画の怪しいシーンが映倫でカットされるという名誉?なこともありました。
6月26日 「千夜一夜物語」のときと同じ新宿ミラノ座、渋谷パンティオン、松竹セントラル、でロードショーが行われました。

 アニメーションは子供のためのものだけではない。おとなのためのアニメーションがあってしかるべきだ。という私の持論を実証するため作った、《アニメラマ》「千夜一夜物語」はおかげさまで大ヒットしました。
 新しいアニメーションを目指した「千夜一夜物語」は“大人のため”という意図をある程度表現できたと信じておりますが、何分にも世界で始めての試みだったので、まだまだやってみたい冒険が残っています。
 この《アニメラマ》第二作「クレオパトラ」は第一作の経験を十分に生かし、さらに新しい可能性を求めて数々の冒険をしています。この新しく、そしてエロティシズムをたっぷり盛り込んだこの作品は前作よりも、もっとバラエティ・ショー的であり、アニメの楽しさを表現できたと信じております。この作品がひろく皆さまに愛され、楽しんでいただけることを心から願っています。
       手塚治虫

友情 一顔 出演
「千夜一夜物語」では、大橋巨泉、前田武彦、らの、人気タレントや人気作家の“一声出演”で話題をまきましたが、「クレオパトラ」では、人気漫画の主人公たちが一顔出演しています。
赤塚不二夫さんのニャロメ、バカボンのおやじ、イヤミ
長谷川町子さん サザエさん
白土三平さん    カムイ
藤子不二雄さん  オバQ
東海林さだおさん ジョージ君
鈴木義司さん   キザッペ
佃公彦さん    ほのぼの親子
園山俊二さん   ギャートルズのおやじ
富永一郎さん   チンコロねえちゃん
福地泡介さん   ドタンコ
秋竜山さん    Oh!ジャリーズ
永井豪さん    ヒゲゴジラ
ジョージ秋山さん 銭ゲバ
手塚治虫さん   鉄腕アトム、ひげおやじ
       などです

この作品も配給収入はそんなに悪くは無い結果でしたが、製作費がオーバーしています。
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日本誕生 2

2007年01月10日 11時03分55秒 | 虫プロ
6月1日 寝耳で水のリテークが暎一さんから出た。放送まであと10日、フィルムは完成していた。稲を刈るシーン、現代のように、鎌で根元を刈るのではなく、当時は石器なので、穂先を手に持った石器で刈り取って居たはずである、と言うのが、リテークの理由であった。稲作文明の伝来が、主なテーマなので、かなりのシーンが、リテークの対象となってしまう。2話3話も当然リテークになる事となる。

 そこまで何も細かいことは、とか、漫画なのだから、とか、予算がかなりオーバーしてしまいます、とか、たかが進行に毛の生えた者が言っても、聞き入れられるはずも無かった。

この緊急事態に、対象となる、リテークカットの数を調べ、スケジュールを建て直し、予算を経理に提出しなおした。

予想に反して経理では、あっさりと認められた。暎一さんは、あくまで元役員、ここで、おりられたら元も子も無くなる、まして、クレオパトラも担当していたからで、泣くこと地頭には勝てなかった、虫プロの弱さがあった。

作画担当の瀬山さんと打ち合わせすぐに修正の作業に貫徹で望んだ、トレスマシン掛けや彩色までやった。背景美術の富田美穂さんも手伝ってくれた。翌2日2話のリテーク作業も始めたが、暎一さんが行方不明で作業できず、撮影出しの準備をしたまま深夜まで待機する。

それでも6月14日には水野英子さんの家でパーティーがあり、練習場を借りていた関係から虫プロバンドが呼ばれ、午後3時から11時過ぎまで楽しむという余裕もあった。
「日本誕生」は以下の日に放送された。

1 稲をもってきた河童 昭和45年 6月 1日
2 邪馬台国に住んだ河童 昭和45年 6月17日
3 大和の裏切り河童 昭和45年 6月24日

4 日出ずる国の河童 昭和45年10月17日
5 英雄になった河童 昭和45年10月24日

なお、昭和48年8月 瀬山 義文氏はお亡くなりになっております。
瀬山さんとは、演出家としての瀬山さんと、お付き合いが多かったと思うのですが、この作品では作画監督というお立場で、お付き合いいたしました。
 今とは違い、キャラクターを、キャラクターどおりに描けるのが、上手なアニメーターと言われていた時代の、数少ないプロのアニメーターでした。
心から、お悔やみ申し上げます。
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日本誕生

