真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

ミースケ

2007年01月22日 01時19分10秒 | 虫プロ
ミースケとは、手塚先生のアシスタントの仇名であった。
イケポンという人も居たし、チーチャと言う人も居た。先生の主人公の名前にアシスタントの仇名や名前を使うことは有名であった。
 絵本などの出版モノを手塚先生のマネージメントをしていた、斉藤さん平田さん、そして先生の甥の手塚卓さんが、ひろみプロダクションを手塚プロの近くの電気やさんの2階に作っていた。手塚先生のマネージャーを兼任してであった。
平田マネージャーから、映画部の鈴木さんを紹介された。

 手塚先生が是非見てもらいたい作品があると言われ、先生の隠し部最上階の屋7階にある部屋で「氷の国のミースケ」を見せられた。音楽もよくお話も私の好きな話で、多分私は目をきらきらと輝かせて居たと思う。

「ヤマハのCM用フィルム、だけど、今年又注文が来たのだよ、一緒に作らないか」というのである。ことわれるはずも無い、一も二も無く、ことわりなんぞしたら地獄に落ちてしまうであろう。
当然お願いした。

今度は南国の話にしようと言う、
ミースケの家の戸棚からチーチャとイケボーが飛び出してきてふたりはお母さんを助けるため、神様ドンタンが出題する問題を解かなくてはならなくなる、ミースケに協力を求める、ミースケは戸棚を通って南の国へ行き チーチャとイケボーを助ける。

 絵コンテはやはり遅れたが、作画は正延さんのスタジオTAKEへ美術設定は西田稔さんに頼みムクオスタジオで描いて貰った。仕上は絵本でセルにトレス彩色をしていた、ベテランの池田径子さんに依頼彼女は、貫徹してまで仕上げを上げた。

音響は尊敬するタックの田代敦巳さん、打ち合わせのとき、アメリカでセサミストリートと言う番組が、子供たちの間で流行っているが、日本でも子供向けの良い番組を作るべきだ、と私に説明してくれた(のちにそのアイディアは日本昔話へと変化して行ったと、私は思っている)

撮影は鈴木制作部長の友人の菅谷さんを紹介され、使って欲しいと頼まれた。自宅を増築して、撮影機を取り付け独りで撮影外注としてやっていた。ギャランGTOMRを乗って珊瑚や、貝殻の輸入販売もしていた。

撮影出しの時になって、手塚先生が、背景のイメージが違う、もっとジャングルらしく羊歯類を書き込んで欲しいと、動画用紙に書き込んだ、確かに良くなる、しかし背景美術の西田稔さんにどのように直しを頼めばよいのか、すでに背景はすべて描き上がっていた。

先生のスケッチを持って西田稔さんに説明した、手塚プロの2階ですべての背景を修正し始めた、背景だけはお手伝いできない、筆を洗ったり、汚れを拭いたりぐらいしかできなかったが次の日から始まった撮影出しが終わるまでには、すべて独りでなおしてしまった。

これが虫プロの人たちの虫プロスピリットである、何事も無かったような顔押していた、見事であった。

ラッシュを見た、すっかり背景はジャングルらしくなった。でもお話は、「氷の国の」のほうが私は好きであった。
私の名前は出なかった。でも作ったのは私。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 手塚治虫 虫プロ社長辞任 | トップ | ふしぎなメルモ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

虫プロ」カテゴリの最新記事