共産中国の建国後、暫くはソビエトを参考にした政策、組織作りをしましたが、毛沢東の失政で経済はあまり成長しませんでした。 鄧小平は独創的な政策を導入して、経済の再建を進めたのです。
今回は、中国の発展の基礎を築いた鄧小平の政策について纏めてみました。この政策は大成功しましたが、国内消費率を高くする政策/努力をし無かった為に、貿易摩擦を起こし、ファーウェイの問題に繋がって来たのだと私は思います。
【中国の工業化】
清朝の末期から工業化を進めようとしましたが、なかなか旨く行きませんでした。 1905年に日露戦争に勝利した日本が、満州で鉄道の敷設や工業化を進めました。
清朝の滅亡は1912年2月ですが、蒋介石の中華民国政府が中国を統一したのは1928年です。 蒋介石はドイツの協力を得て、工業化を進めようとしますが、戦争が続いために、日本の様に近代化出来ませんでした。
毛沢東は、建国後すぐに外国資本、民族資本の企業を接収して国有化しました。1955年頃には私企業、個人企業を国有化しました。 詳しく知りたい方は、『中国国有・国営企業の形成 : その過程と特徴、張 英莉』で検索してみて下さい。
【中国の戸籍制度】
1953年頃から、都市部の工業地帯に農村から仕事を求めて人が移動する問題が発生し、戸籍制度が全国的に導入される様になったのです。 農村に住む人は”農村戸籍”、それ以外は”都市戸籍”に登録されました。 農村から都市部に、勝手に移動・移住するのを制限するために、二種類の戸籍にしたのです。 (都市戸籍の人の移動は自由です。)
鄧小平は、改革開放政策で発展し始めた地域に農村から過剰な人が流れ込まない様にする為、この戸籍制度を維持しました。 近年、習近平は、一人っ子政策の後遺症で労働人口が減少していく対策として、農村戸籍の人が都市部に移動・移住する制限を緩和して来ています。
【ニクソンの中国訪問】 1972年
1953年にスターリンが亡くなり、フルシチョフがソビエトの指導者になりました。 1956年に、フルシチョフがスターリン批判をした後、中ソは対立する様になって行きました。
ニクソン大統領は、”米/中ソ”の対立構図を⇒”米/中/ソ”の三角関係するために、1972年に中国を訪問しました。 カーター大統領と鄧小平によって、1979年、米中の国交は正常化されました。
【鄧小平の改革開放政策】 1978年
建国後、30年経った1978年12月に鄧小平が改革開放政策を導入しました。 (毛沢東は、1976年9月に亡くなっていました。)
鄧小平は、大胆で柔軟な考え方をする指導者だった様で、社会主義や共産主義に反する政策を立案したのです。 国民が平等に豊かになるのは無理だから、一部の人が先に豊かになったら、周りも豊かになってくる。 全国を一斉に工業化するのは無理だから、一部の地域から開発していく。
近代的な工場を建てる資金、ノウハウ、工学の知識・経験など、全く無い状態では外国からの投資を得る事が不可欠です。 投資を呼び込むためには、治安の悪化は何としても避けなければなりません。 『ファーウェイの問題(その2)』で取り上げました、少数民族問題を抱えていますから、外国人の立ち入りを制限する地域を設け、抵抗運動や弾圧の現場を見せなくする必要が有りました。
以下の①~④の厳しい条件付きで外国企業が中国に投資する事を認めました。 中国が”世界の工場”と呼ばれるほど、物作りが盛んになったのは、外資系企業が多数出来て、成長したからです。 外貨獲得には国有企業は殆ど貢献していません。
① 中国企業との合弁しか認めない
② 技術移転を強要 (技術やノーハウを無償で提供させる)
③ 共産党員の採用を要求 (自分の金で、その会社を調査するスパイを雇うに等しい)
④ 厳しい撤退条件 (会社の解散には認可が必要)
【外国企業の思惑】
中国から厳しい条件を課せられたのに、多くの企業が投資したのは①~③が魅力的に思えたのだと想像します。 失敗して撤退した企業もある様ですが、生産拠点を完全に中国に移した企業もあります。
① 安価な労働力 (中国政府は、職業訓練に力を入れてきました。)
② 巨大な潜在マーケット :改革開放を始めた時の人口は、既に10億人も有りました。
③ 用地確保が比較的容易 :個人所有の土地は皆無ですから、手間暇の掛かる地上げ必要有りません。
【国有企業の改革と脅威】