2007年01月08日 00時33分59秒 | 虫プロ
2月6日金曜日 火曜会によるスキーバス旅行があった、8日日曜日までの一泊3日であった。この時捻挫をしてしまうが、のちまでそれが災いして、ビッコをひくようになり直るまでずいぶんかかってしまった。
また、暎一さんも足を痛めていた。

平成16年に起きた、新潟県中越地震で、車の中など狭い場所で避難生活を続けたために血管に血の塊いわゆる血栓ができて肺に詰まるエコノミークラス症候群で3人が死亡したことから、小千谷市で住民およそ750人を対象にした大がかりな検査が始まりました。というニュースを目にした。
エコノミークラス症候群 とは飛行機の旅行中に起こる可能性のある深部静脈血栓症で、エコノミークラスの狭い座席に長時間座っていると、ももや足の静脈に血栓(小さな血の塊)が出来、立ち上がると、血の塊が肺に飛んで血管に詰まる。その結果、呼吸困難、脈の増加、胸の痛み、意識不明・・・などの症状が起こり得ます。とあった。

新潟県中越地震で車の中や避難所で避難生活をした人の間では、1年経ってもエコノミークラス症候群の原因となる血のかたまり、血栓が通常より3倍も高い割合で見つかったことが新潟大学の調査でわかりました。などのニュースもその後ありました。

千夜一夜では、何時間も動画机の椅子座ったままの状態で、寝るのも、そのままの状態で寝ていた。まだこんな病気が,あることさえ知らない時代。内海君初め多くの人がなくなっているが、この病気の人も居たのではなかったかと、思い当たることが多くあります。
私や、暎一さんもその可能性が合ったわけです。

その後を列挙すると
13日には、ボーリング大会も会った。映画も良く見に行っている、「ワイルドパンチ」「レーサー」や「ハニーヒル」「ラブバック」「オリバー」の記述が見える。

3月14日 すでに3話の撮影出しをしていた
3月16日 暎一さんが飲みに行ってしまうと、撮影出しを中止するしかなかった。
3月17日第3話で頭を悩ませる。とある大量のリテークがあった。18日は大幅な修正が出たので打ち合わせをしている。今までの1話や2話もなおさなければならなくなる。やさしいライオンの作業もしている。

3月22日隣の部屋がムーミンの制作室となった。ムーミンのお手伝いなども、している。

3月27日 漫画のほうでの「力石の葬儀」が、テレビのナイトショーで放送された。

3月31日のっとり事件よど号乗っ取り事件が起き、長い時間テレビの実況中継が行われた。

4月1日 日本テレビで打ち合わせ 「日本誕生」が5話になる事が決まる。
4月7日 打ち合わせのあと、一度家に帰り着替えを持って、泊り込み体制。3話のリテークの彩色までしている。14日になると余裕ができたのか 安達、若尾、古川、と麻雀をしている。今考えると、寝ればいいのにと思う。
29日には映画を見に行っている。「クリスマス・ツリー」「華麗なる週末」「ミニミニ大作戦」作業が終わったらしいことがわかる。

5月1日メーデーに参加して車を運転して先導している。それまでキャロルに乗っていたが
ブルーバードに変えたキャロルは槻間さんへ、譲っていることがわかった
5月8日 内海君の結婚式打ち合わせを手塚先生のお母さんと行っている9日トレッシングマシンを購入。早速ましんでトレスしている
5月11日のことが少しわかる。11時暎一さんと撮影検査し撮影に出している。1時には給料が出て、暇を見つけて銀行へ貯金しに行っている。4時から暎一さんは「クレオパトラ」の打ち合わせに行っている。7時から撮影出し検査を再開し泊り込んで翌朝暎一さんが来たところで10時から12時まで撮影だしをした。夜10時過ぎから2時半ごろまで内海君のアパートへ、3時から撮影出しの準備、10時から1話撮影出し翌朝4時寝る。
14日昨夜11時半、内海君が死亡の報せを受ける、夕方、手塚先生のお母さん、えのちゃん、増田さん、らと内海君の八街町の実家へ行っている。15日内海君の結婚式場をキャンセル
16日八街の葬儀に参列。17日1話撮影だしの続き24日2話のリテーク、26日撮影検査、27日撮影検査、28日撮影検査、29日金曜日撮出しがアップして暎一さんが旅行に行く。30日 土 2時からエリザベステーラーの「クレオパトラ」を、見に行く
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