11/16 私の音楽仲間 (534) ~ 私の室内楽仲間たち (507)
息をのむ
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室内楽で Viola
Lacrimosa dies illa
Qua resurget ex favilla
Judicandus homo reus.
涙の枯れぬ その日には
起き上がるよ 焼けた灰から
裁きの場へと 罪ある者が。 (拙訳)
第8曲は “Lacrimosa”。 ただし、Mozart が “参加” したの
は、上の歌詞の部分まで。 最初の8小節間だけです。
その先は、ズュ―スマイアが懸命に補い、30小節から成る曲
を作りました。 全体は、なかなかの出来栄えではある。
しかし、最初の8小節がもたらす感銘は、やはり圧倒的です。
聞き終わっても、この冒頭部分しか、私の場合は記憶に残って
いないのです。
さて、今回は弦楽器用の編曲版ですから、もちろん
歌詞がありません。 各パートは、原曲のあちこちの
動きを拾い集めながら、作られている。
Viola だけ見ても様々です。 Violin、チェロ、バセット
-ホルン、トロンボーン。 声のパートでは、独唱バス、
合唱アルト、合唱テナー…。
どのパートも、音域が原曲よりオクターヴ上になること
があります。 すべてを四声部に減じて表現するのです
から、それは止むを得ない。
そうでもしなければ、有り余る制約を乗り越えられず、
原曲の感動に近づくことは出来ないでしょう。 編曲者
リヒテンタールの苦労が、しのばれます。
しかし物事は、本当に難しい…。
“良かれ” と思って断行した改変が、
裏目に出ることもあるからです。
[譜例 1]は、曲の冒頭。 原曲のスコアで、弦楽器
と合唱の部分だけをご覧いただいています。
3小節目からは、合唱が加わります。
Lacrimosa dies illa
涙の枯れぬ その日
[譜例 2]は、編曲版の Viola パート。 音程など、細かい
事柄は抜きにして、後半の二段目だけをご覧ください。
それも、音符の長さだけ。
二段目は、ほとんどが付点四分音符。 そして最後だけ、
細かい動きに変わります。
今回の記事で扱う問題点は、このことだけです。
[演奏例の音源]は原曲ではなく、編曲版のほうです。
さて、この編曲版での改変は、音域だけではない。
音符の長さまで、変更されていました。
[譜例 3]は、原曲の5~8小節です。 二段目を、
上の譜例と見比べてください。
↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑
(1) 原曲の5、6小節目は、休符が頻繁にある。 特に
合唱部分では、歌詞が切れ切れになっています。
しかし編曲版では、これが長い音符に変わり、切れ目の
無い歌になってしまった。
(2) 続く7、8小節目は、原曲でも “長音符” が現われる。
編曲版では前から続いていますが、違うのは最後の小節。
原曲の “長音符” は、“細かい音符で反復” されている。
こうすれば、弦楽器は弓を頻繁に返せます。 したがって、
音量が出やすくなる。 「四つの楽器、四つの声部しか無い」
…という “非力ぶり” も、少しは解消できます。
ところが、歌詞との関係を見てみましょう。 問題は
それほど単純でないことが解ります。
小節ごとに歌詞をご覧いただくと、次のとおりです。
5、6小節目 Qua resurget ex favilla
起き上がるよ 焼けた灰から
7、8小節目 Judicandus homo reus.
裁きの場へと 罪ある者が。
(この拙訳は、ほぼ逐語訳になっています。)
原曲で切れ切れになっているのは、この譜例の
前半です。 「おずおずと身をもたげる」…。
でも、一体誰が? 聴き手が目を見張り、息を
飲むような光景が、巧みに表現されています。
それに引き換え、7、8小節目のドラマチックな
帰結はどうでしょうか。 起き上がるのは死者で、
これから審判の場へ向かうというのです。
それまでの休符は無くなり、クレシェンドと共に、
一気に頂点へ!
オペラ作家としての Mozart。 その手腕は、この
僅か8小節間でも示されているのではないでしょう
か。 題材となった歌詞は、典礼文の “ありふれた”
とも言える一節なのです。
涙を誘われずして聞けない、この “Lacrimosa”。
単語の意味は、まさに “涙が一杯の” です。
それまでの誰が、いや、その後の誰が、これを
超える “Lacrimosa” を残したでしょうか?
[レクィエム 音源ページ]