鄧小平は、試行錯誤しながら国有企業を改革して、他の共産主義国のでも資本主義国のでも無い独特の企業にして行きました。 国有企業の終身雇用制度を廃止して、株式会社化しました。国有企業が儲けた金を内部留保できるようなっています。
赤字の国有企業も多い様ですが、外資系企業と競合しない分野では、莫大な利益を上げている巨大な国有企業(中国石油天然気集団、国家電網公司など)も多数有ります。 その内部留保金で海外の企業を買収し始めているようです。 自由勝手な企業買収を許していたら、大変な事になってしまいます。
【労働/賃金改革】
国有企業も含めて、(国家が決めるのでは無く、)企業が必要な従業員の数、新規採用、賃金を決められる様にして行きました。 利益が沢山出ている企業は、高給を出せる様になったのです。 1986年には労働保険制度や失業保険制度が始まり、1988年にはハローワークに相当する機関も設けました。
【鄧小平の農業改革】
毛沢東は、紅軍が支配した地域の地主や裕福な農家から農地を取り上げ、小作人に均等に与えて支持を拡大していました。 建国後、直ぐに都市部の土地は国家所有になりましたが、農村の土地は1950年代から少しずつ集団所有にして、集団農業を導入していきました。 1978年には、全て集団所有か国家所有になりました。
鄧小平は、農地を全て集団所有にしましたが、効率の悪い集団農業から、農民個人に土地を貸して目標以上の収穫は農民が貰える制度(生産責任制)に変更したのです。 北朝鮮でも、金正恩は2013年から、同じ様な方式(圃田担当責任制)を採用して、成果を上げている様です。
(余談) 都会で育った方は、種や苗を植えて置けば作物が育って収穫が出来ると思われるかも知れません。 農業は”工夫の固まり”です。 病気や害虫が発生していないか?肥料不足/過多になっていないか? 何時収穫するか? 来年はどんなん品種を植えるか?・・・日本の頭の良い農家は想像以上の収益を上げますが、決して他人にはノーハウを教えません。 私の持論ですが、農業は共産主義には向かないのです。
【一人っ子政策】 1979年から2015年
明朝末期の1600年(関ヶ原の合戦)頃の中国の人口は1.6億人、1900年頃は4.0億人でしたが、1950年頃から急激に増加して、鄧小平が一人っ子政策を始める頃には10億人にもなっていました。 人口増加を放置出来る状況では無かったのです。 (何も対策を講じなかったら、2018年には、人口は20億人を超えていたと思われます。)
”一人っ子”運動は1962年から始まりましたが、文化大革命の時に中断されていました。 鄧小平は法律を制定し、膨大な金を投入して監視組織(国家衛生・計画出産委員会)を整備し、厳格に”一人っ子政策”を推進したのです。 その結果、40年後の2017年時点の人口は13.9億人です。 ただし、違法に生んだ”無戸籍者”が1,300万人ほどいると言われています。
2015年から”二人っ子政策”に変更されましたが、”一人っ子政策”の後遺症で、今後急激に(日本以上に)高齢化が進みます。 然し、高齢化による社会保障費の増加は、(1)~(7)に述べる状況から、中国政府は旨く乗り切れるのではないかと、私は見ています。
(1) 労働人口の減少 : 開発の進んでいない地域の“農村戸籍”の人を、労働力が不足する地域に移動させれば、問題を緩和する事が出来ます。
(2) 平均寿命 :2018年のWHO(世界保健機関)のデータによると、中国の平均寿命は男性75.0歳、女性歳77.9です。(日本は、男性81.1歳、女性87.1歳) 年金支給年齢を日本と同じにすれば、受け取る期間が短くなります。
(3) 年金制度 : 中国の年金制度は、非常に複雑です。 地域や職業によって現役時代の所得が大幅に異なるため、年金支給額も差を付けているわけです。 そのため、国家が一元的に管理するのではなく、地方行政機関が年金制度を運用しています。 それぞれの地域の平均所得の40%~50%を支給している様です。 日本は、少しずつ支給率を下げてきていますが、老人は大人しく我慢しています。
(4) 年金支給年齢 : 中国の年金開始年齢は法律で決められた定年退職年齢で、男性60歳、女性50歳です。 日本は過渡期ですが、もうすぐ男女とも65歳になります。 中国には、支給開始年齢を引き上げる余裕があります。
(5) 生活保護制度 : 中国にも生活保護制度が有りますが、2011年に大幅に改善された後でも、一か月の支給額は平均約3,000円で、我が国の1/30程度です。 (働かざる者食うべからず!)
(6) 医療保険制度 : 社会主義の根源と思われる”平等”の考え方とはほど遠い、非常に複雑な公的医療保険制度になっています。 全国一律ではなく、地域によって被保険者の負担と恩恵が違います。 サラリーマンは強制保険に入りますが、その家族は別に任意保険に入る必要があります。 現状よりも多少負担を重くして、恩恵を少なくしても、それぞれの地方の問題と言う事になります。
(7) 医師の給与 : 中国の医師の平均給与は、我が国の1/10程度しか有りません。 日本の様な医師達の圧力団体が有りませんから、医療の人件費が高騰する恐れは少ないと思われます。
☆☆ 鄧小平は、92歳で1997年に亡くなりました。
今回は、中国の発展の基礎を築いた鄧小平の政策について纏めてみました。この政策は大成功しましたが、国内消費率を高くする政策/努力をし無かった為に、貿易摩擦を起こし、ファーウェイの問題に繋がって来たのだと私は思います。
【中国の工業化】
清朝の末期から工業化を進めようとしましたが、なかなか旨く行きませんでした。 1905年に日露戦争に勝利した日本が、満州で鉄道の敷設や工業化を進めました。
清朝の滅亡は1912年2月ですが、蒋介石の中華民国政府が中国を統一したのは1928年です。 蒋介石はドイツの協力を得て、工業化を進めようとしますが、戦争が続いために、日本の様に近代化出来ませんでした。
毛沢東は、建国後すぐに外国資本、民族資本の企業を接収して国有化しました。1955年頃には私企業、個人企業を国有化しました。 詳しく知りたい方は、『中国国有・国営企業の形成 : その過程と特徴、張 英莉』で検索してみて下さい。
【中国の戸籍制度】
1953年頃から、都市部の工業地帯に農村から仕事を求めて人が移動する問題が発生し、戸籍制度が全国的に導入される様になったのです。 農村に住む人は”農村戸籍”、それ以外は”都市戸籍”に登録されました。 農村から都市部に、勝手に移動・移住するのを制限するために、二種類の戸籍にしたのです。 (都市戸籍の人の移動は自由です。)
鄧小平は、改革開放政策で発展し始めた地域に農村から過剰な人が流れ込まない様にする為、この戸籍制度を維持しました。 近年、習近平は、一人っ子政策の後遺症で労働人口が減少していく対策として、農村戸籍の人が都市部に移動・移住する制限を緩和して来ています。
【ニクソンの中国訪問】 1972年
1953年にスターリンが亡くなり、フルシチョフがソビエトの指導者になりました。 1956年に、フルシチョフがスターリン批判をした後、中ソは対立する様になって行きました。
ニクソン大統領は、”米/中ソ”の対立構図を⇒”米/中/ソ”の三角関係するために、1972年に中国を訪問しました。 カーター大統領と鄧小平によって、1979年、米中の国交は正常化されました。
【鄧小平の改革開放政策】 1978年
建国後、30年経った1978年12月に鄧小平が改革開放政策を導入しました。 (毛沢東は、1976年9月に亡くなっていました。)
鄧小平は、大胆で柔軟な考え方をする指導者だった様で、社会主義や共産主義に反する政策を立案したのです。 国民が平等に豊かになるのは無理だから、一部の人が先に豊かになったら、周りも豊かになってくる。 全国を一斉に工業化するのは無理だから、一部の地域から開発していく。
近代的な工場を建てる資金、ノウハウ、工学の知識・経験など、全く無い状態では外国からの投資を得る事が不可欠です。 投資を呼び込むためには、治安の悪化は何としても避けなければなりません。 『ファーウェイの問題(その2)』で取り上げました、少数民族問題を抱えていますから、外国人の立ち入りを制限する地域を設け、抵抗運動や弾圧の現場を見せなくする必要が有りました。
以下の①~④の厳しい条件付きで外国企業が中国に投資する事を認めました。 中国が”世界の工場”と呼ばれるほど、物作りが盛んになったのは、外資系企業が多数出来て、成長したからです。 外貨獲得には国有企業は殆ど貢献していません。
① 中国企業との合弁しか認めない
② 技術移転を強要 (技術やノーハウを無償で提供させる)
③ 共産党員の採用を要求 (自分の金で、その会社を調査するスパイを雇うに等しい)
④ 厳しい撤退条件 (会社の解散には認可が必要)
【外国企業の思惑】
中国から厳しい条件を課せられたのに、多くの企業が投資したのは①~③が魅力的に思えたのだと想像します。 失敗して撤退した企業もある様ですが、生産拠点を完全に中国に移した企業もあります。
① 安価な労働力 (中国政府は、職業訓練に力を入れてきました。)
② 巨大な潜在マーケット :改革開放を始めた時の人口は、既に10億人も有りました。
③ 用地確保が比較的容易 :個人所有の土地は皆無ですから、手間暇の掛かる地上げ必要有りません。
【国有企業の改革と脅威】
鄧小平は、試行錯誤しながら国有企業を改革して、他の共産主義国のでも資本主義国のでも無い独特の企業にして行きました。 国有企業の終身雇用制度を廃止して、株式会社化しました。国有企業が儲けた金を内部留保できるようなっています。
赤字の国有企業も多い様ですが、外資系企業と競合しない分野では、莫大な利益を上げている巨大な国有企業(中国石油天然気集団、国家電網公司など)も多数有ります。 その内部留保金で海外の企業を買収し始めているようです。 自由勝手な企業買収を許していたら、大変な事になってしまいます。
【労働/賃金改革】
国有企業も含めて、(国家が決めるのでは無く、)企業が必要な従業員の数、新規採用、賃金を決められる様にして行きました。 利益が沢山出ている企業は、高給を出せる様になったのです。 1986年には労働保険制度や失業保険制度が始まり、1988年にはハローワークに相当する機関も設けました。
【鄧小平の農業改革】
毛沢東は、紅軍が支配した地域の地主や裕福な農家から農地を取り上げ、小作人に均等に与えて支持を拡大していました。 建国後、直ぐに都市部の土地は国家所有になりましたが、農村の土地は1950年代から少しずつ集団所有にして、集団農業を導入していきました。 1978年には、全て集団所有か国家所有になりました。
鄧小平は、農地を全て集団所有にしましたが、効率の悪い集団農業から、農民個人に土地を貸して目標以上の収穫は農民が貰える制度(生産責任制)に変更したのです。 北朝鮮でも、金正恩は2013年から、同じ様な方式(圃田担当責任制)を採用して、成果を上げている様です。
(余談) 都会で育った方は、種や苗を植えて置けば作物が育って収穫が出来ると思われるかも知れません。 農業は”工夫の固まり”です。 病気や害虫が発生していないか?肥料不足/過多になっていないか? 何時収穫するか? 来年はどんなん品種を植えるか?・・・日本の頭の良い農家は想像以上の収益を上げますが、決して他人にはノーハウを教えません。 私の持論ですが、農業は共産主義には向かないのです。
【一人っ子政策】 1979年から2015年
明朝末期の1600年(関ヶ原の合戦)頃の中国の人口は1.6億人、1900年頃は4.0億人でしたが、1950年頃から急激に増加して、鄧小平が一人っ子政策を始める頃には10億人にもなっていました。 人口増加を放置出来る状況では無かったのです。 (何も対策を講じなかったら、2018年には、人口は20億人を超えていたと思われます。)
”一人っ子”運動は1962年から始まりましたが、文化大革命の時に中断されていました。 鄧小平は法律を制定し、膨大な金を投入して監視組織(国家衛生・計画出産委員会)を整備し、厳格に”一人っ子政策”を推進したのです。 その結果、40年後の2017年時点の人口は13.9億人です。 ただし、違法に生んだ”無戸籍者”が1,300万人ほどいると言われています。
2015年から”二人っ子政策”に変更されましたが、”一人っ子政策”の後遺症で、今後急激に(日本以上に)高齢化が進みます。 然し、高齢化による社会保障費の増加は、(1)~(7)に述べる状況から、中国政府は旨く乗り切れるのではないかと、私は見ています。
(1) 労働人口の減少 : 開発の進んでいない地域の“農村戸籍”の人を、労働力が不足する地域に移動させれば、問題を緩和する事が出来ます。
(2) 平均寿命 :2018年のWHO(世界保健機関)のデータによると、中国の平均寿命は男性75.0歳、女性歳77.9です。(日本は、男性81.1歳、女性87.1歳) 年金支給年齢を日本と同じにすれば、受け取る期間が短くなります。
(3) 年金制度 : 中国の年金制度は、非常に複雑です。 地域や職業によって現役時代の所得が大幅に異なるため、年金支給額も差を付けているわけです。 そのため、国家が一元的に管理するのではなく、地方行政機関が年金制度を運用しています。 それぞれの地域の平均所得の40%~50%を支給している様です。 日本は、少しずつ支給率を下げてきていますが、老人は大人しく我慢しています。
(4) 年金支給年齢 : 中国の年金開始年齢は法律で決められた定年退職年齢で、男性60歳、女性50歳です。 日本は過渡期ですが、もうすぐ男女とも65歳になります。 中国には、支給開始年齢を引き上げる余裕があります。
(5) 生活保護制度 : 中国にも生活保護制度が有りますが、2011年に大幅に改善された後でも、一か月の支給額は平均約3,000円で、我が国の1/30程度です。 (働かざる者食うべからず!)
(6) 医療保険制度 : 社会主義の根源と思われる”平等”の考え方とはほど遠い、非常に複雑な公的医療保険制度になっています。 全国一律ではなく、地域によって被保険者の負担と恩恵が違います。 サラリーマンは強制保険に入りますが、その家族は別に任意保険に入る必要があります。 現状よりも多少負担を重くして、恩恵を少なくしても、それぞれの地方の問題と言う事になります。
(7) 医師の給与 : 中国の医師の平均給与は、我が国の1/10程度しか有りません。 日本の様な医師達の圧力団体が有りませんから、医療の人件費が高騰する恐れは少ないと思われます。
☆☆ 鄧小平は、92歳で1997年に亡くなりました。